2019年5月28日火曜日

190522_駅前で甘茶をふるまい

2019年5月22日(水)
 日中、大阪の某所での研修。 夕刻帰宅後、いそいで準備をして向かったのが、阪神尼崎駅前の「セントラルパーク」こと中央公園。
 どうも、たまたま、複数の人たちが、その公園でベンチを出して憩いをしていたり、お菓子や、銭湯のグッズがふるまわれていたり、ツボ膏をはる看護師さんとか、皿回しのようなことを一緒にしませんかと呼びかける人がいたりしていたようです。
 僕は、たまたま、駅前で甘茶の振る舞いをすることにしていました。

 

〈準備したもの〉
 ・お湯 8リットルほど(沸かしてポットでもっていきました)
 ・甘茶(ティーパック)たくさん
 ・ほうじ茶(裏メニュー)少々
 ・急須 2つ
 ・紙コップ(たくさん)
 ・タオル
 ・キッチンペーパー
 ・ウエットティッシュ
 ・テーブルクロス
 ・感想記入用の付箋
 ・バインダー
 ・マジック(プロッキー)
 ・看板用の用紙立て
 ・ゴミ袋
 ・箱(紙コップ入れ)
 ・クーラーボックス(ポットなどの備品入れ)
 ・キッチンワゴン(以前の職場のデスク横に本を置いていたもの)
 ・エプロン
(書き出してみると、結構たくさん用意するものがあったことに驚いています。笑)


 19:30頃、阪神尼崎駅前セントラルパークに到着。
 公園では、いろんな人たちが、いろいろな遊びや楽しみの時間を過ごしていました。(左の写真は、なんかお皿をまわして楽しんでいた人たち)
 エプロンを身につけ、ワゴンにクロスを引きました。ポットで甘茶を淹れて、飲み始めました。(ワゴンやクーラボックスを引いていつでも移動できるようにしています。むしろ、移動の途中であるといえるかもしれません。)


 到着当初から、甘茶をたくさんの人に飲んでもらいました。甘茶を飲みながら、いろいろな人と立ち話をしました。 8リットルほどお湯を用意していましたが、21:30すぎまでの2時間強で、7リットルの甘茶がふるまわれました。

 甘茶をのみながら、昔のはなまつりの思い出話、実家近所のお寺の話をして下さったご夫婦。
 なにかわけありの感じがする、市外からきたという男女2人組
 (このお2人は、一旦すこし離れたところに行っていたのに、甘茶を飲み終わって去り際にわざわざ「ありがとうございました」とあいさつにきてくれて、とてもうれしかったです)
 おはぎをくれた方
 いつもセントラルパークにいそうなお酒のにおいを漂わせるおっちゃん。
 自転車にのりながら、般若心経を披露してくれるおっちゃん
 3回もおかわりをしにくるおっちゃん
 
 甘茶をのんで、どうしてこんなに甘いんですか?といってくれる定番のリアクションや、美味しい!とよろこんでくれるのもうれしく楽しかったです。

 そもそもは、4/7に西正寺で実施した「ふるまい市」からのつながりなのですが、(ふるまい市について書いていない!汗) 「ふるまい」という行為について、かなり可能性を感じる経験にもなりました。

 いやー。たのしかった。

 所感としては
 ・「ふるまい」という行為にはかなり可能性がある。
 ・「甘茶」はけっこう喜んで飲んでもらえる。
 ・エプロン、テーブルクロスなどのしつらえは大事。
 ・さらに、視認性がたかまったり、「店感」や「屋台感」を演出することも可能。
 ・スタンディングというのがよいのかもしれない。イスや、ベンチは不要。
  あるとしても、そもそも備え付けのものを使うべきだけれど、そこからすこし距離を取っていた方がいい。
 
 みたいなことを思いました。

 
 

2019年5月23日木曜日

190520_おいしいカレーを作るのだ(試食会編)

カリー寺の企画です。
先週実施したカレーの試作会。
https://ryogo1977.blogspot.com/2019/05/190513.html

今週は、そのカレーをカリー寺メンバーで試食するという日になりました。

19:00~21:00まで、月例のカリー寺ミーティング。
司会初めての「しっしー」さんが、事前の準備も含めて見事な進行。
たくさんある議題を、さくさくっと、しかも具体的に結論の見える形で進めてくれました。(ありがとうございます)

チラシのデザインもできあがりつつあります。今年のカリー寺も、あと2ヶ月近くなり、いよいよ、開催の雰囲気も盛り上がってきました。

21:00 ミーティング終了後。
事前にカレーを作ってくれた「しゃく」さんはじめ、みなさんが準備してカレーの試食会。事前の申し込みを大幅に超える20数名が参加。(みなさん、ちゃんと参加申し込みのリアクションしましょう。笑)

わいのわいのいいながら、カレーを楽しみ、みんなでオリジナルカレーの方向性を確認しました。 最後までのこってアレコレ話していた人は12時過ぎまで。

カリー寺のイベントだけではなく、それぞれが抱えているいろいろな出来事もカレーがいろいろな具を煮込んで味わいを増すように、お寺という場の味わいや、再来月にやってくるカリー寺というイベントの味わいも、深みを増してくれているように思う夜でした。

今年のカリー寺は、2019年7月28日です。おたのしみに。
(フェイスブックのイベントページも開設されています)
https://www.facebook.com/events/2242850922631455/


190520_西正寺 親鸞聖人降誕会法要

2019年5月20日(月) 自坊西正寺で、宗祖・親鸞聖人の降誕会法要をお勤めしました。
親鸞聖人は、承安3年(1173年)5月21日(旧暦 4月1日)に誕生されたとされ、浄土真宗本願寺派では、5月21日を親鸞聖人降誕会としてお祝いの行事を開催しています。
 西正寺では、今年は5月20日に、門信徒のみなさんとお経と法話を中心としたお祝いの法要をお勤めしました。
 
 勤行は正信念仏偈、御法話は、京都市から大塚茜先生にお越しいただき「苦しみが和らぐとき」というお題でお話をいただきました。
 大塚先生が取り組まれている東日本大震災の被災地(被災者)支援の取り組みから、被災された人の悲歎、苦しみの現場、そして支援している支援者側が抱える苦しみやつらさをご紹介いただきながらのお話を頂きました。

 印象的であったのは、現実的な状況が変わることよりも、家族や、周りの人がその人の抱えている思い、あるいは人知れずがんばっていることを、受け止め、受けいれ、理解することで、苦しみが和らぎ、心が救われ、行動や関係が変わっていくことがある、ということをご紹介いただいたことでした。

 親鸞聖人の生涯を大学等で講義するのですが、親鸞聖人という方も決して「思い通り」の人生を歩んだ方ではないのだなぁと思っていて、そのような側面を紹介しています。
 9歳から20年間修行に明け暮れた日々は、達成されて悟りにいたったのではなく、むしろ逆に、挫折の経験として比叡山を下りることになります。この人こそと慕った師匠の法然上人とは、国からの弾圧によって還俗・流罪されることによって別離を余儀なくされます。42歳から関東で伝えた教えをつたえたけれども、誤った理解や風説によって混乱が生じ、更に門弟を混乱させる結果を招いた息子・善鸞さんとは晩年に親子の縁を切るというできごともあります。
 90歳という長寿を得たということはうらやましく思われることかもしれませんが、平穏や、幸せということがらはあまり語られない、波瀾万丈な生涯ということのほうがふさわしい人かも知れません。

 そういう意味では、親鸞聖人は人生を念仏によって、仏教によって「思い通りに」「平穏に」生きたのではなく、むしろ、思い通りに生きられない、苦しみや悲歎の多い人生を、つねにざわつく心を抱えた自分自身のあり方を引き受けながら、念仏とともに生きたかたといえるのではないかと思っています。

 思い通りにではなく、思い通りにならない人生をどのように生きるのか。
 仏教のテーマは、幸せに生きる方法ではなく、苦しみを抱えざるをえない人生をどのように引き受けるのか、そんなところにあるように思っています。

 

 

2019年5月20日月曜日

190518_浄土宗應典院さまの「ともいき堂」竣工記念法要

2019年5月18日土曜。
 午前中のお寺の法務(お参り)を終えてから、大阪・下寺町の浄土宗應典院さまへ。お招きいただいていた「ともいき堂」の竣工記念法要に参加しました。

 遅参したため法要自体には間に合いませんでしたが、法要後のご挨拶と記念撮影には立ち会うことができました。

その後、行事は会場を大蓮寺客殿に移して、大蓮寺/應典院・秋田光彦ご住職と、桃山学院大学の白波瀬達也先生の対談がありました。

 秋田住職の「ともいき堂」や一連の葬送/終活関連の取り組みや思いについては、何度か拝聴する機会をいただいていましたが、そのたびに刺激をいただくお話です。葬送をしっかりと、福祉・コミュニティ・社会保障・宗教の枠内で捉えて、デザイン/仕組みもふくめて行う。今回の講演が実施されたようにそれらをきちんとアカデミックな文脈に載せて理論的にも語ることばをしっかりと持ちながら実施されていく。それを含めた、應典院流というか、秋田光彦住職一流のスタンスがしっかりと根っこにあってのプロジェクトなのだということをひしひしと感じました。語られる言葉にも、何度聞いてもブレがなく、信念に裏付けられた力強さがあります。

 秋田住職と白波瀬先生のクロストークでは、近年の寺院・僧侶における社会活動について語られました。社会やコミュニティの変化、寺と檀家の関係性や意識の変化による、寺・僧侶の危機感、あるいは世代による感覚や危機感に基づくもの、またインターネット、SNSの活用によっておこされるブレイクスルー的なあり方といった説明は、非常に明解で示唆に富むものでした。

 会の終盤、秋田住職からご指名いただき、コメントする機会をいただきましたが、とっさのことでもあったので、果たして場に対してどれだけ適切だったのかは心許なくおもいます。ただ、そのなかで言及した「お寺を使う/お寺に使われる」ということについて、白波瀬先生からは、「お寺を気軽に使うことが、お寺との関わりの糸口、接点としては重要である」というフィードバックをいただきました。
 お寺に対して「気軽に使える・日常的に関われる」ということが、お寺との接点や、関係性の入口になることは、実はとても自分自身が意識していることでもあります。それが無条件ではなく、なにがその先にあるのかといったときに「お寺を使う」私が、「お寺によって動かされる」私になっていく(お寺や、自分自身の課題に「使われる」私になっていく)という、ある種の主客の転倒が起こっていくような瞬間があり、そこにある種の宗教性もあるのではないかと思ってます。それが、すっと受け止められていく言葉として語るために、表現や説明の仕方を考える必要があるのかもしれないと思いました。

 散会後は、その場に居合わせた参加者のみなさん同士の名刺交換やあいさつの場になり、何人かの初めてお目にかかる方とご挨拶をさせていただきました。 




2019年5月14日火曜日

190513_おいしいカレーをつくるのだ


 5月13日。夜の19時をまわった時間から、お寺にカリー寺の一部メンバーが集まり始めました。 この日行われていたのは、「カレーの開発」。
 今年の企画の一つとして、お店屋さんのカレーだけではなく、カリー寺メンバーでもカレー作ってみようということになり、オリジナルな美味しい、独特のスパイシーカレーの開発を始めていました。

 ということで、わいわい、いいながら、カレーの製作。
 カリー寺住職は、会場を開いて、必要な食器や、あれこれをあわあわとみなさんに持ってくるというのが大きなお仕事でした。(笑)

 どうもみなさんの中では、夜の19時からあつまって、ちゃんと仕上がるのか?という疑問もあったようですが、チームワークとかメンバーのセンスとかで、「これいいやん!」というカレーがちゃんと仕上がりました!!!(すごい)

 で、またわいのわいのいいながら、カレーを試食したり、お酒(ビール)を飲んだりしながら、アイデアの膨らましや、たんなる雑談を展開。
 最後のメンバーは、12時を過ぎて帰って行きました。

 市外から来たメンバー、あるいは今週すでに2~3回顔を合わしているメンバーがいたり…。
お寺に頻繁に足を運んでくれる人が増えたこと。
夜中の12時をすぎてお寺でたのしんで過ごしてくれる人がいること。
企画やアイデアがどんどんと膨らむ場所になっていること。

メンバーが足を運んでくれるたびに、
お寺に滞在してくれるたびに、
お寺の可能性がどんどんとひろがっているように思える時間でもありました。


今年のカリー寺は、7月28日の日曜日!。
企画も準備もどんどんとすすんでいます。 どうぞおたのしみに!


190512_おてらのそうじ(5)


昨年12月から月一ペースで開催している「おてらのそうじ」。
小学校の時に同級生のお寺の娘さんとお寺の掃除をしたという思い出をもっている、よしおかさんが、近所に引っ越してきて「お寺掃除したいんですけど」との打診があったことからはじまったこのイベント。順調に5回目。

今回は8名で、伸び始めたお寺の駐車場の草引きをしました。

次第は次のとおり。
7:00集合
 寝坊して慌てて準備。ばたばたとお米を研いだり、お参りの準備をしたり。
 7:00からお勤めをするも、起き抜けであんまりちゃんと声が出なかったという反省。

7:10 体操と自己紹介。
 今回は、初めての参加者が4名。

8:00まで 掃除 駐車場の草抜き。

その後、準備をして、みなさんと朝食。
天気もよく、先月に続いて本堂の縁に机を出していただきました。
以前のイベントで頂いた高知の美味しいお米「天空の郷」とお味噌汁(インスタント)。
それからそれぞれがもちよってくださったご飯のお供といっしょに。

9時すぎに、順次解散。
気持ちの良いスタートの休日になりました。

来月は、6/23(日)7:00から開催の予定です。





2019年5月7日火曜日

190506_休日の行き先に「お寺」が選択肢となること



GW連休最後の祝日。
お寺に一組の家族が、遊びに来てくれました。
(石畳に落書きしに笑)
なんのイベントもない、ただの祝日の行き先に、地域のお寺が(自然と)選択肢になる。個人的には、これは結構すごいことだと思ってます。
本来のお寺の姿は、もしかしたらこういうものだったのかもしれません。こういうありかたを望んでいたのかもしれません。
本来的なあり方がもどってきた。たとえるなら、庄下川に、魚が戻ってきた!というような感動。(尼崎の川です)

2019年5月4日土曜日

190503_タイのおぼうさまと看取りについてのお話

2019年5月3日(金)
13:00~16:00
「逝き方から生き方を創るwithおぼうさん」(https://peatix.com/event/655938/view)というイベントが西正寺で開催されました。


こちらは、タイで活動をされている古山裕基さん、浦崎雅代さんのお二人が企画・持ち込みをくださった企画です。普段お住まいのタイから3名の僧侶と2名のメーチーさん、それから数名の同行の方とお越しになり、お話をくださいました。

第一部は古山さんからご自身のお母様の看取りの経験とタイでの散骨のについて
第二部はゲストのお二人のタイのおぼうさまからお話。
 それぞれ、ご自身のおばあさまの看取り、それからお二人共通の師匠の看取りの様子についてお話いただきました。
休憩をはさんで第三部。
そこでは、私が聞き手になって、お二人のお坊さまに質問をしました。
・日本の僧侶についてどのように思いますか?
・「死」、「死苦」をどのように超えていくのか。
・病院や、その他の場所で「死の恐怖」や「死苦」を抱えている人にどのように接するのか、関わるのか、をお尋ねしました。
 会場からの質問をいただいたなかには、ご自身の看取りの経験と後悔にどのようにむきあえばいいか?というものなどがありました。
そののち、参加者同士のみなさんで、小グループになって20分ほど話しあい、
最後に共有と、登壇者から一言ずつをいただき、散会となりました。

 会場には、40名を超える参加者があり、主催者とタイからのメンバーを含めると、60名近くの人たちと時間をすごしました。
 
 印象的だったことは、やはり僧院で修行されているお坊さまが持つ雰囲気と、言葉の力。はずかしながら、同じ僧侶とは思えないような、雰囲気と言葉の力がありました。

 イベント時、それからその前後でお話のなかで、タイのお坊さまたちと「人に接すること」「人の苦しみに接すること」についてお話をする時間がありました。そこでは日本では、「ケア」や「傾聴」といわれるような姿勢と共通するものが多くあったことも印象的でした。
 僧院で説き、修行を重ねていく上で語られるような「死を恐れてはいけない、恐くないよ」とか、「とらわれを手放しなさい」ということは決して言ってはいけない。そうではなく、その人の気持ちや、感情をありのままを聞くのだ。その人そのままを受容していくような態度をもって接するべきだと語られていたことがとても印象的でした。

 より深く聞いてみると、そういった「傾聴」のようなアプローチについては、僧侶のなかでも、そのような研修やトレーニングを受ける機会があるとのことでした。ただ、適性のある方や、そういった研修を受ける機会のない僧侶もいるそうで、必ずしも全ての僧侶が、そのようにケアや傾聴、苦悩や悲歎の向き合いができるわけではないというのも、共通するようなものを感じました。

 実は開催前は、日本の仏教のお坊さんは・・・と堕落のようなところで叱られるのではないかという心配もどこかで感じていたのですが、そういった比べたり、批判したりということをされる態度はまったくなく、日本のお寺に大変敬意をはらってくださり、また大変やさしい語り口で、みなさんにいろいろとかたられていたことも印象的でした。

おかげでたいへん良い一日でした。
ありがとうございました。




 
 

2019年5月1日水曜日

190429_東京二日目、池袋にて

宿を池袋に取った。
いつも豊島区に泊まるということ、そして宿代が安かったのももちろんある。
しかしネットで探しているときに、今回は池袋にしようと思った。

朝、目がさめて身支度をととのえる。チェックアウトし、その理由の場所に向かった。
先日、東池袋であった事故の現場だ。
献花台が設置されて、多くの人が花を手向けているというニュース、
あの事故に多くの人が心を揺さぶられ、具体的な行動を促されているという話に接したことを思い出し、このタイミングで東京にいるならばと、足を運ぶことにした。

移動の途中、東池袋近くのイオン系のコンビニの店先に、お供え用の華が販売されていたのでそれを購入した。もしお花屋さんでもあれば、買おうとおもっていたところだったので、これ幸いという形だった。事故があったから販売されているのか、いつも置かれているものなのかは、わからない。

地下鉄の東池袋近くでの工事現場の人に、場所を聞き、事故現場・献花台に到着。
手にしていた花を供えた。
すでに、多くの花、そしてペットボトルのお茶やジュースが大量に供えられていた。
お菓子やパン、かわいいぬいぐるみも供えられている。
その場所、そして事故に対するたくさんの思いが見える形でその場にあった。

その場に行き、花を手向け、手を合わせたが、それでは何かが足りない気がした。
そのまま、そこを立ち去るには何かが足りない気がして、そこをもうすこし見届けようと思った。ここで起こることを目にしておきたいような思いがした。

そこで、献花台近くの花壇のへりに腰掛けて、そこの献花台とその周りの様子を観察することにした。30分はそこにいようとおもった。

まもなく、出勤途中の男性がやってきて、ペットボトルを供えて立ち去った。
さらに自転車に乗って信号を渡って来たおかあさんと幼児が、自転車を降りて、献花台にしゃがみ込んで合掌していった。様子からすると、お友だちなのかも知れない、という想像すらさせる。
とおりすがりに、献花台に目線をおくる人は多い。車の中でも、信号まちの途中でこの場所のことが話題にあがってるような感じの様子が何台もあった。

1分と開くことなく、その場所を訪れ、なにかを行っていく人がいる。
その場所に気持ちを向けたり、その場所にこころを動かされる人が常にあらわれ続ける、そんな場所だったことを強く感じる時間でもあった。

じっと一つの場所をみること、
そこで起こることに目を向け、心を凝らすこと。
普段、慌ただしく動き続けるなかで、大事なことを見おとしたり、わすれたりしているのかもしれないとも思うような時間でもあった。


「宗教的な救い」とはなにか?

・先週は宮崎先生と対談でした  先週の土曜日 4月13日の午後は、相愛大学の企画で、宮崎哲弥先生の講義にゲストスピーカー・対談相手として、登壇させていただく機会を得ました。  以前このブログでもご案内していたこちらです。  【登壇情報】宮崎哲弥先生と対談します。 https://...