2019年5月18日土曜。
午前中のお寺の法務(お参り)を終えてから、大阪・下寺町の浄土宗應典院さまへ。お招きいただいていた「ともいき堂」の竣工記念法要に参加しました。
遅参したため法要自体には間に合いませんでしたが、法要後のご挨拶と記念撮影には立ち会うことができました。
その後、行事は会場を大蓮寺客殿に移して、大蓮寺/應典院・秋田光彦ご住職と、桃山学院大学の白波瀬達也先生の対談がありました。
秋田住職の「ともいき堂」や一連の葬送/終活関連の取り組みや思いについては、何度か拝聴する機会をいただいていましたが、そのたびに刺激をいただくお話です。葬送をしっかりと、福祉・コミュニティ・社会保障・宗教の枠内で捉えて、デザイン/仕組みもふくめて行う。今回の講演が実施されたようにそれらをきちんとアカデミックな文脈に載せて理論的にも語ることばをしっかりと持ちながら実施されていく。それを含めた、應典院流というか、秋田光彦住職一流のスタンスがしっかりと根っこにあってのプロジェクトなのだということをひしひしと感じました。語られる言葉にも、何度聞いてもブレがなく、信念に裏付けられた力強さがあります。
秋田住職と白波瀬先生のクロストークでは、近年の寺院・僧侶における社会活動について語られました。社会やコミュニティの変化、寺と檀家の関係性や意識の変化による、寺・僧侶の危機感、あるいは世代による感覚や危機感に基づくもの、またインターネット、SNSの活用によっておこされるブレイクスルー的なあり方といった説明は、非常に明解で示唆に富むものでした。
会の終盤、秋田住職からご指名いただき、コメントする機会をいただきましたが、とっさのことでもあったので、果たして場に対してどれだけ適切だったのかは心許なくおもいます。ただ、そのなかで言及した「お寺を使う/お寺に使われる」ということについて、白波瀬先生からは、「お寺を気軽に使うことが、お寺との関わりの糸口、接点としては重要である」というフィードバックをいただきました。
お寺に対して「気軽に使える・日常的に関われる」ということが、お寺との接点や、関係性の入口になることは、実はとても自分自身が意識していることでもあります。それが無条件ではなく、なにがその先にあるのかといったときに「お寺を使う」私が、「お寺によって動かされる」私になっていく(お寺や、自分自身の課題に「使われる」私になっていく)という、ある種の主客の転倒が起こっていくような瞬間があり、そこにある種の宗教性もあるのではないかと思ってます。それが、すっと受け止められていく言葉として語るために、表現や説明の仕方を考える必要があるのかもしれないと思いました。
散会後は、その場に居合わせた参加者のみなさん同士の名刺交換やあいさつの場になり、何人かの初めてお目にかかる方とご挨拶をさせていただきました。
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