2014年12月4日木曜日

書くこと

ここ数日、「書くこと」を生業としている人のスタイルをつづけてきいた。

みんな自分に書くことを課している。
書けるから書く、のではなく、
書いているから書けるというのは、よくわかる。

忙しさにかまけて、
ちゃんと自分の考えを書く、ということをしていない。

頭の中もさび付いてしまっている感じで、いかんいかん。

2014年10月13日月曜日

「どんなときも」

うちのおじょうさん。
最近、槇原敬之の「どんなときも」のさびを口ずさんでいます。

テレビCMで流れているらしく、それでおぼえたようで。

「どんなときも~どんなときも~」


こないだまでは、
アドベンチャーワールドのテーマソングがブームでしたが、
いまはこれ。

歌を歌いながら、いろんなことばをおぼえていっています。


こどものことば 13

うみにいきたい

昨日は、お寺の仕事も少なく、
お休みをいただいた日曜日。 
一日、むすめと一緒にいました。


ここしばらく、ずっと続いたやりとり

「どこに行きたい?」

と聞くと、

「海がいい」

と返事。
もちろん、海はもうやっていません。
夏の海水浴が楽しかったのか?でも、半分は「入らない!」といって、海から逃げていたのに。

で、海はやっていないので、
「尼崎スポーツの森」のプールに連れて行きました。

帰ってきてからは、
「プールたのしかったねぇ」とご満悦。


10月にはいってから、アイススケートも開催のシーズンになっていて、
両方やろうか、なんていっていたのだけれど、
こちらは、近畿のジュニアの大会かなにかで、
見学のみ。

まだ3才なので、
閉じこもるよりはいろいろと、体全体を使って遊ばせてやった方がいいかな、
と思ったり。


うどん

こどもの返事というのは、なんだか「定番」があるようで。

うちのお嬢さんとのやりとりの定番。


親:「何が食べたい?」

娘:「うどん!」


お昼にうどんを食べていても、夜ご飯も「うどん」とお返事。

親:「すきな食べ物はなんですか?」
娘:「うどん!」

まえに、自分の名前をいれてい「○○ちゃんは、うどんがいい」ということもありますが、
定番は「うどん」。



ここ数日は、「目玉焼き」ブームが来ている見たいですが、
1年~1年半くらい、ずっと王道は「うどん」です。

こどものことば 11



2014年9月10日水曜日

きんだいまぐろ

「これはね、きんだいまぐろ(近大マグロ)なの。」

(ままごとのおもちゃの「サンマ」を持ちながら)



以前、いった百貨店の食料品売り場で、近大マグロの解体ショーをやっていたのを見て、覚えたらしい。最近また、ボキャブラリーがつとに増えている。

近大マグロ なんて、まぁ、ニッチなことばを覚えたものだ。


こどものことば 10 (※ 思い返せばたくさんあったのに、書いていなかった)

2014年8月16日土曜日

古い街並み

近所の大きなお菓子工場が取り壊されて、更地になりました。
街が一つできるくらいの再開発がこれから始まります。

お盆参りの一コマ。
その工場から見えていた煙突や、
サクラや、いろいろな風景を懐かしく話しました。

懐かしい風景をみる、ということは、それだけで
いろいろと言葉があふれてくる出来事になるんじゃないかな、と思いました。

古い町内の写真を掘り起こして、
一堂に会してみんなで見たら、さぞもりあがるんじゃないかな?

そんなアイデアを思いついたり…。

ちょっとずつ集めて見たいなと思いました。


2014年8月15日金曜日

第六回西正寺寄席の報告

西正寺のフェイスブックに
先日の西正寺寄席の様子がUPされました。

みなさん、いろいろとありがとうございました。


浄土真宗本願寺派 清光山西正寺 フェイスブック
https://www.facebook.com/seikouzan/posts/913686511981399?notif_t=like

2014年7月17日木曜日

對馬路人「鉄道と霊場―宗教コーディネーターとしての関西私鉄」


山中弘『宗教とツーリズム-聖なるものの変容と持続』(2012年7月)に載っている論文。

身近なところで、後輩が宗教ツーリズム研究を始めました。
自分も興味がなかったわけではないけれど、長らく買ったままで、なかなか読めなかった本をやっと開いた次第。

掲載されている論文を3本ほど読んだところですが、視座のとてもおもしろい研究分野だと思いました。とくに面白かったのが、對馬路人「鉄道と霊場―宗教コーディネーターとしての関西私鉄」。

関西人にとって身近な、阪神・阪急・京阪・近鉄・南海、さらには阪堺電車に至るまで、実は電鉄の敷設や経営が宗教施設と深く、密接に結びつきながら行われていたことが指摘されています。

これは近隣の人は、各電車の路線や駅名、ロケーションを思い返せば、はたと気がつくのではないでしょうか。

たとえば、阪急電車では、宝塚線には、有名な中山寺・勝尾寺・清荒神などはすぐに思いつくし、京阪も、稲荷大社や八坂神社、宇治線には平等院、京津線には石山寺、三井寺、比叡山、日吉大社。近鉄も、石切、瓢箪山稲荷、等々。
かの阪堺電車は、住吉大社に接続しています。
もちろんも、挙げればもっともっとあります。


この論文では、そもそも鉄道会社の歴史を追えば、その初期段階で、鉄道会社自身が、設立初期の段階で、その主要な乗客としてそれら宗教施設への「参拝客」を想定していたこと、参拝の手段・ルートとして鉄道の敷設を行っていたことも指摘されています。

宗教施設と鉄道会社の結びつきは、その宗教施設の賑わい、人気と鉄道会社の経営、戦略と無関係ではなかったという事実。
また、開設後、鉄道会社が、それら宗教施設の盛り上げやイメージ戦略に積極的に関わっていたこと。


このことは、いろいろなことを考えさせてくれます。

「鉄道」という乗り物は、歴史的にはとても「宗教」と深く結びついていたこと。
鉄道会社の経営戦略が、われわれの宗教に対する観念や、「宗教行事」のイメージにも影響を与えていったということ。

「鉄道」という要素と宗教的なことがらを結びつけて考える視点をもらいました。
電車の路線図を見るときに、また違った角度から見る視点を与えられたような読後感でした。




2014年7月15日火曜日

「おとうさん、おたんじょうび おめでとう」

こどものことば9

「おとうさん、おたんじょうび、おめでとう」

先日、僕の誕生日。
帰宅すると、むすめが、「おめでとう!」といってくれました。
言うことがうれしいのか、なんどかくりかえし「おめでとう」をいってくれました。

もう、歌も歌えるようになっていて、ハッピーバースディのうたもうたってくれました。
成長にびっくりです。

そういうことに、うれしい誕生日でした。

第六回西正寺寄席


2014年8月3日(日)に、第六回西正寺寄席~落語と仏教があります。
時間・場所については画像データの通り。
尼崎市上坂部の西正寺にて、15:00開演

申し込みは、こくち~ずにてできます。



こくち~ずの文章が、第4回のままになってしまっていて、
ご指摘を頂いて、訂正することができました。

お気づきの点などありましたら、どうぞ優しくお教え下さい。

2014年5月29日木曜日

やろうとおもっているけれど・・・

やろうと思いながらも、完結しないままに、日にちばかりが経ってしまうような感覚のこのごろ。

ちょっといいこととしては、少しだけ早起きの習慣が付いてきて、
出勤前に、一仕事片付けられるようになったこと。
これは習慣化していきたい。

夜は、思っている以上に疲れていて、思考能力・集中力の低下が著しい。
仕事は朝がよい。
朝は短いので、早起きして伸ばすのがいい。

夜は早く寝るに限りますね。。。



2014年5月14日水曜日

「これはね、おせんこうなの」


「これはね、おせんこうなの。 なんまんだぶ、なんまんだぶ」


白い紙を細く切って、何本かまとめたものを「お線香」にみたてて、こういったあと、合掌・礼拝をしはじめる、おじょうちゃん。

最近、むすめは、「紙を切る」のに夢中。
ちょっとしたことで、切ってもよい紙があると、指でちぎってびりびりにする。
ハサミがあると、もう、それだけのことで夢中になって、切る続ける。

最近は、なにかの形を作ろうとしてみたり、
偶然出来た、なにかのかたちに喜んだり。

今日は、(結果的に)細く線のように切れたからだろうか、
見事な「お線香」をつくって、上の台詞を。

おくさまいわく、「もっと女の子らしい、かわいいことをしてよ~」と。
父としては、仏事をとても自然にわがものにしていることにほくほく。




2014年5月8日木曜日

海は海がいっぱいやってくる



「うみ(海)はね、うみ(海)がいっぱいやってくるの。ざぶ~~ん」

  (波の様子を腕で表現しながら)
  (5月4日の朝のむすめの言葉。)

2月にいった和歌山の海でひろった貝がらを広げて見ながら。


おとうさんは、波を「うみがいっぱいやってくる」という表現したことが、すごいな~と思いました。
少ない語彙で、自分の中にあるイメージを、精一杯表現していて、
しかもそれが、見事に成功しているような感動があった表現でした。


むすめのことば7

西正寺寄席の助成金申請

もうこの場所(園田支所)にはいませんが・・・。
午前中は、尼崎まちづくりチャレンジ事業の公開選考会でした。
「西正寺寄席実行委員」として、
今年度の寄席の補助金の申請について、
プレゼンテーションしてきました。
いずれもとても興味深い活動で、
会の後、お話を聞いて、ちょっとつながりをもつことができました。
結構、内側に近い人しか活用していない印象があるのは、残念。
NPOとか自主的にがんばっている「市民活動」
が本当の意味で、どんどんと使ったらいいのに…と

西正寺寄席以外にも申請を出している団体は3団体。
こういう補助金の制度があるのに、結構、内側に近い人しか活用していない印象があるのは、残念。
NPOとか自主的にがんばっている「市民活動」が本当の意味で、どんどんと使ったらいいのに…と

2014年4月14日月曜日

「いっしょに頭をあらいましょ」

「いっしょに、あたまを あらいましょ」
「いっしょに からだを あらおうよ」


お風呂で、頭を洗うとき、体を洗うとき、
あらってもらうよりも、
自分の体は自分で洗い、お父さんはお父さんで洗って、
「一緒に、それぞれのからだを洗おう」という提案をしてくるようになった。

これと似たパターンは、
「いっしょに 本を よみましょ」 というもの。

自分は絵本を、お父さんは自分の本を読んで下さい、
「本を読む」という行為を、(それぞれがするということを)一緒にしたいらしい。


ただ、頭とからだを洗う仕上げは、親がやる。
また、靴を履くのと、ご飯を食べるのは、
まだ「履かせてよ」「ご飯食べさせて」と、おっしゃるのですが。


むすめのことば6

2014年4月8日火曜日

思い出を積み上げる

今回の西正寺寄席の場にいながら、ふと感じたこと。

「思い出を積み上げていく場所としてのお寺」であってもいいのではないかということ。


今回出演して下さった、桂三象師匠が、「三象踊り」なる、
他では見られない、そして、一度見たら決して忘れることができないであろう
爆笑芸を披露して下さった。

その大爆笑の中で、ふっと感じた。
ただ、ただ楽しく笑って過ごしたというだけの事かも知れないけれど、
少なくとも何人かにとっては、一つの思い出になってくれるのではないかということ。

今回の寄席は、来場してくださった人たちの中で、
一つの思い出になっていくんではないだろうか。

西正寺寄席に協力して下さっている(一緒にやってくださっているというべきか)
露の団姫さんは、今月出産予定で、出産間近でありながら、
「産休前最後の高座」ということで、出演して下さっていた。
それも、大変すごいことで、すごい場に立ち会ったように思う。

滅多に見れない爆笑芸をみたこと、
出産直前で高座に上がる落語家さんとその芸を見たこと、
ただ、ただ楽しい落語をお寺でみたということ、
横にいる誰かと、その場で出会いがあったということ、

この寄席の場では、想定していたこと以上がたくさん起きた。
目に見えること、目に見えないこともたくさんあるだろう。

今回の寄席は、心に残ることや、印象深いことがたくさんあったように思う。
こうやって、「思い出を積み上げられる「場」としてお寺がある」ということも、
お寺がここに建っている意味なのかも知れない。


同じ日の朝に「はなまつり」の行事をしたけれど、
それも参加した子どもたちやお母さんたちには、お寺という場所で経験した一つの思い出として残ってくれることもあるだろう。
今回の寄席も、ふとしたときに思い出したり、語りになったりする思い出になってくれるんではないだろうか。
「あの場所で・・・」という、語りの舞台になること。
そういう、思い出をこの場所「お寺」で積み上げていくような営みを続けることが、
お寺の存在を意味づけていくように思った。

そんなこんなで、こういう営みを続けていく、というのは
おそらく正しいのか、間違いなのかは、いうことはできないけれど、
無意味ではなかったなと、
自分のなかで、一つの気づきがあった一日でもありました。


流れの中で一日が過ぎる。

4月5日土曜日
西正寺のはなまつりと、西正寺寄席を開催しました。
はなまつりには、30人弱、西正寺寄席には約80人の人が来て下さいました。


会場の設営やら、片付けやら、
その他なんやかんやで、することはいっぱいあって、
朝起きてから、打ち上げをして家に帰るまで、

だ~~~~っと、

前日までに考えたことや、それを訂正したり、
準備不足だったことが露呈したりもあったりしますが、
とにかく一気に過ぎていく感じ。

でも充実してるのです。

毎日だったら、しんどいけど、こういう駆け抜ける感じの一日が
キライではないと思った、週末でした。

2014年3月15日土曜日

仏像の調査(初)

数年前からご縁を頂いている、滋賀県の文化財に関する調査のお仕事。

ひさしぶりに、調査のお声がかかって参加してきたのが、昨日14日。
滋賀県は守山市のお寺。

初めての仏像の調査で、ほぼ見習い状態…
いや、あらかじめ「力仕事になります」と言われていたので
求められているのは人足としてのお仕事か。

半丈六の仏坐像2点、
菩薩の立像1点。

国と、県指定の文化財。

かなりのサイズがあるので、破損しないように、男性4人がかりで、

・慎重に撮影場所に運び、
・サイズを計測し、
・プロのカメラマンによる撮影。

いずれも12~3世紀頃の仏像だそうで、
大変貴重なもの。

文化財の仏像を抱きかかえて運搬したり、
ひっくりかえしたり、向きを変えたり、
その作業が、ほぼ一日がかりでしたが、
大変貴重な経験をしたと、
ほくほく、満足な一日。


「お絵かきだしっぱなし~」

「おとうさん、お絵かきだしっぱなし~」

法座が終わって、参詣のみなさんをお見送りしていたときに、本堂からむすめが発した大声。
法座でつかったホワイトボードが消されず、ペンは机にでたままになっていたことを言った模様。
僕「みなさん、お見送りしてから、おかたづけはあとでするんだよ~」


本堂のホワイトボードの名称は、「お絵かき」。
お参りの後、いつも「お絵かきしようよ」と、ホワイトボードに背伸びして、下の方にこちょこちょと
お絵かきしています。


むすめのことば5



2014年3月14日金曜日

【告知】第五回西正寺寄席


西正寺寄席です。
次回西正寺寄席を、4月5日(土)の午後に開催予定です。

こくちーずで、参加申し込みもできます。







レゴで遊ぼう

むすめのことば4

「おとうさん、レゴで遊ぼう、レゴで遊ぼうよう」

レゴはずっとお気に入り。
夕食後、おとうさんがいるときは、レゴで遊ぼうと催促する。

レゴがずっとお気に入り。
今日は、お顔の表情が、すっかり上目づかいで、おねだり上手な表情に。

ゆれないように、ゆっくりしたらいいんじゃない

むすめのことば。3

「おとうさん、ゆれないように、ゆっくりしたらいいんじゃない」

娘がお風呂から上がって、からだを拭いてもらっているとき。

奥さんと、昨夜の愛媛・広島方面の地震(震度5)について、
僕「けっこう揺れた」
奥さん「揺れたのはわからなかった」
という話をしていたときのむすめさんのお言葉。

おとうさんが、ゆらしているんじゃないんですよ。
地面がね、ゆれているんですよ。


2014年3月12日水曜日

ぐるぐるぐるぐるしてな~

「なっとうはね、ぐるぐるぐるぐるしてな~」

9時半を回って、帰ってきた僕。
娘と妻は就寝。お休みを言って、遅い夕食に「冷蔵庫の納豆をもらう」と声を掛けたら、
むすめさんは、納豆の食べ方を教えてくれた。

「・・・してな~」と、見事な関西弁をマスターしつつある。
2歳10ヶ月。

3/10のこと。


たいへんだったの

「おとうさん、たいへんだったん?」

夜、就寝前の娘にでんわしたときの第一声。
朝、ごたごたの状況を妻にメールしていたら、家では、

妻「お父さん、大変なんだって」
娘「ふ~ん」

というやりとりがあって、それをふまえたものみたい。
朝のことをしっかりと覚えている。
2歳と10ヶ月。


※ある人のサイトを見て、こどものことばを記録していくのも面白いとしげきをうけて、やってみようと思った試み。

2014年2月12日水曜日

目の前のことをしたり、さぼったり

予定と課題を抱えていると、ゆっくりと文章を書く暇がなくなる。
すべきことができなくなる。
30分文章を書く時間があったとすると、
その前後に見えない、数えられない時間が必要ということを感じる。
気持や状況を整える時間が必要。

ところが、あればできるかというと、
そういうわけでもない。

ありすぎても、いけないし、なくてもいけない。

先週は、なさすぎて、余裕がありませんでした。
昨日は、ありすぎて、逃避しました。

なくてもできない。
あってもやらない。

結局しない。
これではいけない。

自戒を込めて。


2014年2月3日月曜日

ぼろ家ではなくて、トトロの家になるという…


■娘とトトロを見ています

最近、娘とDVDで「となりのトトロ」を見ています。
2歳8ヶ月を過ぎた娘は、「トトロを見たい」と、要望をしっかりと出してくるようになって、成長にも目を細めたり。

映画を見ながら、あるいは見終わったあと、
「トトロこうしてたねぇ」とか、「こうだったねぇ」と、映画のなかのワンシーンをまねしたり、感想をしゃべったり。幼児ながらにすっかりと、映画の世界を楽しんでいるご様子。


■トトロを見て思ったこと

そんなこんなで、ふと思ったこと。

映画の中で、主人公のさつきちゃんと、めいちゃんは、田舎のぼろーいお家に引っ越してくるわけです。本人たちいわく、

「おばけ屋敷みたーい」。
「わー!ボロ!」
「腐ってる!」

さんざんなわけです。
ところが、本人たちは、そんなボロさをとっても楽しんで、否定的にではなく、むしろ肯定的に賛美している風すらある。

そして、
どうも引っ越しするまでは、「まっくろくろすけ」が住み着いていて、家を片付けていると、それを目撃できたり、
お隣さんには、「トトロ」がいて、遭遇することさえできてしまう。
見ているものには、「ボロ家」がとても素敵な、「行ってみたい」、「経験してみたい」という場所になってしまう。


これを見たものには、一つの世界が与えられる。

ぼろいおうちは、トトロの家。
五右衛門風呂や、カマドのある古い台所は、「時代遅れ」ではなく、
「さつきちゃん、メイちゃんの家と一緒」。

うっそうと茂った森は、「不気味なもの」ではなく、「トトロの住む森」。

何気ないもの、あるいは否定的にとらえうるものを、
肯定的な物語を介在させることで、それらも肯定的に「物語れ」るようになる。

もっといえば、否定的に見ることさえも、
それを「否定的にとらえた物語」の中に生きているといえるかもしれない。
「物語」がないと、それは、ただの「それ」で、
見ることも、語ることもないのかもしれない。


あこがれの世界や物語をもつということは、
現実に目の前にある「ものがら」に意味や価値を与えるものであると、
そんな風なことを思ったり、実感できるのだなぁと考えたり。

【追記】トトロのレビューもすごかった。
となりのトトロ [DVD]


■宗教もそうなのです
 
宗教的な逸話や、伝記というのも、
時に非現実的な、突拍子もないことを書いていたりして、
「そんなこと現実にある訳ないじゃないか」と突っ込みを入れることもできるわけです。
しかし、それらの逸話が、別に現実になくても、かまわないわけです。


その物語や提示する世界に触れて、
それが、自分の身の回りにあるものに投影される。

とすると、単なる食事や、あるいは物が、
「これは、神から与えられたものだ」とか、
「仏様からいただいたものだ」とか、
「宗教的な価値観」によって、大きく変質させられる物語の中に生きるようになるわけです。


目の前の何気ないものが、信仰の世界に居ないと分からない価値を持つ物になったりする。
それは、ある意味「わけがわからない」と言われかねないものです。
でも、
となりのトトロを見たことのない人に、
おんぼろの家を「トトロの家みたい!」と肯定的に表現して喜んでいても、
「なんでボロ家を喜んでいるのかわけがわからない」と、思われる(だろう)ように、
「宗教的な世界の中にいないとわからない」としか、表現できない価値観もあるのです。

あるいは、
非常に苦しい、受け入れられない体験が、ある場合には
宗教なバイアスがかかって、(なんとか)受容可能な形になったり、
あるいは、受け入れられない、苦しいままでありながら、
宗祖や、先人や、あるいは自分の肉親・知人が経験していたことの「追体験」として、
自分以外の人の経験と重ねて、その人の痛みを想像する契機になり、
自分の苦しみに対する意味を、模索する糸口が与えられたりすることも、ありうるように思うのです。
受け入れがたいことを、受け入れがたいままに受け入れていくことは困難だけれども、
そういう解決方法に触れていく、ということも、実は宗教的な物語や、
人物(自分の肉親や知人、あるいは既に亡くなっている人との関係において)との関係において語られていくことも、
一つの思想的な営みではないかと思ったり。

(2014/02/03 17:10 誤字修正)

2014年1月22日水曜日

人の流れが面白く見えた


 昨日、大学内の本屋でふと見かけて、買ってしまった本。
 三浦しをん『舟を編む』

予想以上におもしろく、感慨深かった。感想やレビューはまた改めて書きたい。

 主人公の「まじめ」さんは、とても変わった人で、「エスカレーターに乗る人を見ること」が趣味だという。

 「電車からホームに降りたら、俺はわざとゆっくり歩くんです。乗客は俺を追い越して、エスカレーターに殺到していく。けれど、乱闘や混乱は生じません。まるでだれかが操っているかのように、二列になって順番にエスカレーターに乗る。しかも左側は立ち止まって運ばれていく列、右がわは歩いて上っていく列と、ちゃんとわかれて。ラッシュも気にならないほど、うつくしい情景です」
 (中略)…そこに美と喜びを見いだす馬締は、やはり辞書づくりに向いている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 朝、職場に向かう道中。京都駅。
 中央の改札を出て、左に進む。
 その流れに乗ってすこしすすむと、左の階段から下りてた人の流れがそこに加わる。
 流れの先に目をやると、ちょうどあふれかえった人の流れが、二つに分かれていくように、徐々に開いていくところだった。
 人の波がハッキリと2つに分かれると、歩道沿いに左側へと進む流れ、横断歩道を渡るために右へと進む流れに分かれた。
 
 多くの人は、流れの真ん中辺りに固まって進む。
 何人かの人たちは、その人混みを避けるようにやや外側を歩く。人混みを避けながら、でも流れに沿いながら、同じ方向に向かう。
 水が平地を流れながら、川の流れを形作っていくような過程を見たような気がした。

 そんな光景がおもしろいと思ったのも、昨夜に「まじめ」さんの言葉に触れたからだ。
 今まで毎日歩きながら、人の流れを「面白いもの」と思って見ることもなかったし、そこに美を見いだすことはなかった。
 けれど、そこに美があると、語ることばに触れて、改めてみると確かにそのようにも見ることができた。

 言葉は、見たものを表現し、あるいは心を表現する手段のように思われる場合もある。
 しかし一方で、言葉によって物を見て、言葉によってそのような感情が立ち上がってくるという面もある。
 言葉がなければ、なにも「見ることはできない」し、言葉がなければ、何かを感じたり、思ったりすることはできない。
 
 少なくとも、昨夜に読んだ言葉が、今朝の風景を与えてくれたように思う。
 そんな世界の見方を変えてくれた本に触れられた翌朝は、幸せな気分だった。





2014年1月19日日曜日

あるべきものがない、ということ


ある物(人)が、ある(いる)、ない(いない)。
という二つのパターンで思考しがちだけれど、
そんなに単純ではないのかも知れない。

「失うこと」「なくなること」で、感じる感情は、
それが「ない」というよりも、
「あるべきもの(いるべき人)」、「あったもの(いた人)」がない(いない)
ということの方が近い。


「ない」「なくなる」と、「あるべきものがない」「あったものがなくなる」
このちがいが、とても大きな事のように感じた先日。


「ある」「ない」の二分法で考えるのではなく、
もうちょっと微妙な表現と、その間にあるものにも思いを巡らせないと行けないのではないか、などとも思う。




2014年1月15日水曜日

いつもと違う動きを…

今日は、ヘルプの作業の当番が当たっているので、
いつもより早めに家を出なければと、数本早めに出たところ、
最寄り駅で目の前で電車に乗り遅れる。
乗換駅でも、のんびり構えていたら乗り換え時間が意外と短くて、
また1本乗り遅れてしまった。

というわけで、先行の電車を2本ほどロスして、
結局いつもより2本だけ速い電車。
かなり早く着けると構えていたけれど、
「ちょっとだけ早く着ける」になってしまった。

いつものルーティン的な動きと違うことをすると
慣れていなくて、ロスが発生するという事例。

あるいは、充分間に合うと、のんびり構えていたけれど、
ロスを重ねて、余裕が思いっきり目減りしてしまった事例。


2014年1月12日日曜日

死後の世界を語ること 思想について思うこと

 死後の世界は意味がないか?

 浄土真宗は、「浄土」という思想をもっている。
 死んだら、「天国にいく」のではなく、「お星様になる」のでもなく、「浄土に生まれる」という思想。

 浄土さらに広くいえば、死後の観念自体については、今日的にはしばしば批判がある。
 「死んだ後のことなんか、生きている間には関係がないじゃないか」
 (つまり、浄土の信仰は、この生き方には無関係だという批判)とか、
 「そもそも死んだ後の事なんか、本当にあるかどうか分からないじゃないか」
(あるかないか分からないものは、無意味だし、信じる事なんてできないという批判)

 しかし、本当にそうなんだろうか。
 たとえば、「悪いことをしたら、地獄落ちるよ」、とか、「嘘をついたら閻魔さんに舌を抜かれるよ」という死後の観念が、あるいは物語が、
「死んだ後のことだから、生きている間に関係ない」といえるかといえば、そうではなくて、
明らかに、生きている今に、影響を及ぼす。


 先年、アマゾンで地獄の絵本の売り上げが良かったことが話題になった。
 読み聞かせをしたら、子どもが「いい子になった」という。

 ちなみに、アマゾンの感想。
 
 アマゾン → 地獄の絵本 

 それから、まとめサイト。
 http://matome.naver.jp/odai/2134501267609788301


 
 ちなみにいっておくと、「地獄の話で、子どもを驚かして、扱いやすくしてしまおう」とか、
 「懲罰があるから、ちゃんとよく生きないといけないのだ」とか、
 勧善懲悪的な思想に与しようというわけではないので。

 いわんとしていることは、「死後の観念」が、生きている今に影響を及ぼしているではないか、ということ。 本当は、「浄土」でそれを語るべきなんだろうけれど、それはまた別の機会にゆずりたい。


 死後の観念について思うとき、必ずしも、「死後の世界が実在する」という主張をするという形をとる必要はないようにおもう。 ただ、言えることは、こういう「物語」を触れ、自分の中に蓄えている人と、そうでない人は、心の動きも、現実の振る舞いも異なってくるだろう。

 「思想」とはなにか、ということを考えるとき、結局「言葉」や「物語」と切り離せないのではないかと思う。
 思想をもつ、ということは、なんらかの「実在」を信じるというのではなく(そのように語られる場合ももちろんあるだろうけれど)、
たった一言の「言葉」、ちょっとした短い「文章」、あるいは長ければ「物語」といわれるものを
どのように自分のなかに蓄えているか、そんなことで表現することができないか。そんなことを考えている。

 おそらく、すでに過去の思想家がそんなことを言っていそうにもおもうので、ご存じのひとは教えてもらいたいとも思います。
 

2014年1月9日木曜日

教理史的な研究についての雑感・思考・つれづれ

 私のしている研究領域に「教理史」と呼ばれる分野があります。
 とあることをきっかけに、そもそもこの学問は・・・的なことを考えています。


□真宗学における「教理史的研究」について
 昭和20年から30年頃に出版された研究書を中心とした研究業績、その中でも現在もその価値を失っていない重厚なものの中に多く、今日「教理史的な視点」と呼ばれるスタイルで研究されたものが多くあります。
 言い方を変えると、そのころ、「教理史的な研究」といわれるものが、成果として世に出されるようになってきたというわけです。

 その内容は、私の個人的なかつ暫定的な定義ですが、
 真宗を研究するのに、「歴史学的な態度」を取り入れ、画一的な訓詁註釈ではなく、文献や祖師を研究する視点に、その時代性や社会状況も充分に視野に入れながらみていこうとするもの、と言えると考えています。


 具体的にいえば、中国の唐の時代に生きた善導という人の行跡・思想を扱う場合、いまの我々の価値観、あるいは鎌倉時代の親鸞聖人・法然上人といった、後の世の目線(フィルター)を介して、それを眺めるのではなく、あくまでも、中国という国、唐という時代に生きた人物として善導を、そしてその場所・その時代で生きた人として、彼の書物を扱おうという視点といえます。

 いってみれば、今日、文献を扱う際には、いわば当たり前と考えられる態度です。

□歴史学的な視点とその営み
 ところが、これは言うほど簡単なことではありません。
 なぜならば、それを研究対象とする私達自身もまた「歴史的な存在」だからです。
だからこそ、知らず知らずの内に、自分のなかにある無自覚な観念や考え方が、史料・文献を扱う際に、入り込んできてしまってしまいます。
 それをまったくなくするんだ、というのではなく、そこに対して自覚的になる必要こそがあると考えます。パラドックスに陥るような感覚になりますが、「歴史学的な視点をもって、対象を眺める自分も実は歴史的な存在(歴史的制約、社会的制約を受けつつ存在していて、それから離れることはできない)」という事実とも向き合わないといけないということです。(自分の観念や、考え方を抜きに、完全に客観的な歴史や事実が存在する!と主張する人、あるいはそのように歴史を考える人も多くいます。そこには、落とし穴があることに気がついていないのではないかと・・・)

□教理史的(歴史学的)な視点の面白さ(個人的)
 そこまで、踏まえてもらって、個人の思いを2つほど書きます。
 1つめは、上述のような所に、私は研究することの面白さを感じているということ。
 いわば自分ならざるものとして、過去の祖師やその文献と向き合うわけですが、
そのなかで、相手のことが分かると同時に、自分の無自覚だった観念や感覚・価値観が自覚的になってくるのです。
 研究対象との向き合いや、過去の蓄積と自分の視点の違い、それらを頭のなかで、ぐるぐると回している内に、自分の視点・態度が相対化されて、無自覚な観念や感覚が、白日の下に引き出されてくる、そんな感覚が得られるときがあります。
 
  ああ、自分はこんなところにこだわりを持っているのだなぁとか、
  過去の人とは、こんな価値観の違いをもって生きていたのか、とか、

それは、結構楽しいものです。そこにいたるまで、結構な時間を費やさないといけないので、
いまはあんまりちゃんとできていませんが、結構楽しいものです。

 だから、それは、純然たる客観の事実として歴史があるのではなく、見られるべき対象と、見ている主体との関係性のなかで、「どのような言葉で語られるのか」という、「語り」こそが歴史だというような感覚といえるのではないかと考えます。


□その営み自体歴史的な所産ではないのかという疑問
 もう1つ、2つめ考えていることは、それ自体にも限界があると考えないといけないのではないか、ということ。
 先に書いたように、昭和20~30年頃にいわゆる「教理史的な研究」がなされるようになりました。
これは、明治期に導入された西洋的な学問の波が、遅ればせながら真宗を対象とする学問にも及んできたことを意味しています。
 しかし、そのことを振り返ってみると、その視点・研究法法自体が、時代的・社会的な要請や感覚によって導入されたものではないか、という疑問も立ち上がってきそうです。
 
 つまり、「歴史的・社会的な制約を受けるものとして対象を見ていく」という態度は、その研究法法自体にも、向けることができる。そうしてみていくことで、それが果たしてきた役割や、いま、どうすべきかということについても自覚的になっていくことができるのではないだろうか、と考えたわけです。

 電車のなかで、思いつくまま、ざっと書いたことでもあり、また、別段、新しいことを言っているわけではないと思います。(歴史学的な研究について云々のところは特に)
 先日来考えていたことを、とりあえず、書き出してみたくなって、この媒体に書いて、
可能ならば、諸処からのご教授も仰いでみたく思ったわけで…。
 
2014/01/09(木) 電車の中にて りょうご

2014年1月8日水曜日

ほんとの所は

去年のある講義でのことだけれど、
(浄土思想の文献を読む講義なので)
「浄土に生まれる、って本当に信じている?」
とある学生に聞いてみると、
「信じてますよ。」って結構力強く返答した。

ところが、話を進めてみると、
「ほんとのところを言えば、自分が死んだらなんにもない、って思ってます。
結局、この人生、どう生きるかじゃないですか」
という言葉が出てきた。

それはまったく違う死生観ですよ。思想的にも違う。

でも、大事なのは、講義的に「正解」の返答ができることではなくて、
そういう、自分の中にある、正直な考え方と、
仏教(文献)が提示してくる思想を、正面衝突させることなんじゃないかと思うのです。

「こういうことですよね」という物わかりのいい態度よりも、
「なにいっているかわからない」
「自分とは全く違う考え方で、自分にはうけいれらない」
と自分をさらけ出して(他人にさらけ出すということではなくて)
正直になって、ぶつかり合うことで、
自分の中にある無自覚な思想が相対化されたり、
自分の思想がより磨かれていったりということが起こるんだろうと思うわけです。


というわけで、
浄土教的には、不正解だけれど、
学生さんの正直な考えに触れることができたようで、
おもしろい時間だったわけです。


補足
そのあとも興味深い話ができたので、
けっして物別れに終わったわけではありません。

2014年1月7日火曜日

新年のスケジュール

1日 元旦。7:00から修正会のお勤め。
   家族で新年の挨拶。

2日 御門徒が挨拶にみえるなど。

3日 臨寺のご住職が年末に往生されて、通夜に出勤。

4日 臨時の葬儀に出勤。
    3が日にお供えしたお餅を、下げて、餅切り機で、ばっつんばっつんと切り分ける。
   切り分け作業は結構大変で、一人で3時間超。
   夕刻、小学校の時の同窓会が開催される。

5日 初法座。正信偈のお勤めと二〇分程の法話で構成。


今年もよろしくお願いいたします。

新しい一年が始まって、あっというまに一週間が経とうとしています。
去年は、なんだかんだという間に過ぎてしまいました。

なにかやったような、なにもやっていないような・・・。
今年はちゃんと計画立てて、
自分のなかで、これはやったぞ!と言えるような年にしたいと思います。


今年も一年よろしくお願いします。

「宗教的な救い」とはなにか?

・先週は宮崎先生と対談でした  先週の土曜日 4月13日の午後は、相愛大学の企画で、宮崎哲弥先生の講義にゲストスピーカー・対談相手として、登壇させていただく機会を得ました。  以前このブログでもご案内していたこちらです。  【登壇情報】宮崎哲弥先生と対談します。 https://...