2022年8月29日月曜日

8月29日(月)断固たる休日

 8月29日(月)。今日は、お参りの予定もなく、出講も会議の予定もなく、休日。
業者さんやもろもろの予定が入りそうになったが、休日にすることを想定して、別日に調整をしていた。急なおつとめも、所要も入らなかった。まごうことなき休日。

 昨日の公開講演会がおわったところから、「終わった!休みだ!」感を堪能した。
 

 今朝は、目覚めてから、昨夜力尽きて残していたお皿やお鍋などを洗い、幾つかの家事をしてブログを書いた。昼前からは買い物に。来月から保育園に通う子どものために、必要なものを買い出しに。買い物は半日がかり。

 夕刻、いろいろとお世話になっている伊丹のクロスロードカフェが 20週年を迎えるということで、お花を買ってお祝いに。たくさんの人のお祝いのお花が届けられていた。滞在中も、いくつかお花が持ち込まれていた。



 クロスロードカフェに足を運び、交流させてもらったのは、ここ5~6年のことだけれど、毎回新しいつながりをもらったり、刺激的な情報に接したりさせてもらっている。
 大きなイベント事より、地域の人たちとつくられている日常がここにある感じがしている。こんな場所が、もっといろんなところにあったらいいなぁ。

 帰宅後、クロスロードカフェでテイクアウトした夕食を食べる。
 明日からまた、積みあがっているお仕事をやっていこう。



8月28日(日) 「おてらのそうじ(34)」と公開講演会「戒律とはなにか?」(2)

 8月28日 こちら(「おてらのそうじ(34)」と公開講演会「戒律とはなにか?」(1))の続き

 8月28日の午後は、公開講演会「戒律とはなにか?」。こちらは、先月に第一回(第一回の記録はこちら)を開催したものの2回目。前回は、そもそもの「戒律とはなにか」についてお話いただいたが、今回は、仏教における「自死」の問題。

 講師の大谷由香先生は、「不殺生と自死」という論文で、中外日報社の第18回「涙骨賞」という賞を受賞されている。受賞論文は全文こちら(https://www.chugainippoh.co.jp/info/ruikotu/ruikotu018-01-001.html)から閲覧できる。

 本堂には約30人の参加者。西正寺の門徒さんや、恒例の勉強会(はすの会)に参加してくださっている人の他、大谷先生や講演内容に関心を持ってきてくださった方、園田学園の担当している講義の実習として参加してくれた学生さんなど、多様な顔ぶれ。


 講演内容を大谷先生のお話は、要約すると以下のようなことなどをお話いただけたと理解している。

 ・(前回のおさらい)戒律とはなんだったか
 ・ 殺戒(不殺生戒)の成立とはどんな経緯があったのか。
   → 不浄観を修行した比丘たちの希死念慮と、大量殺戮事件(恐ろし)。
 ・ 自死は殺戒に抵触するのか?
 ・ 自死に対してお釈迦さまはどのように接せられたのか?
 ・ なぜ「自死」は罪であるというような観念が生じてきたのか?
   → 近代以降に発生した比較的新しい観念。芥川龍之介の遺書等を引きつつ、近代以前は「自死」は忌避されるものと考えられていなかったのではないか?というお話も紹介された。

 休憩をはさんでクロストークでは、

・釈尊以来、仏教は自死ということに向き合ってきた歴史がある。

・その中で、自死を推奨していくのでも、また自死を断罪するのでもなく、非常にあいまいな態度をとっている。しかし、その「あいまいさ」「許容する姿勢」が希死念慮を抱く人にも、居場所を作ることになっていたのではなかったか。


・修行者、比丘が、生きていくことに苦しみを抱えて、希死念慮を抱くということは、「苦しみを離れる」ということをテーマにしている仏教でどのように理解すべきか?
 → 仏教が「苦しみ」を問題としていく中には、、泰然自若とした、苦しみを超克した境地を揺るがない境地を獲得していくということもあるが、より現実的には、苦しみを抱え続けて生きるということをそのままに引き受けていくという姿もあるようにおもう。 その意味で、比丘が「自死したいほどの苦しみ」を抱えていることは、彼(比丘)が仏道修行に失敗していた姿ではなく、彼が仏道そのものを歩んでいる姿であったと見ることもできるのでないだろうか。
 事実、史料には、おしゃかさまは、その自死した仏弟子を批判するのではなく、彼は悟ったのだと、たたえていることもそのような見方も支持されうることを示しているように思う。


 会場からも、自身の研究テーマが自死という学生さん、上座部や他の戒律との関連から質問をされる方等、多岐にわたった。16:00過ぎに終了した後も、ゆるゆると延長のエクストラタイムを持たせていただくなど、総じて楽しく、前向きに大谷先生のお話くださったテーマ問題と向き合う時間を持たせて頂けた。



 改めて、今回ご多用の中に、時間を割いて準備し、尼崎まで足を運んでご登壇くださった大谷先生にはお礼を申し上げたい。(ありがとうございました)
 そして、ご参加くださったみなさん、関心を持って見守ってくださったみなさんにも、ありがとうございました。
 

 ◎今回の講演会企画について
 人文学の知見は、多様な価値観(さまざまな社会の価値観や、歴史的に変遷をたどって形成された価値観等)にふれ、今・ここにいる自分を相対化するまなざし、絶対的だと思っていたものがそうではないと気づかされる視点を得させてくれるものであると思う。
 また、仏教・浄土真宗の知見にふれることで、人生の問いや苦しみに処していくうえでのヒント・手がかり(答えではなく)のようなものが得られることがある。そういった学問的空気、(健全な)宗教的空気が当たり前のようにある地域は、きっと物質的ではない豊かさがあるのだろうと思っている。

 大学という専門機関ではなく、地域にあるお寺でこのような講演会を開催することは、そういった地域を精神的に豊かにしていくことにつながっていくのではないかと思っている。また、それは、すこし人よりながく人文学と呼ばれる領域で学問をさせてもらった自分にとって、今までのキャリアから得たものを、お寺に、地域にお返しできるものの一つであるように思っている。

 今後も継続して、いろいろなお話を聞いたり、話したりする機会を設けたいと思っている。関心に合うものがあれば、どうぞよろしくお願いします。









8月28日(日) 「おてらのそうじ(34)」と公開講演会「戒律とはなにか?」(1)

 8月28日日曜日。
 7時15分から、おてらのそうじ、34回目。
 月に一度、お寺に集まってそうじして、朝ごはんをたべる会。

 今月はひさしぶりに、ご飯を炊いておにぎりを、それぞれで握ろうという予定だったので、集合前に6合ほどお米を研いでしかけておく。

 7:15開始。開始時には6名くらい。勤行をし、ストレッチをしながら自己紹介と近況報告、そして順次おそうじへと進んでいくと、10名弱に。


 それぞれ、本堂の外陣の掃除機かけ、縁側の雑巾がけ、お墓の掃き掃除などをしてくださる。僕は、内陣のほこり取りや、午後の講演会のために什物の移動等。



 8:00過ぎ、おそうじを終えて、朝食。それぞれがもちよってくれた具をつかいながら「おにぎり」を作って食べる。飛沫・感染に気をつけながらワイワイと。

 終わった後、コーヒーやお茶を飲みながら、時間の許す限りゆるゆると。

 少し雲がかかったお天気で、気持ちよい風がとおる涼しさがあった。ゆるゆる、のんびりとした気分。気の置けない人たちとのおしゃべりも楽しく、いつまで、ゆるゆる、のんびりておきたい気分。

 9:30すぎ、お参りへ。午後からは「公開講演会」が予定されている。








2022年8月27日土曜日

8月27日(土)3年ぶりに盆踊りが開催されていた

 


8月27日(土)。はれ。

 朝、移動中にJR塚口駅前の公園に、やぐらが組まれているのを見かける。青年会のみなさんががんばって、準備をしてくれていた。それを見て、「おお!盆踊りあるのか!」と気が付く。
 コロナで3年ぶり。
 

 お昼過ぎまで月参り、法事のお参り。
 午後はデスクワーク。
 夕刻は、盆踊りに参加。幼子は、はじめての盆踊りで大きな音に驚いていた。



8月24日(水) 住職継職奉告法要の会議をするなど

 8月24日水曜日 晴れ。
 月参りとお葬儀のおつとめ。
 故人は、古くからお寺とお付き合いの深かった御門徒のおうちの方。いろいろな思い出とともにお送りをする。

 午後、資料作りやもろもろの調整の作業をし、15:00から「住職継職奉告法要実行委員会」。11月3日に、住職継職奉告法要を予定している。2020年5月に予定し、延期・再延期を経て、3度目の正直のような、開催を目指して準備しているところ。
 16名ほどの御門徒が実行委員として会議に参加してくださっている。今回は、前回からの進捗、記念品や発注内容の確認、現在の参加の返信数の報告、そして、当日のタイムスケジュール(大枠)の報告等を行った。
 大きな議題もなく、時間を割いて集まっていただくことに恐縮な思いもあるが、マイルストーン的にこういう会議を持たせてもらうことで、自分自身の準備作業の動因にもなり、進捗確認にもなるので、非常にありがたい。(本当に、進捗確認になり、ありがたい。大事なことなので、2度言う。)

 細かな疑問や、調整が必要な指摘もあり、やはり投げかけて相談すること、一人では見えない視点をもらうことは大事だとも感じる会議だった。西正寺の御門徒のみなさん、本当にサポーティブなかかわりをしてくださっている。ありがとうございます。


(これは、先月(7月)に案内状の発送作業をしてくださっているときの様子)

 会議後、会場の片づけ等をして、通夜のおつとめに。
 お参り→葬儀→会議→通夜というスケジュール。当初予定以上に詰まってしまったが、務めをひとつひとつ務めとして行っていきたい。
 
 故人は、父の同級生で幼馴染のような方。小さいときにはよく一緒に遊び、中学校は毎日一緒に登校していたという。ご家族とのあいさつのときにも、そのお話を共有させていただいた。お通夜のおつとめをしながら、故人のこと、ご家族・参列の方のことを思うとともに、翌日の葬儀で導師を務める前住職(父)は、どのような思いで故人と向き合うのだろうか、などとも思う。 とはいえ、あらためて直接聞くようなことはしないが、そんなふうな問いが頭に浮かぶ。

 通夜を終えて、お寺に戻った後、葬儀の準備。それから翌・25日にある布教使課程での講義の準備。これはひとえに自分の怠慢であるが、資料の準備があまり進められていなかったために、12時を過ぎるまで、どうしようか、こうしようかと、作業をし続けることになった。 汗。




2022年8月26日金曜日

8月26日(金)NHK文化センターの講義で 梅田にでる。

 (遡っています。)


 8月26日(金)

午後からNHK文化センター(梅田教室)の講座へと出講。


 電車で大阪へ出る。久しぶりに電車に乗っている人、都会を行きかう大勢の人を見る。
 あらためて、人を”見る”だけで刺激があるものだと感じる。
 これだけの人にそれぞれの生活があり、いろいろなものがあるのだという想像が、リアルな人をみることによって、おのずと立ち上がってくるのだろう。うまく言語化できない「刺激」がたしかにあった。

 講座は、『歎異抄』の第十三条。先月に引き続いての箇所。
 「さるべき業縁のもよおさば、いかなるふるまいもすべし」。縁次第でどのようなことをするかわからないのが、われわれ人間というものである。むしろ、縁によって、自らのありようやふるまいがきまっていってしまう、それしかないというところに、凡夫の凡夫たる根拠があるようにも考えている。真実なるもの、たしかに握りしめられるものがあれば、「縁」によって左右されることはない。それを握りしめ、うしなわなければいいのだ。しかし、そういったものが、わずかばかりもないのだと、看破するところに、浄土教思想がつないできた人間観がある。

 講座は、ついつい難しい方へ流れてしまいがちになるが、ずっと受講してくださっている受講生のみなさんには感謝である。

 

2022年8月25日木曜日

8月25日(木)布教使はお聴聞の方に育てられている…のだと思っている。

 (※現在8月29日、さかのぼって記述している)

 8月25日(木)。晴れ。

◎法務
 午前中はお参り。前日に記載していたように葬儀のおつとめもあったが、父に導師をつとめてもらい、私の方は通常の月参りを中心にまわる。


◎伝道院に出講

 午後からは、京都に移動し、伝道院にて布教使課程の講義に。7回シリーズの七祖の講義、5回目で善導大師。
 前日の夜中1時ぐらいまで、どうまとめたものかと、試行錯誤していた。
 13:30~16:30までの3時間。古今楷定のポイントをテキスト記載の事項を中心にまとめてお話する。

16:45の夕事勤行では、法話を担当。力なきものの力、無力なものの力、ということを、こちらに、以前書いていたことを例に出しながらお話した。


◎夜座(伝道院)

すこし待機時間を経て、19:00からは、夜座をおつとめ。
夜座については過日ブログに書いたこちらの記事「「法座を開く」というカリキュラムについて」(https://ryogo1977.blogspot.com/2022/08/823.html)を参照されたい。

 19:00からの夜座は、布教使課程の研修生が中心になって運営してくれた。
 外部からの参加者も数名あり、いつもとは違う緊張感もありながら、「仏教の法味・よろこび」を同じくする人が集う場ならではの、雰囲気もあったように思う。

 開会のあいさつ、説明のあと、勤行、研修生2名からそれぞれ15分ずつの法話、その後、休憩はさんで意見交換会、散会というスケジュール。

 正直いうと、想像以上によかったという印象。
 受講生の皆さんは、非常に丁寧に真摯に、運営・進行をされていた。拙さを感じる部分はあったが、それもふくめて丁寧さ・真摯さとして伝わるものがあったように思う。
 やはりお聴聞の人がいらっしゃると、緊張感は増すようで、いつも以上に法話する受講生が緊張していたのが伝わってきた。また、普段ならしないと思われるようなところで、お話することが飛んでしまうという部分も。しかし、それでも場がしらけたりすることはなく、むしろあたたかな雰囲気で、話し手を見守ってもらえているようであった。

 細やかなところはともかくとして、このような「法座」を経験できたということは、研修の上で、その意味は小さくないように思っている。他所に出ることなく、伝道院の中でこのような実際の法座を開催し、実習できる場を得たということ。そして、その場で得られるものは、自身の技術を磨くということだけはないように思う。

 住職・僧侶がよく言う言葉に「門信徒に育てられる」という言葉がある。布教を行う布教使もお聴聞してくださるみなさんに育てられるのだろう。講師ともよばれ、話し手である布教使の方が、聴衆(お聴聞のみなさん)に育てられるのだ。
 そのような意味で、なによりの研修・教育の場がこの「夜座」ではないかとさえ思える。

 今回は法話する上で「失敗」があったが、あたたかく見守られる空気があった。そういう経験を研修生さんができたこともよかったと思っている。

 人前で話す立場になって思うことだが、話し手側の自信やスキルなどは、時として非常に脆く崩れ落とされてしまうことがある。自分の側に積み上げる自信よりも、その身を置いている場、目の前にいる人に対する信頼の方が自分のなかでは、より大きなものではないかと思っている。失敗したときも、あたたかく見守ってもらえたという経験、場合によっては助け舟が前から出してもらえるかもしれない、投げかけに応じてもらえることもそうかもしれない。法話や講演の現場は、目の前にいる人が「敵」や「評価者」ではなく、その場を楽しみ、期待して足を運んでくれた人であるということ、一緒にこの場(今回は「法座」)を作ってくださる仲間となりうる人であると信頼したうえで場に臨むことで、まったく異なる地平が開かれてくるのではないだろうか。

 今回研修生のみなさんに伝えられてよかったと思っていることは、そういう「場」、目の前にいる人に対する信頼を持ってその場に立つということができるのだということだったように思っている。これは、研修機関ではおよそできない、リアルな現場・法座だからこそ立ち上がってくる空気間ではないだろうか。

 この「夜座」これからうまくいくこともあれば、うまくいかないこともあるだろう。お聴聞の人が今日のようにいらっしゃらないこともあるだろう(きっとあるはず)。そういう「人がこなかった」ということも含めて、場を作っていく上で、(法座を開設するというこの枠組みの設定からすると本来的な意味で)生々しいリアルな経験を積み上げていくことができたらよいと思っている。


 
 



 

8月23日(火) 「法座を開く」というカリキュラムについて

2日ほど記録がつけらずにすぎてしまった。(現在8月25日)

 8月23日火曜日、晴れ。
 午前は月参り、午後は京都へ伝道院(布教使課程)へ出講。夕刻、尼崎戻り、通夜のおつとめというスケジュール。
 月参り3件。すこし余裕もあったので、自転車で移動。 バイクや車だと、ただ「移動」で終わってしまうところが、自転車くらいのスピードだと、ゆったり風景を眺めたり、すこし頭のなかで考えを巡らしたりしながら移動できるような気がする。精神的に少し落ち着けることもある。(自転車にのりながら、それができないときももちろんあるが)

 午後、車で京都へ移動。伝道院(布教使課程)の講座で、山口の荻先生、北九州の松崎先生と、オープンな法座(夜座と命名)の企画を担当。研修生のみなさんと、広報や、法座の内容などを詰めていく企画会議。
 25日木曜日を第一回に予定し、準備をすすめてきていた。この講義中に話をまとめ、広報を始めた矢先に、諸事情から「25日はクローズドで」開催することになってしまった。 非常に残念。 

 来週以降は、公開できるようにしたいとおもっているので、関心をもってもらえたら足を運んでいただけたらうれしい。



◎「法座」ってなにか。

 おつとめ(読経)をし、ご法話(お説教)をお聴聞する機会を「法座」と呼んでいます。
 浄土真宗の場合は、教えにであう機会、教えを聞き、味わう機会を「法座」と呼んでいます。 布教使課程という、布教使を養成する課程で、「法座を開設する」、つまりお説教をする場を自ら開くというカリキュラムが設定されています。
 これは、私個人は大変意味深いものだと思っています。これまで、浄土真宗本願寺派の「伝道」といえば、主に「法話・お説教をすること」つまり、「話し、伝えること」を習得することに多くの時間を費やしていました。(このほか、教えや聖典を学ぶことはもちろんですが、それはいずれもインプットに当たります。つまり、アウトプットのほとんどは、「話すこと」に全振りだったといってもよいかと)

 実際に布教使となれば、全国の別院やお寺、そして本山で布教する機会を得ていくことになります。しかし、いま起こりつつあることは、既存の法座がどんどんと規模が縮小していること、あるいはそもそも成り立たなくなっていることです。従来型の法座・法要は、寺院のコミュニティの変化、門信徒との関係性のうつろいから、右肩下がりであることは否めません。 場が成り立たなくなりつつある中「伝道する」ということは、既存の場に安住するのではなく、新しい「法座」を作り、新しい関係性を切り結んでいくことこそが必要なことだと思っています。

 今回、布教使課程でチャレンジされている「法座をひらこう」という名のもとで行われる一連の研修には、そういった今の社会の変化の中で必要な資質や能力を磨こうというチャレンジ精神があると理解しています。 

◎ 「法座」の補足

 ただ、そういった「新しい法座をひらく」というと、どれだけ新規性のある人が来たか(要は人数や規模)といった外形的に「わかりやすい」評価軸を求めがちになりますが、担当している講師の一人として、僕はそういった「わかりやすい」ものではないものを、どれだけ大事にできるかも問いたいと思っています。

 法座は、お参りに来てくださった方、そして初めて参加される方をおいてけぼりにしたり、「わけがわかんない」となってしまってはいけませんが、一方で単なる参加者へのサービスや楽しませというものになってもいけないと考えています。
 参加者の評価やわかりやすい成果が求められる本質ではないのだろうと思います。

 法座の本質は、主催者である僧侶(住職)自身が、法座をひらくことにあるよろこび(お経をおつとめすることのよろこびや、教えを聞くことのありがたさ、うれしさ、よろこび)を一番に感じて、そのよろこび味わいが、同心円状にひろがっていくようなものなのではないかと思っています。 あるいは、参加者の門信徒の方の方が、より大きなよろこびを感じ、それを発露させることが、僧侶(住職)へと伝わり、さらにそれが法座をひらくモチベーションになることもあるかもしれません(つまり、参加者の方から同心円状にひろがっていくという形)。

 いずれにせよ、法座の本質とはなにか、なにが一番大事かと考えたときに、だれかが誰かのためにサービスをしてよろこばせることや、そのための義務や負担を背負うことではなく、その法座の営み自体が、教えに触れるよろこびの発露であるようなところが本質的なことではないかと思っています。

 この伝道院で行われる「夜座」(オープンにされている機会)は、伝道院の研修生が中心になっておこなわれています。それは、その研修生のみなさんが、普段されている営みとしてのおつとめ・教えが、あじわいあるものとして、よろこびあるものとして勤められているかが問われ、そこにある思いが伝わっていく機会でもあるのだろうと思っています。

◎そして、夜

 伝道院の研修を終えて、帰途。帰坊後、すこし休憩してお通夜のおつとめに。
 代々にお寺、地域と深くかかわってくださった門徒さんのおうちのご葬儀。
 当たり前に、お寺に関わってくださっていた方、地域で働いてくださっていた方がいらっしゃらなくなっていく。ひとつひとつの別れの中に、自分の幼少期には当たり前だった地域の様子が、変化していくことを強く感じていく別れでもあった。




2022年8月23日火曜日

8月22日(月)お参り、市教委、ずぶぬれ

 8月22日月曜日。 
 前日の寄席の余韻もあり、また一週間が始まるという時間の流れにもぼんやりとする朝。
 朝はいつもどおりお参り。
 お参りの後は、今週いくつかある講義の準備、レジュメの作成。

 14:45頃、教育委員会定例会に出席するために尼崎市教育委員会へ。
 事前のレクチャーを受けて、会議に参加。
 詳細はまた改めて別に書きたいと思う。

 議案は3件。予算の補正について、職員の定年引上げに対応する条例・規則の変更について、それから、スポーツ施設使用に関する規則の変更について。

 いくつかの質疑を経て、いずれも承認。

 定例会終了後、平場にて、事務局から、報告案件や、打ち合わせ等を行う。これが結構長く、今回は19:00前頃に終了。(とはいえ、昨年は20時より早く終わることが少なかった。しかし、他市の委員会に比べると圧倒的に長いようだ)

 会議を終えて、建物から出ると、雨。原付で移動していたので、しばし立ちすくむ。
 しかし、かえらないわけにはいかない。(しかし雨具はない)。

 心を決めて、雨に打たれながら原付で帰る。途中、土砂降りの雨にも当たってしまい、お寺に戻るころには、全身がずぶ濡れに…。大学生の時にこういうことはよくあったが、40を超えても、こんなことをするとは…等と思う。


 


2022年8月22日月曜日

8月21日(日)おまいり・西正寺寄席・ご相談

  8月21日日曜日。午前中は少し雨ふり。午後からは快晴。
 午前中月参り。
 午後から、西正寺寄席。詳細は以下のリンクから。

第二十一回 西正寺寄席 開催しましたhttps://ryogo1977.blogspot.com/2022/08/21.html

 寄席終了後、片付けたあと、寄席にも顔を出してくれていたIさん、アマサキさんと相談ごと。Iさんのお仕事の関連で、墓地・葬送に関する意見交換。
 

 ぼんやりと考えていた葬送に関する課題やトピックに考えをめぐらせる。
 たとえば、墓地の継承者(つまり、お墓のお世話をするひと)が減っていく中、墓じまいとか、無縁墓といった問題が多くなってくること、あるいは葬送の担い手がいない一人住まいの方等の葬送のありかたとか。

 お寺としても考えておかなければいけないことが、結構あるなぁなどと。




2022年8月21日日曜日

8月20日(土)お参りの日

 8月20日土曜日。晴れ。
 いつもどおり、前住職(父)と手分けしてのお参り。月参りと、お葬式のおつとめ。
 

 高齢のご婦人のご葬儀。ご葬儀、ご家族だけのお送りだが、ひ孫さんも5~6人いらっしゃってご一緒にお送り。ちいさなお子さんたちも、手を合わせ、花を手向け、丁寧にひいおばあさんをお送りになっていた。

 月参りのおうちには、関東からお孫さんが返ってこられていたおうちもあり、楽しそう。

  還骨・初七日を終えた後、急遽ご往生の知らせを受けた御門徒のおうちへ、いわゆる「枕経」へ。年配の地域・町会の役もされていた年配の方。ご親族もあつまって一緒におつとめを。

 夕刻からは、園田学園女子大学で担当している「つながりプロジェクト」に関するオンラインでのMTG。学生さんとのMTGはどうなるかドキドキする部分もあるが、来月の「報告会」に向けての段取りを一通り決めることができた。(よかった)

 あわただし中にお送りのおつとめが重なった日。

 体力的にはキビシイものがあるが、一つ一つ丁寧に、おつとめして、大事な時間が大事に過ごせるように努めたい。自戒も込めて。




 

 


開催報告 第21回西正寺寄席 開催しました。

 


 2022年(令和4年)8月21日(日)は、第二十一回西正寺寄席の日でした。
 2012年から初めて11年目になった西正寺寄席。今年の4月に諸事情で開催しなかったので、ほぼ1年ぶりの開催となりました。
 また、ここ2年はコロナでいろいろと制限をしたり、オンラインだったり、規模を小さくしたりしての開催でしたが、ひさしぶりに対面で60人ほどの人に入ってもらっての開催でした。

 開催にあたって西正寺寄席実行委員会、西正寺門徒のみなさまに、準備や運営にご尽力いただきました。いつも本当に、お寺の活動をさせて下さっていて感謝しています。ありがとうございます。

 お昼過ぎから会場設営などの準備を始める。
 14:00開場なのだが、もう13:30頃から人があつまりはじめる。


14:30開演。
トップバッターは 桂雪鹿さん。「時うどん」。
もとは小学校で先生をされていたという異色の経歴とのこと。

続いては、桂三象師匠。枕でずっと、大笑い、爆笑の渦に会場を巻き込んでいた。
ネタは、「シルバーウエディングベル」。


露の団姫さん「ちりとてちん」一年ぶりの西正寺寄席。
みなさんもとても楽しんでいただたようす。

中入り休憩をはさんで、三象師匠の裏芸、「三象おどり」。
トークも、踊りも、いでたちも、ずっと爆笑のうずでした。

おそろいの髪型。笑

 ひさしぶりの西正寺寄席、とても楽しかった。来場の皆さんの笑い声も高らかで、とても楽しんだ頂けたのではないかと思っている。
 三象師匠の踊りを見させていただきながら、「こんな距離感で、生の落語家さんの芸を見られるというのは、とても贅沢なこと、豊かなことではないかなぁ」と感じていた。テレビを通して、あるいは大きなホールですごく大勢の人を対象に行われる公演もすごく大きなことだろうと思う。でも、生活圏内に、こうやってあたりまえのように「文化」や「芸能」に触れられること、そしてそれが生きた生々しいものとして眼の前にあることが、ごく自然に、当たり前のように行えていることは、とても豊かなことのように感じた。
 
 正直、久しぶりで「忘れてしまっていたこと」、いくつかの「不手際」もあったようなことだが、また楽しい機会を皆さんと持ちたいと思う。
 
 無事に今回の西正寺寄席も開催できたこと、それがなによりほっとしている。
 ありがとうございました。



2022年8月20日土曜日

8月19日(金)月参りはなかったけれど、なんやかんやとはあった日。

 8月19日金曜日。晴れ。
 たまの月参りのない日。午前中はゆったり目に過ごす。お子さんと遊んだり、お世話をしたり、本を読んだり、家事をしたり。お昼過ぎ、お寺の方へ移動。事務仕事と夕刻にあるお通夜のための準備などを。

 14:00過ぎ、ひと咲きプラザへ。
 「Up to You!活動報告会」に参加。市長・教育長・副市長、その他行政職員の前で、ユース交流センター等で活動する若者・中高生がそれぞれの課題や活動から政策提言などのプレゼンを行うイベント。
 教育委員としてもお誘いのお声がけをいただいていたこともあり、また昨年の会にも参加していたこともあり、今年も途中からながら参加。

 多忙な市長・副市長、教育長をはじめ、幹部職員が時間を割いて、若者の声に耳を傾ける貴重な機会。若い人たちの想いのこもったプレゼンに感じるものがすくなからずある。本当に将来、社会を変えるほどの人になるんじゃないかと思わせられる、太い芯の通った志を感じるようなプレゼンもあった。楽しみ。 

 いろいろと思うところ、考えるところも多くあったので、参加してよかった。

 

 終了後、立ち話的に意見交換。
 夕刻、お通夜のおつとめ。父が一度だけ、法事にお参りにいったことのあるおうちのご葬儀。お通夜の前に、ご家族がご挨拶にお越しくださり、故人のお話をいろいろと伺う。

 帰宅後、翌日のご葬儀の準備など。

2022年8月19日金曜日

8月18日(木)お寺のそとで仕事する 

 8月18日木曜日。晴れてた。
 午前はデスクワークとお参り数件。先週の「お盆感」から一転、通常運転・日常感。
 お参りを終えて、昼食にスタッフのアマサキさんといっしょにパイナワーフへ。あまりお寺にこもりすぎるのもよくない。可能な時には外に出たほうがよい。

 昼食と、マスターも含めた雑談と、作業と、打ち合わせ(比率1:5:2:2くらい)で、午後半ばまで滞在。雑談のなかに、いろんな情報や知見もきっと得られたはずだ。(多分)

 アマサキさんが、永代経法要のチラシと、「葬儀」のイベントのチラシを仕上げてくれて、入稿・発注もパイナワーフから。

 パイナワーフのトイレに、西正寺関連のチラシが2種類も目立つところに置いてくださっていた。(感謝) チラシなどを見ていると、西正寺の他に、大仏とか地域のこととか、政党・議員さんのチラシも。 扱いにくいはずの「宗教」や「政治」も見事に調和している。
 パイナワーフのトイレは、ローカルの縮図がギュッとつまっている空間。ぜひ、立ち寄られたし。

 そうそう、来月にはキャナルフライデーもあるので、パイナワーフに届いていたチラシもたくさん受け取ってきた。(この企画にもすこし関わらせてもらっている)西正寺寄席で配ろう。


 帰り道に、コバショこと小林書店へ。 注文していた本が届いていたので受け取りに。店主の由美子さんとお話していると、コバショの愛さんが近くで大変興味深いことを始めているとのこと。案内いただき、拝見させてもらった。
 素敵な場所だったので写真を撮らせてもらったが、まだあんまり知られていないようなので、モザイクにしておく。
 
(モザイクかけておく)

 立花商店街に立ち寄ったからには、「西正寺せんべい」を焼いてくださっている中田屋さんに挨拶をと向かう。商店街の途中で、おかみさんにばったりとあう。木曜はお店はお休みだったが、出くわしてご挨拶できた。(おせんべいは買えなかった)

 ホームセンターで、日曜日の寄席のために必要なものを買い出しして、お寺へ。
 17:00すぎまで、11月予定している継職法要のための作業。(写真の発掘、お寺さんへの連絡、出欠ハガキの対応)など。
 
 
 


 


2022年8月18日木曜日

8月17日(水)どしゃぶりだったお参り

8月17日水曜日。大雨。久しぶりに雨。
お参りのタイミングで、土砂降りにあう。毎月17日にお参りにいくおうちの方に以前「17日は、なんか雨が多くて、申し訳ないんです」といわれたことがあった。それ以来、「今日は晴れてますね」「雨じゃないですね」と、天候をそのおうちで確認するようにしている。(実際17日が雨になる確率は、やや多いような気もしている。)
そんなわけで、「きょうはどしゃぶりですねー」と笑いながらのお参り。
移動し始めが雨の合間で、「大丈夫だろう」と思っていた所へのどしゃぶりで、衣が濡れてお伺いしてしまったので、ちょっとお座布団も湿らせてしまった。

11:30~12:30、オンラインでのMTG。本願寺の布教使課程の出講してくださる外部の先生と、講義内容についてのうちあわせ。大変楽しくなりそう。
打ち合わせの中で、社会的な問題や課題のあるイデオロギーを無自覚なままに宗教が背中を押したり関わってしまっているところを相対化する試みとしての「遊び」という話もあり、大いにもりあがる。

午後、デスクワークと休憩。

18:30から21:00前まで、教育に関する事柄で面談・意見交換。
直接会って話すことで、通じることや見えてくることも多々ある。今回のケースもこまめなコミュニケーションや情報交換の大切さを感じる。

夜も強く雨がふる時間帯があった。
大阪、京都あたりで豪雨の警報がでている。


2022年8月17日水曜日

8月16日(火)お参りとデスクワーク

 8月16日火曜日、快晴。暑い日。
 お盆参りがほぼほぼおわり、通常の月参りが主になる。日常が返ってきたような気分。

 午前中、デスクワーク、月参り、デスクワーク。
 午後からは、デスクワークというスケジュール。

 スタッフのアマサキさんが、1日入ってくれる日だったので、永代経法要のチラシ、9月13日のイベントの告知等、広報関係の仕事が進む。

 16:30から、境内の建築関係の打ち合わせをオンラインで。数年かかりの懸案事項、ちょっとずつ、ちょっとずつ進んで、かなり形になってきた感。

 なんやかんややらねばならないこと、よまねばならない本等があるが、思うように進まない。時間が経つのもあっという間。すぐに一日が終わってしまう感じ。

 ひとつずつ、ひとつずつ。

 

【イベント企画】9/13(火)開催「そろそろ、これからの「葬儀」についての話をしよう~「送る側(喪主・家族)」の立場から考える~」

 「なにか葬儀についてお話する機会を持ってほしいです」とお願いしていた池邊文香さんをお招きしての企画、こんな感じで開催することになりました。

そろそろ、これからの「葬儀」についての話をしよう
~「送る側(喪主・家族)」の立場から考える~

 日程:2022913日(火) 19:0020:50

会場:浄土真宗本願寺派 清光山西正寺本堂(尼崎市上坂部3丁目36-8)


 

情報は、以下のページで紹介しています。 講師や内容については、以下のサイトをご覧ください。

 ・西正寺ホームページ http://saishoji.net/archives/767
 ・Facebookイベントページ https://www.facebook.com/events/526001415962244
  (参加申し込みや、寄付の応援はpeatixからしていただけます。申し込みなしでも参加可能です)


  企画の趣旨や内容については、他でも書くので、ここでは裏話的なお話を書こうかと思う。

◎ 池邊さんと宴席を繰り返したという話

 池邊さんと最初にあったのは、大正大学さんの「地域寺院」のシンポジウムときだった。(2019年3月12日 第2回地域寺院倶楽部シンポジウム) この地域寺院という取り組みは大変興味深く拝見していたし、関わっているのが知己を得ていた小川有閑さんということもあったし、登壇者が函館でカリー寺をしてくださっている筒井さんということもあって、「えいやっ」と東京に足を運んだ。

 シンポジウムに参加して、懇親会に参加して、面白い人と面識を得ることができた機会でもあった。終わった後、この小川有閑さんと「もうちょっと行きましょうか」と別途に懇親会を開催したところで、ご一緒させていたただいた中にいらっしゃったのが池邊さん。
 まあ、小川さんと池邊さんのやり取りが面白かったのだが、ここでは書けない。

 ちょうどその直後のタイミングで、池邊さんが大阪にいらっしゃって應典院の終活のイベントに登壇されるということでそちらにも参加した。(應典院 3/27~4/13 おてら終活 花まつり を開催します!
 そして、そちらにも打ち上げ・懇親会があって参加させてもらった。ここでも、またわいのわいのいう中で池邊さんに、「よかったら、一度西正寺に来て下さいよー」(勢い)というと、その直後にあった「西正寺寄席」に足を運んでくださったのだった。(書きながら記憶をたどったら、そうだった)
 そんで、そちらの懇親会にもたしか参加してもらったような気がする。
 (こう振り返ると、短い期間に3回も宴席ご一緒していたわけだ。つまり、結論は、お酒の席でもりあがったからなんかやりましょーという話が展開して、こういことになったというのが一番大きな要因のような気がする。笑)


◎「よいかなよいかな」もやりましたね。

 池邊さんと意見交換するなかで、いろいろな視点や価値観で通じるものがあったというのは結構大きなことだったと思う。池邊さんは、「葬儀」に関わる仕事をされ、数多くのご家族の葬儀・お弔いに関する相談を受けてこられた。また、現在のお仕事の事務所を「お寺」に置かれていることもあって、お寺の状況もよく知っていらっしゃる。
 お仕事として葬送に関わり、また会社の役員ということもあって、ビジネスに関わる知識やスキルということも相当蓄えていらっしゃることが察せられるのだが、一方で、よくない「ビジネス臭さ」みたいなものは池邊さんには感じなかった。(葬儀や、お寺に関わっていても、悪い意味での「ビジネス臭」みたいなものが立ち上がってくることがある。しかし、池邊さんにはそういうものがなかった。) むしろ、葬儀やお寺についてのお話をされる中で大事にされているものは、お寺や仏教がもつ「温かみ」、蓄えられている「文化」といった、なかなか可視化できないものの価値を言葉にされていた。 そういったところを、僧侶以外の立場から、言葉にしてほしいと思ったところでもある。

 実際に2020年には、「よいかなよいかな」で池邊さんと葬儀についてお話をさせてもらう機会を得た。(今聞き返すと恥ずかしいw)

 

 「お葬式について語り合ってみたよ」よいかなよいかな(その9)
https://youtu.be/dIjzf9YyTXw


「葬儀・お寺・お坊さん これからどうする どうなる?」 よいかなよいかな(その10)

◎ そんなこんなで今回開催

 そういうわけで葬儀に関する専門的な知見をもちながら、お寺・仏教の立場に対しても造詣深く、配慮くださる視点をもってくださる池邊さんに、現在担当している本願寺関係のある研修で御講師に来てくださることになった。
 「せっかく関西に来てくれるんだから、西正寺でもなんかお話する会をお願いしますよ―」的なオファーをして、今回の開催に至った。

 普段は関東にいる池邊さんだが、もともとはバリバリの関西人だ。
 関東にいても、池邊さんのまわりには、関西弁が響き渡っているような印象すらある(あくまでも、個人的印象論です)ちょくちょくは、関西にいらっしゃることもあるけれども、まあ、貴重な機会になるだろうと思っているので、関心を持ってくださった方はぜひぜひ、ご参加いただきたい。どうぞよろしくお願いします。





2022年8月16日火曜日

8月15日(月)今年のお盆もひと段落

 8月15日月曜日。快晴、相変わらず暑い日。
 お参りのスケジュールは、月参りと、お盆のおまいりと、お葬式。遠方(原付で20分程度)もあり、ひとりではむずかしく、前住職(父)と調整して分担。

 ここ1週間ほどは、お盆まいりの予定が入っていた。久しぶりにお目にかかるおうちの方、毎年この時期にお目にかかる”恒例”のおうちの方、さまざま。しかし、いずれも一軒一軒が大切に故人と向き合い、仏さまに手を合わせる時間に、お経をおつとめし立ち会わせていただく。

 お盆のおつとめには、できる限り(ほとんど)仏事のこと、教えのことを、時には真正面から、場合によっては雑談にまぎれこませるようにしながらお話をさせてもらってきた。
 「小話がいい」という感想ももらったりした。 1週間近く、そういう時間に立ち会わせてもらい続けたせいかもしれない、こちらの方がなにか、そういう宗教的な感度(霊感とかそういうものではない。オカルト的なものでもない。人生や、生死についてしっかりと考え、向き合うこと)のアンテナを高めさせてもらったような気がしている。

 当たり前のように、お盆という時期を通して、故人に向き合うこと、生死を考え、それぞれの人生に向き合うことが行われていたのかもしれない。

 お盆参り・葬儀の一連のおつとめと、夕刻まで移動や待ち時間をはさみながら「おつとめ」をさせてもらいつづけた一日。 さすがに夜にはあまり頭がまわらない状態になっていた。帰宅後、アマゾンプライムで「逃げ恥」を見ていたら、なぜかちょっと元気が回復した夜。



2022年8月15日月曜日

8月14日(日)月参り・お盆・お通夜・お話

 8月14日日曜日。快晴と午前ににわか雨。 基本的に「暑い日」
 月参りとお盆のお参り、夕刻にお通夜のおつとめ。

 今年はいわゆる「初盆」のお参りが例年に比して多い。
 往生されて最初のお盆を「初盆」や「新盆」として、特別な形でおつとめされるご家庭が多い。一軒一軒お参りに伺うごとに、すこし薄らいでいた故人のことや、ご家庭の雰囲気等を思い返させられながら、おつとめさせていただいている。
 

 例年お盆をおつとめされるおうちもある。
 親や祖父母のおつとめだけではなく、お子さんや、兄弟・いとこを偲ばれてのおつとめもあるので、故人との向き合いは、千差万別。「これでOK」という形などないのだろう。
 

 できるだけ、仏事の形・心、仏教・浄土真宗の教えの話を言葉にしてお伝えするようにはしているけれども、実際は、そういうおつとめを通して僧侶であるこちらが「教えられる」ことの方が多いのかもしれない。(きっとそうなのだろう)

 あるお宅のお盆のおつとめの際、「おつとめのたびに、いつもしてくれる「小話(こばなし)※」あるじゃないですか。あれ、いつもいろいろと考えさせてもらえて、いいなぁって思っています」(一部意訳)という言葉をもらえた。こんなフィードバックをもらえると大変喜びます。

(※「小話」という、何と名付けていいのかわからなさのなかで選んでもらえた”名称”も、正しくはなくても、十分に意とされるものが伝わるものだとおもったので、そのままにしています。内部的には「ご法話」とか「お説教」とか、「おはなし」とかいうたりします)

 

 午後にはいって、お参りがひと段落。すこし休憩した後は、さぼっている会計仕事に着手。夕刻は武庫之荘の方まで、お通夜のおつとめに参上。

2022年8月14日日曜日

8月13日(土)お盆の一日

 8月13日土曜日。今日も快晴。今日も暑い日。
 「暑い日が続きますね」が定番の挨拶になっている。お盆参りもピークを迎えている。
 この日は、月参りが8件、お盆参りが8件。前住職(父)とそれぞれお参りにまわる。

 北九州のあるご住職の話によると、あちらでは一人で1日30件とか40件のお参りがあるというが、どうやっておつとめされているのだろうと思う。やはり、他のお寺さんほどは「お盆らしくない」のかもしれない。

 というわけで、お昼過ぎまでお盆参り。
 昼下がり少し休憩して、夕刻まで事務(会計)作業。

 明日・明後日(14日・15日)の通夜・葬儀のご連絡があり、日程調整。
 夕刻、書道の教室に行こうとするが、お盆スケジュールで18時までとのことで間に合わず。

2022年8月13日土曜日

8月12日(金)なつかしさも感じながらお盆参りを。

 8月12日(金) 快晴。暑い日が続く。夕刻ににわか雨で少し気温が下がったか。
 関東の方には、台風が来る様子。お盆直撃がお坊さん界隈では心配されている模様。

 午前中はいつものようにお参り・お盆参り。
 ただ、この8月12日はすこし特別な日。12日は月参りが少ない日なので、昔から遠方の「お盆参り」を8月12日にさせていただいている。僕が小さかった頃(5歳くらい)の時に、門徒のおじいさんが運転をしてくれる車に乗り、父のお参りについていって、一緒に「お盆参り」をさせてもらったこともあった。
 うちには車が無かったので、車に乗ること、お参りについていくことという特別なことが2つ重なった思い出が小さいな頃の「お盆参り」だった。

 数年前まで、そういう幼少期の記憶を思い起こさせてくれるおうちへのお参りも数軒あったが、今では幼い日にお参りしていたおうちも1軒だけになっている。もちろん代替わりもされているが、お参りのなかで、そういう「昔の話」をさせてもらうことも楽しいことのひとつ。

 朝1番にお参りを予定していたおうちと、一番最後にお参りに伺う予定だったおうちが、急な事情でキャンセルになったので、すこしあわただしさが緩和された中でお参りをすることができた。

 午後は事務と家事。

 20:00から、伝道院(本願寺派布教使課程)に関するオンラインでのMTG。以前にもブログで書いた(https://ryogo1977.blogspot.com/2022/08/82.html)伝道院での公開の法座企画についてが主なテーマ。
 8月25日から実施されるので、興味をもっていただけるようであれば、チェックして足を運んでいただけたらうれしい。


 

2022年8月12日金曜日

エッセイ:生きているものだけで生きているのか?

〇 お盆に故人と私たちのことを考える

 お盆参りが本格的になってくる時期が来た。
 道ですれ違うお坊さん率も急上昇だ。今日は10分で、5人のお坊さまとすれ違った。多くの方が「お盆」だからと、故人に心を向け、仏事を営まれていることだろう。

 僧侶として、故人に向き合われる仏事・おつとめに立ち会う日々を過ごさせてもらっている。その中で、次のようなことを考えている。それは、「人は生きている者との関係だけで、生きているのではない」ということだ。人が生きている姿を突きつめていったさきには、必ず「死者」がいる。故人・先人とともに生きているのが私たちの生きている姿なのだろうと考えている。



 〇故人に語りかける人

 毎日、お仏壇に向かって「おはよう」とあいさつをし、話しかけられる人もいる。生前と同じように「コーヒー」や日本茶を入れて、一緒に飲んでいるという人もいる。(ビールという人も知っている。笑)命日や、誕生日には故人が好きだったものを選んで買ってきて、お供えされるという人もいる。
 そういう人たちに対して、「もう故人はいないから、そんなことしても無駄ですよ」という声は意味をなさない。むしろそういった姿から、実は私たちは「故人とともに生きる」ということができるのだ、ということを教えられるのではないだろうか。

 普段は何もしてなくても、何か大きな出来事があればお墓やお仏壇に向かい報告をするという方もいるだろう。悩みや決断が必要なときに、大事な人の墓前・仏前に向き合い、相談したり、心をたずねるということをする人もいるかもしれない。そういったことをするのはなぜか? 故人がいないのではなく、「そこにいる」ものと、「ともにいる」ものとして、向き合っている姿がそこにもあるのではないか。

〇死者はいなくなってしまうのか?

 「死者は死によっていなくなってしまうのか?」この問いには、人によってさまざまな答え方があるだろうと思う。「人は死んでもいなくならない」、「心の中で生きているのだ」という人もいるだろう。あるいは、ともにいた人が「いなくなった」という重みにこそ、意味を見出すという人もいるかもしれない。
 ただ、間違いないことは、死んでいなくなってしまったから「その人を忘れてしまえばいいのだ」とか、「もうその人のことは考えない」とは思わないということである。
 
 多くの人が、大切な人であればあるほど、その人が亡くなってもなおその人のことを思い生き続けている。「いたらどう思うか」とその遺志や気持ちを斟酌する。あるいは、その人がまだ目の前にいつづけているかのようにふるまう。
 あるいはこのように言うことができるかもしれない。死者に対してもっとも敬意をもったふるまいとは、死者をいない人として―扱うのではなく、いまなお「生きて存在されている」ものとして接するということではないかと。あるいは、死者を「死者」として向き合うということは、生きているもの以上に「存在」を意識して尊厳をもって向き合うことといえるかもしれない。 

〇故人の想い、故人との約束

 「死者とともに生きている」ということは、さまざまなところで感じることができる。生前に教えられたこと、与えられたもの、私たちがあたりまえに身に付けていることのなかにも、それを与えてくれた人の想いを見出すこともできるだろう。(例えば、「食べ物を粗末にしてはいけない」という自身の価値観のなかに、それを教えてくれた人の姿が立ち上がってくることもあるかもしれない。自らの技術や精神のなかにそれを与えてくれた師の想いを見出し、それを尊重しながら生きていくということもあるかもしれない)

 故人との生前にした約束は、「いなくなったから気にしなくてもいい」とはならない。むしろ、より一層大事なものとして守っていかれる人もいるだろう。
 「あの人だったらなんというだろうか」「今ここにいたら、どうするだろうか?」とその人のふるまいや、まなざしを意識して行動する人もいる。それらは、いずれも「死者と共に生きている姿」と呼ぶことはできないだろうか。

 そういう「死者のまなざし」や「死者の想い」を汲みながら生きる人がもつ強さがあることを私たちは知っている。死者とともに生きる生き方は、自身と自身の周りにあるものと丁寧に向き合い生きる姿を育てるものであるようにも思う。

〇故人に想いを向ける仏事の時間

 今は、お盆。多くの人が故人に想いを向け、仏事を営む。
 僧侶である私も、多くのご家庭で仏事をともに営ませていただく。僧侶としてできることは、それぞれの方が丁寧に故人と向き合われること、思いを向けられることに「たちあう」ことなのではないかと思っている。僧侶ができることは、その「むきあい」が、大切に、丁寧に行えるように、丁寧におつとめをはじめとした仏事を行う事、故人との向き合いが立ち上がってくるようにお手伝いすること、そういうことなのではないかと思っている。



8月11日(木)お盆参りのなかで

 8月11日木曜日、快晴・暑い日。
 この時期の恒例だけれど、衣から肌が露出しているところが他とくらべて、一段と日焼けしている。手首のごく部分(手袋と衣の袖のあいだ)と、襟元のV字部分(衣の襟ぐち)。


 この日もこの日とて、いつもの月参りに加えてお盆のお参り数軒。
 お盆参り一軒が、昔よく注文したお肉等を配達してくれたお肉屋さんのおうち。そのお肉屋さんがあった市場もなくなり、近くに軒を並べていた個人商店もほとんどが閉店してしまっている。子どもの頃は、お肉屋さんはあそこのお店、お魚屋さんはあそこのお店と、それぞれのお店で足を運んで買うものだった。むかしながらのお肉屋さん、お魚屋さんのお仕事と生活の混然一体となった雰囲気が懐かしく思い出している。昔は、「職住一体」があたりまえの仕事の仕方だったものが、職住の分離、さらにはその物理的・心理的距離も大きくなっているのだろうなぁと思う。

 (※書いていてふと思ったこと。お寺のそういう「職住混然一体となった空気」もいずれ失われてしまう時代が来るのだろうか。生活から分断された、純然たる職業的な空気をもったお寺・僧侶の方が、当たり前になる時代もきてしまうのだろうか、などと考えたり…。)

 園田地域のお参りでは、前日届けられた『南部再生』の記事が早速話題のネタに。
 園田にはなぜ、東園田町しかないのか?でひと盛り上がり。


 お寺の本堂にお越しになって初盆をおつとめくださるおうち、お盆にあわせて納骨のおつとめをされるおうち(市営墓地)、それぞれのお盆のおつとめお参りさせていただく。

  市営墓地では、お盆の時期ということで、駐車場が満車ちかくになるほどお参りに人が足を運ばれていた。ひとそれぞれ、おうちによってそれぞれのお盆の過ごし方、故人との向き合い方、仏事の営みがあるのだろう。

 午後になって、お寺に戻る。
 午後からは、お寺の事務仕事、諸連絡。1件めずらしい「人探しをしている」という電話の問いあわせなど。

 夕刻、すこし散歩。一日が早い。

2022年8月11日木曜日

『南部再生』vol.65 

 


 『南部再生』vol.65を西正寺に届けてもらった。
 届けてくれたのは、これを刊行している南部再生研究室http://www.amaken.jp/)の若狭健作さん(お友だち)。

 南部再生研究室(ツイッター:https://twitter.com/amaken_amgsk)は、2001年3月に、尼崎公害訴訟の和解金をもとに設立され、この『南部再生』の刊行の他にも、尼崎の運河でクルージングしたり、”幻の郷土野菜尼いも”を復活させるなど、かなりナナメのエッジの効いた尼崎の魅力を創出する活動をし続けてくれている(と私は思っている)。
 この『南部再生』では、尼崎の、主に南部地域の魅力を発信し続けていて、いまや尼崎にとどまらず、市外にもファンは多い。また、他市町には、これをモデルにしたフリーマガジンが刊行されるくらい。(https://twitter.com/Ryo_Saeki/status/1265447535193108480

 なかひらも、数年前から、編集会議に遊びに行かせてもらったり、可能な時には記事を書いたりしてお手伝いさせてもらっている。仕事とか負担というより、ただただ楽しくかかわらせてもらえて、大変楽しい。
 ※今号は、「園田にかける橋番付」と、「島人も知らない七不思議」の一部を執筆させてもらった。

 今回は、「南部ちゃうやん」という大方のツッコミが予想されがらも、あえての園田(われらが西正寺も所在する地域)の特集。おそらく園田地域の多くの人が、答えられないだろう園田の「謎」も取り上げられている!
 
 〇そもそもどうして「園田」というのか?
 〇園田にはなぜ「東園田町」しかないのか?
  (「園田」を関する地名は、尼崎には、園田も、西園田も、北園田も、南園田もなく、「東園田町」しか存在しないのだ)
 〇なぜ、「島之内」は、尼崎市を中心としながらも、伊丹市・豊中市に越境しているのか?
 〇園田村の村章が不明
 〇水路沿いにある数え橋はなにか?
 〇園田学園は、なぜ「塚口」にあるのか?
 〇田能は、「たのう」か「たの」か。

 ⇒ このすべてを知っている人などいるのだろうか?
 しかし、これらの謎の答えは、『南部再生』にあるのだ。(一部はなお、不明のまま)



  今号もディープな尼崎のスポットが紙面のいっぱいにとりあげられているが、この中でももっともディープなスポットのディープな部分に踏み込んだなぁと思われたものが、この「戸ノ内というシマ」(山納洋さん筆)だ。
 園田島(園田アイランド)の南端にかかる二つ並んだ橋を越えていきつく、尼崎の極東の極東エリア「戸ノ内」。幼心に市バスの行き先表示にある「戸ノ内」がやけに印象的だったあの場所。
 尼崎の中でも、紆余曲折・複雑な歴史を刻んできた場所でもる。2ページという限られた誌面に、ぎっちりとつまった戸ノ内の歴史は必読。

 ちなみに、いま戸ノ内には知る人ぞ知る賢者が住んでいます。


 南部再生65号は、市内各地で配布中。
 西正寺でも、いただいた分がなくなるまで、お配りしています。


 

8月10日(水)お盆のお参り、夕刻はちょっと散歩

 8月10日(水)、快晴でやはり暑い日。

 お盆のお参りが徐々に本格的になってきている。お参りのスケジュールがタイトになっていく。そのうちの一軒が、お昼過ぎに、隣の市にある小学校の時の担任の先生のおうち。
 数年前から、お盆のお参りを依頼されて、毎年おつとめに伺っている。大通りから少し入り組んだ地域の小道をはいっていくところで、毎年迷う。今年もちょっと迷った。

 30数年前に担任の先生だった方のおうちにお伺いして、上座に座らせていただき、仏教に関する質問に答えるようになっているとは、不思議なものである。

 お寺に戻ると、ちょうど、南部再生研究室の若狭さんが、南部再生を届けに来てくれた。境内ですこし雑談。
 

 今回の南部再生についてはこちらに書いた。⇒ 「『南部再生』vol.65 」https://ryogo1977.blogspot.com/2022/08/vol65.html 園田が特集されているので、ぜひぜひおすすめである。

 お寺の会計、事務仕事を夕刻まで。
 夕刻、運動不足解消もあって、妻子と1時間ほど散歩に。
 ホームセンターまで歩くと、これあるといいよね、と予定外の買い物も。


 帰り道。塚口の某所で、角打ちの営業をしている酒屋さんがあった。
 これは、今度来てみなければ…。



 


2022年8月10日水曜日

8月9日(火)お葬式のことと肉みそを作ったこと

 8月9日(火)

 月参りとご葬儀の一日。

 午前中は、月参りと空いた時間に事務作業。
 11:20頃に式場に入り、12:00からの葬儀。

 故人とはあまりお会いする機会はなかったけれども、ご家族自体はずっとお付き合いさせていただいていたおうちでもあり、お孫さんが小学生のころは「花まつり」に参加してくれていたこともあり、そのほか折々にコミュニケーションやお話をする機会があり、ということで、ある意味で気心の知れた関係のおうち。

 昨夜のお通夜も、この日の葬儀も、おつとめ前は笑って明るくおしゃべりされていたご家族が、おつとめの最中には、涙される様子が聞こえてくる。(声が聞こえてくる。)

 ご家族・ご親族の故人と葬儀というおつとめに向き合われる心や、お寺とのこれまでの関係性とかもあって、いろいろな意味でいいご葬儀をおつとめいただけたのではないかと思う。(僧侶側の自己満足に終わらないようにしておきたいとも思う)

 

◎ 葬儀を行う住職のスケジュール

ちなみに、僧侶側の葬儀の流れとしては、だいたいこのような感じ。(意外と知られていないのかも…)

(1)「会館に行って準備を整え葬儀をお勤めする」(合計1時間半ほど)
 ・準備含め30~40分前に開場入り。葬儀のおつとめ~出棺に1時間程度。

(2)「火葬場に行き、おつとめをする」
・火葬場へ移動し、炉の前でおつとめ(火屋勤行)。(待ち時間含めて20分~30分程度)

(3)待機
・いったんお寺に帰って待機。だいたい、その空き時間に準備や、事務仕事、あるいは昼食等(待ち時間が2時間半~3時間くらい)

(4)還骨勤行・初七日のおつとめ、日程の説明と相談

・約束した時間に、式場(あるいは別の場所)にいき、ご家族と「還骨勤行」「初七日」のおつとめ。(30分程)

・おつとめの後に、中陰(簡単にいうと四十九日までの日程)を記した表をお渡しし、今後の説明と、相談をして退出。

という時間の流れになります。

 今日のスケジュールでいうと、11:20式場へ 12:00葬儀 13:00頃葬場(式場と火葬場が比較的近いので早かった) 13:30頃お寺に戻る。 (事務作業や打ち合わせをした) 16:00還骨勤行・初七日 17:00前お寺に戻る。 という形。

 葬儀はだいたい、早ければ翌日、多いのは2~3日後の予定としてやってくるので、急なスケジュール調整や、変更が余儀なくされることを念頭に住職さんは日々動かれていることが多い。葬儀が入っても大丈夫かな?とか、もしもの時は?と。
 どうしても日程の都合がつかない場合は、葬儀の方を1~2日ずらしてもらう検討をしていただくこともある。そういうこともあって、住職というのは「連日ギチギチのスケジュール」を入れないようにする、ということも調整すべきことの一つになっているのだろうとも。(ご理解いただけたらありがたい)

 

◎ 肉みそを作った。

 めずらしく、18時ごろにすべての予定を終えられたので、家族とスーパーに夕食の買い物等に行き帰宅。

 クックパッドで見て、食欲がわいてしまったので、肉みそを作った。簡単で、ごはんにのせたり、豆腐にのせたり、冷麺にのせたりできる。(全部した)
 つくったのは、これ(https://cookpad.com/recipe/6764850(※チューブを使ったりして、簡単)

 ほかにも、いろいろなアレンジできそう。
https://cookpad.com/recipe/1426000 (※長ネギや、しょうが・にんにくのみじん切りで触感がかわりそう)



2022年8月9日火曜日

仕掛けとナッジの違いが興味深い ~ 

 

松村真宏『仕掛学~人を動かすアイデアのつくり方』

松村真宏『人を動かす「仕掛け」~あなたはもうシカケにかかっている』

 同一の著者の本。結構前に(多分2016年くらい)読んで、本棚に並んでいた本。別の本を探している際に、ふとまた手にとった。 この二つの本は、『仕掛学』は文章で少し硬めに、『人を動かす「仕掛け」』の方はマンガでとても柔らかに書かれているが、紹介されている「仕掛け」にはかなり重なるものがあった印象。

 両書とも、ついつい「やってみたくなる」仕掛けがふんだんに紹介されていて、それを眺めているだけでも十分刺激的で楽しい。

◎仕掛けとは…

 そもそも、仕掛けとは、もともとは人工知能の研究者であった筆者が2005年ごろから新しく取り組み研究分野とされる。筆者によれば、仕掛けとは、「問題解決につながる行動を誘うきっかけとなるもの」であり、
(1)公平性:誰も不利益を被らない。
(2)誘因性:行動が誘われる。
(3)目的の二重性:仕掛ける側と仕掛けられる側の目的が異なる。
という3つの要件を満たすものと定義されている。(『仕掛学』36頁。)(その意味で、一般的な意味で用いられる「仕掛け」よりも限定されているものとされる)
 今では、仕掛学研究会なるものも開催されているようだ。(仕掛学研究会:https://www.shikakeology.org/


◎ナッジとの違い
 近年、尼崎でも「ナッジ」という名前で仕掛け的な取り組みを耳にしていた。(例えば、こんな報道:https://amagasaki.keizai.biz/headline/1156/)。また、各地の行政でも積極的に「ナッジ」を取り入れようという動きがあるらしい(ネットで検索するとたくさん出てくる)。今回、すこしネットで両者の同異について気になり検索してみた。

 すると、本書の著者・松村真宏氏のホームページ’(シカケラボ https://mtmr.jp/ja/)には、仕掛けとナッジを「違うもの」として、その比較した表が提示されている。それによると、両者の相違は以下の通り。

8月8日(月)いろいろお参りと葬儀・法事の仏事で思っていること

  8月8日月曜日。尼崎は快晴で暑い。定番のあいさつが「こんにちは、暑いですねー」だ。 
 SNSのタイムラインを埋めようとするサマセミの投稿は一日たっても続いている。

 朝、家事して、お参り。月参り、お盆参り、法事のお参り。来週あたりにかけて、徐々に「お盆のおまいり」のピークがやってくる。(あまり)お待たせせずにお参りにお伺いするために、細やかなスケジュールと調整が必要になってくる時期。

 12:00 法事(四十九日法要)のおつとめ。すこし珍しく、伊丹市のホテルを会場にした法事のおつとめ。ホテルの前には、甲子園出場校2校の宿泊先である表示。ふむふむ。こちらにご宿泊なのですね。がんばってください。

 14:00過ぎ、いったんのお参りを終えてお寺に戻る。あまさきさん(スタッフ)と、8月・9月の行事のうちあわや、事務作業。

 19:00、お通夜のおつとめに行き、帰宅後、明日の葬儀の準備をして、終了。
 (その後は、家事等)


◎ 

 今日のお通夜や49日法要等、お別れに関わるおつとめや、それからあまり時間がたっていない法要では、いつもなにができるのだろうか、と思いながらそこにいる。(これは結構なお坊さんが感じているのではないだろうか)
 僕自身は、できうる限り丁寧におつとめをすること、お気持ちに添えるようなお話ができること、無理のない「会話」が法要前後にできること等といったことを心掛けたりはしている。
 

 ただ、今日もいくつかのお参り、おつとめでそうだったように、おつとめのなかに涙されたり、「やっぱり思い出しちゃってだめですね」といった言葉をいただくと、不用意に「悲しみ」を膨らませたりしていなかったかと、反省・振り返りをすることともないわけではない。(今日の場合は決してそうではないと思っているのだけれど)

 「儀式」をなすことの意味や、お坊さんとしてその場その場で、一つ一つのおつとめでお話すること、ということについては、ずっと考えていくのだろうと思う。ただ、お盆という時期は、お参りのみなさんが仏事によりいっそう心が向いていく時期でもあるので、センシティブで、敏感にならざるを得ない時期でもあるように思う。

 ただ、それに比例する形で、お寺・お坊さん側のスケジュールは過密化していきがちなので、きめ細やかな対応が、求められるときに限ってしにくい、というジレンマにも陥いるのかもしれない。


2022年8月8日月曜日

「ぶつぶついうねん」というタイトルの意味

このブログのタイトルは「ぶつぶついうねん」と名づけています。ライブドアのブログ(サービス終了)から、グーグルのブログに移植したので2.00になりました。
わたし、なかひらが大学院生時代(2004年頃)から、日常のよしなしごとをつれづれなるままに書き始めたのを、だらだらとゆるく続けているものです。

 ときどきは、そこそこちゃんとしたことも書いたりしたいなぁと思って続けています。ここ数週間は、日記のように毎日書いています。けれども、過去には数か月に一度の更新ペースという時もありました。そのようなことで、自分自身で「こうなければいけない」というものも持っていませんので、たいして期待せずに、お付き合いいただけたら幸いです。


 で、このブログの名前ですが、「ぶつぶついうねん」というタイトルは、『仏説無量寿経』に出てくる言葉、「仏仏相念」(ぶつぶつそうねん)をもじったものです。(つまりは、ダジャレです)この「仏仏相念」れは「仏さまと仏さまがお互いに念じあっている」というほどの意味の言葉で、仏さまの境地を表現するものです。それをもじって、「ぶつぶついうねん」と、つまり、その言葉通り、こちらは、どうでもいいことを「ぶつぶつという」くらいの他愛のないものです。

 仏教の思想研究をしていた人間ですから、やはり仏教由来のタイトルをつけたかった学生の気分をそのままひきついで、だらだら、ぶつぶつというております。



★出典:『仏説無量寿経』上巻

「去来現(在)仏、仏仏相念。得無今仏念諸仏耶。」(去・来・現(在)の仏、仏と仏とあひ念じたまふ。いまの仏も諸仏を念じたまふことなきことを得んや。)



8月7日(日) みんなのサマーセミナー 2022 大成功!w

 

閉会後の集合写真


 2022年8月6日(土)、7日(日)の両日、市立尼崎高等学校を会場にみんなのサマーセミナーを開催した。

 (多分)2017年から実行委員に関わり、今回は副実行委員長というポジション(基本的にフラットなチーム感なので、”役職”というより、ポジション・担当という感覚の方がふさわしいと思っている)でしたが、それらしいことはあんまりせず(というよりできず)当日も、(これは例年通り)開会前の準備はするものの、午前はお参りして、午後から現地に加わるという、行動だけは”役職者/重役出勤”。(ごめんなさい)
 
 それでも、達成感とか、充実感とか、連帯感とか、その他もろもろの肯定的な感情をこのサマセミに持てるということがひとつのサマセミらしさとも思う。これまでサマセミが歩んできた歴史と、ただひたすらに「みんなが(自分が)やりたいからやっている」という前向きなモチベーションが、このサマセミを包んでいるからなんだろうと思う。


(終わって階段の「サマセミ」をみんなではがしているところ)

 これだけのことをするからには、それなりに大変でしんどいことも、もちろんある。例えば酷暑の中屋外で作業をしないといけないこともあるし、面倒なトラブルの処理も数件あった。想定外の出来事や、「え!あれどうしてたっけ?」とか「なんで、これがここにあるの?/ないの?」みたいなこともある。けれど、サマセミのいいところは、ちょっと驚く程にそれらを(基本的には)前向きなメンタリティで解決してしまう人たちの集団であるということなんだろう。 
 それがいつのまにか、関わっている実行委員にひろがり、授業をしてくれるセンセイや、ボランティアのみなさんにも、いい感じで伝わっていった形が、当日の雰囲気やもたらされる「肯定的な感情」につながっているんじゃないかなぁ。


 最後の振り返りで出ていた、実行委員や当日かかわってくださったみんなの一言一言が熱くてまたよかった。「来年も」と期待にあふれるものばっかりだった。

 帰宅後、SNS(ツイッターやフェイスブック)のタイムラインには、サマセミ関連の写真や、画像があふれていた。
 知人や、関わる地域の人はみんなサマセミに行ってたんじゃないかというくらいの質量。
 センセイとして授業を実施した、生徒として参加したという経験はもちろん、このコロナで会えなかったたくさんの人たちにあえてよかった、あの人と再会できたのがよかったという声があふれていたのも印象的だった。
 いやー、サマセミすごいな。
 




 

 最後に、お礼を。
 実行委員を支えて、面倒なところ大変なところを担ってくださった市役所の担当部署の方たち(比喩ではなく、当日も一番汗をかいてくださっていたように思います)。会場となってくださった市立尼崎高等学校さま、物心両面からバックアップしてくださった行政・地域のみなさん、当日ボランティアやセンセイ・生徒として関わってくださった皆さん。いろんな事情で今回は参加出来なかったけど思いを向けてくださっていたみなさん(元実行委員とか、メンバーとか)もちろん、実行委員とご家族のみなさん・・・・(いろいろ挙げていくと本当に数えきれないし、まだもれているかもしれないので)みなさん。
 いい2日間でした。ありがとうございました。
 またやりましょう!



 
終わりのタイミングで「ゴロゴロ」と鳴っていた積乱雲


※このブログを書く中で、「イベント」という表現がしっくりこずに、「サマセミ」とあえて固有名詞に書くことにしました。もしかすると、サマセミをイベント一般におさめたくないなぁという気持ちが自分の中にあるということと、それをなんか読んでもらえる人に共有してもらえたらなぁという思いが自分の中にあるのだろうと思います。


2022年8月6日土曜日

8月6日(土) 3年ぶり!サマセミが現地開催

 

 8月6日土曜日。雨が降るという予報が出たりもしたけれど、私の上にはほぼ、雨が降らなかったという一日。(聞くところによると、南部の方では、降っていたらしい)

 さて、今日はついに「サマセミ」(https://samasemi.jimdofree.com/)本番の日。昨日も、一日みんなで手分けして準備をして本番を迎えた。

 朝7:00集合、受付・会場の設営、もろもろの準備をみんなでして、開会を向ける。
 8:30~12:30頃まで、お寺のお参りがあるため、一時離脱。
 お参りを終えて、午後からサマセミに再び合流。

 お昼休みの時間帯に、会場の市尼(市立尼崎高等学校)にもどったので、会場から昼食を取りに移動される参加者のみなさんの波とすれ違う。大勢の人の出入りに、「サマセミ感」を高揚させる。ワクワク。

 他の実行委員のメンバーも、ひさしぶりのリアル開催が実に楽しそう。協力してくれているボランティアのみなさん、市職員と市民との実行委員としてのチームワーク。
 なんというか、形容しがたいいい雰囲気のなかで、時間が流れて行っていた。

 本部になっているボランティア控室にいると、ゆかりのある様々な人が訪ねてくる。
市長とか、以前の実行委員メンバーとか、懐かしい顔ぶれと久しぶりの再会を楽しむ輪ができる。仕事を抱えて会場をうろうろすると、見知った顔があって、あいさつを交わす。
 
 センセイとして授業をした人、セイトとして参加してくださった人、いずれも楽しかったという言葉と表情。
 いやいや。とても楽しかった。
 明日も、また朝から一日、市尼で開催してます。
 明日も僕は、朝はお参り、昼からサマセミというスケジュールです。

 お時間あれば、ぜひぜひおこしくださいませ。




 



 アレコレ楽しみすぎて、写真をあんまりとっておらず、雰囲気を伝えられるものがなかったので、前回のリアル開催(2019)のサマセミの記録動画を貼りつけておきます。
 今日のではないのですが、雰囲気として、よかったら、御覧ください。
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 追記:サマセミにはいろいろなエキスパートがいるもので、専門的なお話を伺うのも楽しい。休憩時間にボランティア控室で、実行委員のとある方と「社会教育」についておしゃべり。(といいながら、僕が教えてもらうことの方が圧倒的に多い)。

 ・他の自治体の事例で、コミュニティスクールを社会教育主事がとても興味深いアプローチと動き方をしていて、「大人のコミュニケーションスキル」を獲得させるような”社会教育”の実践もあるらしい。(あえてわかりにくいようにぼかして書いています)

 ・社会教育主事という専門性もあるものの、その資格取得の体制やもろもろについては、賛否両論あるようで、もっとローカルに根差した「社会教育の専門性」スキルみたいなものも考えてもいいのではないかというような話も。
 
 備忘として。おもしろいお話を聞かせていただき、感謝。
 


2022年8月5日金曜日

8月5日(金)明日からのサマセミの準備と、オンラインのカルチャー講座


 
8月5日金曜日。晴れ間に、強めのにわか雨が降るなど、久しぶりのおしめり。

午前はお寺で仕事をして、午後からは、市立尼崎高等学校(通称 いちあま・市尼)へ、明日から2日間開催されるみんなのサマーセミナー(通称 サマセミ)の会場設営等の準備のため移動。(私は、実行委員です)

 朝から準備は行われており、みな仕事や、スケジュールの都合で、可能なところで命名参加。
 今年は「会場・設営チーム」に所属していることもあって、先日作った看板や、階段のパネル設置の作業をまずは担当。

  こんな風にちょっとずつ貼っていったのですが、姿が見えてくるたびに、なかなかテンションが上がる作業でした。


 通りがかりの高校生が「サマセミ」と読んでいってくれたり、他のメンバーが歓声あげながら写真をとったりしてくれるほど、映えるスポットになりました。


 サマセミについては、ぜひぜひホームページを参照してください。
 (こちらにも紹介記事を:https://ryogo1977.blogspot.com/2022/07/blog-post.html


 コロナや諸事情で今年は休講がたくさん出ています。
 学校で開催されるので、上履きも忘れずにお持ちください。

 いよいよあすから!ぜひぜひ、足を運んでください。

そんなことを言いつつ、準備の会を一足早めに退出させていただき、夕刻(19:00)から、NHK文化センターのオンライン講座。
 今回は、正信念仏偈の道綽章。
 
 余談や、あれこれお話しているうちに、時間が来てしまい、予定したようにはお話できませんでした。反省。
 

2022年8月4日木曜日

8月4日(木)レジュメ作成は計画的にした方がいい

 8月4日(木)、今日も晴れて暑い日。夕刻に夕立。
尼崎は、熱中症の危険性がいわれるほどの暑い夏の日。ただ、昨夜は東北(秋田・岩手・山形等)で、今日は石川県で豪雨による水害・河の氾濫のニュース。大きな被害が出ているようで心配。

 当方は、午前中はお参り。お盆のお参りも日に日に増えていく感じの頃。
 お盆だからと、ご近所の方や親せきの方もそろってお参りくださるおうちもある。大切にお参りされているお気持ちを大事にできるようにお参りし、お話しできるように過ごしたい。

 正午までに送信してほしいといわれていた、明日のカルチャーセンターの講座(オンライン)のレジュメ・資料をメールで送信。(ぎりぎりで)

 送信後に、「日付を先月から更新していないこと」「若干の誤字・訂正箇所」を発見する。すこしあれこれ思案して、順調に準備ができてなかったことが反映されているような気分。

 レジュメの作成は計画的に、ちゃんと準備しておくことが大事だといつもながらに思う。

 午後には、先日実施したバースディドネーションの寄付先であるenGrabさんに、寄付のお届けに行く。(それについては、こちらを参照されたし: https://ryogo1977.blogspot.com/2022/08/engrabyoka.html

(enGrabさんにあった、とてもよい将棋盤)


 帰宅後、荒れ放題、プリントやよくわからないものが散乱している自室を片付けようとするも、進んだのか進まなかったのかよくわからないような状態は改善せず、レジュメの手直しも進捗せず、タイムアップで本日終了。

 明後日の土曜・翌日の日曜はいよいよサマセミです。
 今年は副実行委員長をしています。にもかかわらず、お参りなどの都合があり、フルで現場にいないわけですが、よかったら、足をお運びください。

サマセミについては、以下の記事を 

https://ryogo1977.blogspot.com/2022/07/blog-post.html


バースディドネーションの寄付先・enGrab(えんぐらぶ)さんのYoKA(居場所)に行ってきました。


 今年の私の誕生日を中心に実施させていただいた寄付の呼びかけ~バースディドネーションのお渡しに( 一般社団法人 enGrabさん https://engrab.org/ )にお伺いしてきました。
 
 ※ 今年のバースディドネーションについては、こちらのブログ記事https://ryogo1977.blogspot.com/2022/07/45.htmlに掲載しています。
あらためて、賛同・協力くださったみなさま、ありがとうございました。

「かくれ家YoKA」という居場所の取り組みをされていて、そちらにうかがいました。

 スタッフさんと、利用されているお子さんもいらっしゃり、また滞在中には、兄弟でゲームをしに遊びにくるお子さんも。すでに、居場所として活用されているようすを拝見しました。

 寄付は、この活動の充実につかっていただけます。

 enGrabさんの活動は、ホームページでも紹介されていますので、一度ご覧いただけたらうれしいです。
 https://engrab.org/ 




 で、施設内を見学していると、立派な将棋盤も…。ということで、エングラブのMさんと、ついつい対局して3局も指してしまいました。


 立派な将棋盤はテンションもあがりますし、駒音もたまらない…。

 この将棋盤で指すためだけに、ふらっと足を運んでしまいそうです。




 

8月3日(水)サマセミの大きな看板を作る

 


 8月3日(水) 今日も暑い日。(連日酷暑が続いている)
 午前中は、事務作業とお参り。

◎お参り/法事のこと・法名のこと
 今日はご法事のおつとめであったが、諸事情からお葬式をおつとめにならず、49日の法要をおつとめされるという形。49日に際してあらためて、法名のご相談して法事をお勤めする。

 本来「法名」は、”教え(仏法)”に出あってその教え・その道に生きていくという”名のり”であり、仏弟子になったときに授かるものというのが本来なのだが、現実の大多数の認識が”亡くなってからもらう死後の名前”的なものになってしまっているのだろう。このあたりから、ちゃんと一般的な認識を改めるとともに、実際のお寺の活動の中で、形式も見直していかないといけないなぁと持っていることの一つ。

 ただ、お葬式はしなかったけれど、継続的におつとめするに際して、ご家族の方から「法名」※を欲しいという要望が根強くあることは、定着しているというか、「あるべきもの」と思っていただいているということで、すごいことだなぁと常々感じている。

(※「法名」:一般では、「戒名」といわれることが多いのですが、浄土真宗では”受戒”という形式がないことと、仏法にであった、教えを授かった名のりということで「法名」という)


 午後、「保育所」の申請をしに、妻子を窓口のある塚口へ送迎。書類に手違いがあったり、取り戻ったりとハプニングもあり、「1時間以内で終わるだろう」という見込みが、90分ほどかかってしまった。手続きには手間がかかるものだ。。。(涙)

◎ サマセミの看板作成

 夕刻、18:30頃から、今週末開催のサマセミの会場設置物作成のために、立花南生涯学習プラザへ。(すでに開始されているところに、随時メンバーが集まってくる形式)



 

みんなでわいわいといいながら、作業をすすめる。



 今年は、こんな大きな設置物も。
これがどこに置かれるかは、当日会場で。

 20:30頃まで作業し、目的だった 大看板、他の設置物を完成。(翌日の作業は不要になったため亡くなりました)仕事終わりに、あつまって楽しく、しかしこんな大きなものを協力しながら作るのは、さながら文化祭のよう。フラットな関係性で、冗談ばかりをいいながら作業を進める雰囲気は、筆舌しがたい。いいものだ。笑

 出来上がりに、こんな写真も。(この記事の一番上の写真もそうです。)




 先日も書いたように、サマセミの宣伝をしています。

 みんなのサマーセミナーは、今週末、8月6日(土)、7日(日)の開催です。
 わたしも実行委員として、当日(全日程ではないのですが)会場におります。
  

 


2022年8月2日火曜日

8月2日 〆切に追われながら、あまり進まない日/伝道院の公開される法座について

 8月2日火曜日。今日も暑い日。各地で40度を超えたとか、記録的な暑さの報道があった。
 おつとめがお休み。少し事務をした後、お昼頃から夕刻まで、買い物等で西宮方面、ホームセンター等をまわる。 週末の講座のレジュメや、片付けなければいけない作業があるけれども、あまり手が付けられずに進む。

 20:00から布教使課程(伝道院)のオンラインMTGに参加。
 研修生の皆さんが公開で実施される「夜座」についてのMTG。


 2021年にふらっと撮影していた伝道院のカベ


◎伝道院で行われている「布教使課程」と夜座(仮称)について

 京都の本願寺の施設として「伝道院」と呼ばれる建物がある。(※下記サイト参照)昭和48年から、布教使を養成する全寮制の研修が実施されている伝統的な建物であり、研修の実施場所である。こちらで現在行われているのが、本願寺派の「布教使課程」という研修。(https://www.hongwanji.or.jp/news/cat4/001709.html

 この研修で今年から新しく試みられているのが「夜座」(夜のおつとめと、お説教の場)の公開である。いわば「研修中」の受講生が中心になって、おつとめとお説教をしているところを一般に開いてみてもらおうという試み。

 いろいろな意味でチャレンジングな試みではあるが、この経験は今期の受講生のみなさんにはとてもいい経験になると思っている。また、普段は公開されない「研修中」のいわば”布教使のタマゴ”さんたちが、どんなお話をするのか、どんな研修を積み、とまどいや迷いを抱えているのかを見ていただく貴重な機会でもある。(興味を持ってくださった方はぜひ)

 現在は、前期と中期の研修期間の間~休暇中であるため、実施はされないが、また8月下旬から再開され、情報も今後公開されていくと思うので、注目していただきたいと思う。
 (コロナ流行の状況で、流動的な状況も予想されるので、そのあたりはご寛恕いただきたい)



※伝道院についての紹介サイト
 ▽文化遺産オンライン 旧真宗信徒生命保険株式会社本館(本願寺伝道院)
 (https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/286979
 ▽本願寺のサイト、伝道院の修復について
  (https://www.hongwanji.or.jp/daionki/shinkou-soumon/shumon06/shumon_06_3.html

「宗教的な救い」とはなにか?

・先週は宮崎先生と対談でした  先週の土曜日 4月13日の午後は、相愛大学の企画で、宮崎哲弥先生の講義にゲストスピーカー・対談相手として、登壇させていただく機会を得ました。  以前このブログでもご案内していたこちらです。  【登壇情報】宮崎哲弥先生と対談します。 https://...