投稿

2月, 2014の投稿を表示しています

目の前のことをしたり、さぼったり

予定と課題を抱えていると、ゆっくりと文章を書く暇がなくなる。 すべきことができなくなる。 30分文章を書く時間があったとすると、 その前後に見えない、数えられない時間が必要ということを感じる。 気持や状況を整える時間が必要。 ところが、あればできるかというと、 そういうわけでもない。 ありすぎても、いけないし、なくてもいけない。 先週は、なさすぎて、余裕がありませんでした。 昨日は、ありすぎて、逃避しました。 なくてもできない。 あってもやらない。 結局しない。 これではいけない。 自戒を込めて。

ぼろ家ではなくて、トトロの家になるという…

イメージ
■娘とトトロを見ています 最近、娘とDVDで「となりのトトロ」を見ています。 2歳8ヶ月を過ぎた娘は、「トトロを見たい」と、要望をしっかりと出してくるようになって、成長にも目を細めたり。 映画を見ながら、あるいは見終わったあと、 「トトロこうしてたねぇ」とか、「こうだったねぇ」と、映画のなかのワンシーンをまねしたり、感想をしゃべったり。幼児ながらにすっかりと、映画の世界を楽しんでいるご様子。 ■トトロを見て思ったこと そんなこんなで、ふと思ったこと。 映画の中で、主人公のさつきちゃんと、めいちゃんは、田舎のぼろーいお家に引っ越してくるわけです。本人たちいわく、 「おばけ屋敷みたーい」。 「わー!ボロ!」 「腐ってる!」 さんざんなわけです。 ところが、本人たちは、そんなボロさをとっても楽しんで、否定的にではなく、むしろ肯定的に賛美している風すらある。 そして、 どうも引っ越しするまでは、「まっくろくろすけ」が住み着いていて、家を片付けていると、それを目撃できたり、 お隣さんには、「トトロ」がいて、遭遇することさえできてしまう。 見ているものには、「ボロ家」がとても素敵な、「行ってみたい」、「経験してみたい」という場所になってしまう。 これを見たものには、一つの世界が与えられる。 ぼろいおうちは、トトロの家。 五右衛門風呂や、カマドのある古い台所は、「時代遅れ」ではなく、 「さつきちゃん、メイちゃんの家と一緒」。 うっそうと茂った森は、「不気味なもの」ではなく、「トトロの住む森」。 何気ないもの、あるいは否定的にとらえうるものを、 肯定的な物語を介在させることで、それらも肯定的に「物語れ」るようになる。 もっといえば、否定的に見ることさえも、 それを「否定的にとらえた物語」の中に生きているといえるかもしれない。 「物語」がないと、それは、ただの「それ」で、 見ることも、語ることもないのかもしれない。 あこがれの世界や物語をもつということは、 現実に目の前にある「ものがら」に意味や価値を与えるものであると、 そんな風なことを思ったり、実感できるのだなぁと考えたり。 【追記】トトロのレビュ...

広告A