投稿

ラベル(お坊さん)が付いた投稿を表示しています

2021年度 お仕事

 備忘録として、今年度いただいている立場とお仕事、楽しみながら参加している地域活動をまとめてみました。 ◎本職 浄土真宗本願寺派清光山西正寺 住職(代表役員) ◎大学等 出講  ・龍谷大学 大学院実践真宗学研究科      (後期・火)「宗教実践特殊研究」  ・相愛大学 人文学部       (前期・月)「仏教思想と現代」      (後期・月)「真宗伝道演習」  ・園田学園女子大学      (前期・木)「つながりプロジェクト」  ・中央仏教学院 (通年・火)「社会伝道論」  ・NHK文化センター 梅田教室    (毎月第四金)「親鸞聖人と『歎異抄』~その姿と思想~」    (毎月第二金)「【オンライン】ふたりの僧侶と読み解く「正信偈」~やさしく学ぶ浄土真宗~」 ◎行政委員等  ・尼崎市教育委員(2021年度より)   ・尼崎市生涯学習審議会委員(2019年度より)     (教育委員就任に伴い、退任)  ・尼崎市地域サポーター(2020年度より)   (※2020年度まで地域活動支援コーディネーターが改称) ◎NPO法人等  ・NPO法人 アーユス仏教国際協力ネットワーク(理事) ◎本願寺/宗門関係  ・浄土真宗本願寺派 六条円卓会議 幹事  ・浄土真宗本願寺派 布教使課程 専任講師 ◎寺院での活動  ・西正寺寄席実行委員会(代表)  ・テラからはじまるこれからのハナシ。  ・カリー寺/カリー寺基金(住職) ◎地域での活動  ・みんなのサマーセミナー実行委員会 (副実行委員長)  ・ミーツ・ザ・福祉 実行委員会   ・オンライン公民館 (職員)( https://www.youtube.com/channel/UCJAywyvCbyeqht1EOr1aj6A )  ・杭瀬アクションクラブ  ・フリーマガジン『南部再生』  ・尼崎モルッククラブ(メンバー)( https://molkky-amagasaki.com/ )  ・ロッキンチェアーズ(2号店) ◎単発出講  ・浄土真宗本願寺派布教使等として(法話/布教) ◎その他 お寺での継続性のある活動 ・ふるまい市(コロナで中止中) ・普通を語ろう(仮)(随時開催) ・よいかなよいかな       2021/4/12 一部訂正・変更

繁昌する、ということ。

 浄土真宗を日本有数の仏教教団にした、本願寺第八代蓮如上人の言葉として、次のようなものが伝わっています。    一、一宗の繁昌と申すは、人のおほくあつまり、威のおほきなることにてはなく候ふ。一人なりとも、人の信をとるが、一宗の繁昌に候ふ。しかれば「専修正行の繁昌は遺弟の念力より成ず」(報恩講私記)とあそばされおかれ候ふ。 『蓮如上人御一代記聞書 』 (※ 大まかな意訳:仏教の繁昌というのは、人がたくさんあつまったり、勢いが大きく盛んになることではありません。一人であっても、信心を獲た人がいることが、繁昌というものなのです。そうであるから「浄土真宗の教え、専修念仏の教えが繁昌するということは、親鸞聖人が亡くなられた後の門弟たちの信心の力によって成就するものである」と(本願寺第三代の覚如上人の『報恩講私記』には)述べられているのです。)     仏教/お寺とはなにか、なにをすべきかということに、しばしば思い返し、考えさせられることばです。 たくさんの人に知られる、たくさんの人がやってくる、ということは、決してお寺の本来的/本質的な意味ではないのだと知らされる言葉です。  それらは、お寺のあるいは僧侶である私の行っていることの意味を測る軸にはなりえない(してはいけない)のだというのです。  では、「一人なりとも、人の信をとる」ということは、どういうことか。これもまた具体的に理解していくことが難しいことです。このことさえも、つかんだと思ったところに落とし穴や、過ちが潜んでいるようなことでもあるかもしれません。  仏教徒として、お寺とはどうあるべきか、僧侶のなすべきことはなにか。  簡単に答えが得られないし、また「見えやすいもの」「わかりやすいもの」に対してそれではないよ、という警句がちゃんと示されています。  また、そういった言葉を通して、常に問わざるを得ないし、なにかに安住することもできない。常に、自分がつかもうとするものを相対化させられる中でしか、なすべきことはみえないのではないだろうか?とも思ったりしています。

オンライン講義 「ふたりの僧侶と読み解く「正信偈」 ~やさしく学ぶ浄土真宗~」

表題の講義を10月からオンラインで担当することになりました。  https://www.nhk-cul.co.jp/programs/program_1214087.html  講義の詳細は上のリンクをご覧ください。  NHK文化センターさんから、オンライン講義の企画を相談され、親しくしている赤井先生を巻き込んで、講師2人で「正信偈」の講座を担当するという形で実施させてもらうことになりました。  先日、9月11日に、10月からの本番にさきがけて、単発のプレ講義を実施しました。  オンラインならではというか、東京や九州といった全国各地から10数名の受講があり、ほとんどが面識のない初めての方でした。物理的な距離を超えてかかわれるオンラインならではの長所を感じました。  講師2人で実施したのは、リアルな講義でも、一人が一方的に話す形式よりも、対話やフィードバックを織り込みながら話をしていた方が、聞く人の聞きやすさや理解しやすさがあること、また内容も深めていきやすいのではないか?と思ったからでした。  実際にやってみると、2人でやり取りしながら進める面白さや、深まりが感じられて、この形式に可能性を感じました。  それぞれが話す分量のバランスや、いくつかの改善点もありますが、新しいチャレンジでもあり、大変楽しい時間でした。  10月からは、本格的な連続講義となります。  講師2人も、当日までに打合せを重ねて準備をしていきます。  ・浄土真宗の教えの基本的なことを知りたい。  ・「正信偈」に書かれていることは?  ・親鸞聖人が好きだ  ・なんとなく勉強してみたい  興味をもっていただけたら幸いです。(有償なのが恐縮でもありますが)

43歳になります(Birthday Donationのお願い)

イメージ
7月11日は私の誕生日でした(そういえば…と、思い出さないと忘れる)。 43歳になります。 お誕生日のプレゼントとして欲しいものというのも特に思いつかず、 特別にこれが食べたい!という欲求もなく、 おかげさまで、そこそこ満足しながら日常を過ごしています。 ただ、40を過ぎた僧侶として、これからお坊さんはどうあるのかな?とか、 お坊さんは社会の中でどうあるべきなのか?ということを考えるなかで、 寄付にまつわる「お金集め」ということを改めて考える時間が長くなっています。 「お布施(寄付)」で暮らしを支えさせていただいていて、またお寺も「お布施(寄付)」で運営させていただいています。そんな中で、お坊さんが行ってきた「勧進」等の「ファンドレイザー」的な役割の意味とかありかたということを改めて考えています。   先日には、尼崎市杭瀬中市場火災における復興/復旧の募金をお願いし、大変たくさんのご協力をいただきました。  〈先般の募金のお願いについてはこちら↓〉 ( http://ryogo1977.blogspot.com/2020/07/74781700.html )  それから間もないタイミングではありますが、先日募金をお渡しした時感じたことは、まだまだ、復興には時間も、労力も、お金も必要ということ。そして、杭瀬ACをはじめ、明るく地域のことを常に考えて、あたたかいつながりを作ってくださっているみなさんのために、もっと応援をさせてもらいたい、ということでした。  〈杭瀬中市場の火事についての報道〉 ・サンテレビ  https://news.yahoo.co.jp/articles/de2dd2cbea439a44683ae16e9246bcb152619878 ・神戸新聞 https://news.yahoo.co.jp/articles/e68529d51d206a6a9fa319051b8d6384ce4c6fd4 〈杭瀬チャンネル youtube〉※こちらはぜひ見てほしいです。   https://www.youtube.com/channel/UCXXpTlUx4G2bqipWooet_Ow  折しも、同時期に起こった豪雨災害で、日本各地に甚大な被害が出ています。そちらへの救援や支援で奔走されている方、募金などを考えられている方もたくさんいらっしゃるだろうと思います...

お誕生日のお願いの予告

【予告です】 ◆バースデードネーションをお願いしたいのです。 ◆杭瀬なのです。 ◆まるかぶりするネタが連日 投稿される見込みです。  昨日までの杭瀬中市場の火災復興の募金、ご協力くださったみなさん、本当にありがとうございました ( https://ryogo1977.blogspot.com/2020/07/74781700.html )。  ふと気が付いたら、私、明後日(7月11日)が誕生日だったのです。43歳になります。なので、続けてのお願いになるのですが、バースデードネーションのお願いをしたいと思っています。    「お坊さんとしてできることってなんだろう?」と考えているなかで、お寺の運営・維持だけではなく、地域や福祉や、災害の支援とかの募金集めの延長で、もっと寄付集めやファンドレイザー的な活動もありえるのではないか?ということも考えていました。(※ 下記にちょっと書きました。)  杭瀬の募金集めのときから、ツイッターのアカウントにも「勧進する僧」という肩書も追加してみたりしました。  普通に考えたら、募金のお願いばかりするというのも、自分でもおかしいかもしれない、という問いももちながら(もちろん自分でも募金に入れていますが)それでも「寄付を集めるのに頭を下げつづけるお坊さん」(勧進する・ファンドレイズする)という僧侶のあり方、その可能性の模索をやってみたいという思いがあります。  というわけで、誕生日の前後にまた、杭瀬中市場の火災からの復興・復旧を応援する募金を呼びかけたいと思っています。  ところが、朝、ぼんやりとそんなことをおもいながら、「7/11がお誕生日なのですが、バースデードネーションとかいいはじめてまた、杭瀬の募金募ったらおかしいかな?(勧進する僧のひとりごと)」とつぶやいたら、若くて人気のお坊さんが、 「今日(7月9日)が誕生日なので、まるぱくりして、バースデードネーションやりますー」(意訳)と、かわいく言われてしまったので、尼崎では、連日お坊さんがバースデードネーションで、 「杭瀬・杭瀬」いいまくる数日になりそうです。  関係各位には、ちょっとアレにおもわれかもしれませんが自分自身がどこまでできるのか、なにができるのかと手探りのなかでさせていただいております。恐れ入りますが、なにとぞご理解くださいという、言い訳と予告の投稿でした。 (※)あれ...

【終了】 杭瀬中市場火災・復旧/復興支援 勧進(募金) (7月4日~7月8日(水)17:00まで)

イメージ
ご報告 7月8日に17時までに、 総額  153,202 円 の募金を お送りいただきました。 ありがとうございます。 (※追記:追加のご支援(10000円)をいただいて、  最終的に、163,202円 を 7月8日(水)に行われた杭瀬アクションクラブの会合においてお渡しいたしました) 【要旨】 2020年7月3日夜、尼崎市にある杭瀬中市場で火災がありました。 (神戸新聞の記事) https://www.kobe-np.co.jp/news/jiken/202007/0013480038.shtml  差し出がましいかもしれませんが、個人として、杭瀬市場の復興を応援するために「勧進」(募金の呼びかけ)をしております。7月8日(水)17:00(※)まで呼びかけをさせていただいて、集まった全額を杭瀬アクションクラブ(杭瀬AC)を通じて、杭瀬中市場の復興に寄付・ご協力します。 (※)7月8日夕刻に、杭瀬ACの会合に参加するため、この期限を設定しています。 火災からの経緯~杭瀬チャンネル(youtube)  ◆杭瀬チャンネル 火事からの経過と杭瀬からのお知らせ (杭瀬チャンネル 石原さんの報告 7月4日朝)   https://youtu.be/LZybiP7AKkU (杭瀬チャンネル 石原さんの報告 7月4日夕刻)   https://youtu.be/Sa2ZyVqq2fk (杭瀬チャンネル 石原さん/オンライン公民館 チャリティランナー 7月5日)   https://youtu.be/a5dzt07_Fak (杭瀬チャンネル 石原さん/3日目の様子とクラウドファンディング予告)   https://youtu.be/KpsrhHezXTI 【方法】7月8日17時をもって   受付を終了しました。ありがとうございます。  以下のいずれかの方法でお願いします。難しい場合は、「その他」に記載のメールでお問合せをお願いします。 ◎ paypay ◎ アマゾンギフト券で送る。(同額のお金を募金に回します) ◎その他  n.ryogo(a)gmail.com にお問合せください。   ※ メールアドレスの(a)を@に変えてお送りください。 【シェア・リツイートで応援】  7月7日午前9時までに、以下の投稿をリツイート・シェアいただいた数に応じて募金を上乗せするという試み...

youtube でお勤めと法話を配信していることについての雑感

【「伝道」とか「法話」とかということについて考えている】 (お坊さんとか仏教関係者向け。 一般的な内容投稿ではありません)  先日来、夕刻の勤行にあわせて解説と短いお話をしてyoutubeにアップしています。(シェア先にある、勤行のyoutube動画です)少しまじめな話をしますと、「法話」とか「伝道」とはなんだろうということを考えさせられながら、動画をアップしています。  こちらのチャンネルです  https://www.youtube.com/channel/UCtfvI4ip7grnskqJj-q9IAg ◆ こうやって「経典」を読誦して、それについて言葉を発していくこと(解説・法話すること)が、なかなかないような、心地よさや安定した感覚の中でさせていただけているのです。  このように思うのは、どちらかというと、自分は「トラディショナルなことを大事にしたい」という価値観をもっている(と自分が思っている)、そういうこともあるのかもしれません。また、文献を読む、研究するということが、これまでの自分のキャリアの中核な部分を占めていた、ということもあるかもしれません。  そもそも、仏教はこうですよ、と「自分の言葉」のみで語るのは、自分で語っていながら、「仏教を仏教として正しく言葉にできているのだろうか」と自問することがあります。  浄土真宗の御法話の定型には、「御讃題」として、経典、宗祖の書物から、そのお言葉を(読んで)頂くということがあります。それが、真宗のお説教では、非常に大事なことであると思っています。その意味で、「真宗のお説教」は、もともとが「自分の言葉」ではなく、「お聖教の言葉を語る」ものであるという形が重視されています。  しかしながら、実際にそれがどれほど意識されているだろうか?と考えると、やはり「形式的」であるケースがないともいえません。(形式が守られているということにも意味があると考えながら書いています)また「お聖教(経典・祖典)」に触れずにされる「法話」もあります。(私もそういう形でお話をすることがあります。決してその形式を否定するものではありません。)  一方で、勤行として、「ともに読誦するもの」であると(一定の方に)意識されているこの形式は、実感として、「御讃題」よりも、経典の言葉に触れながら、それを今聞いている(話している)という意識を持たせて...

おてらおやつ劇場のチャリティー Tシャツ

イメージ
浄土宗の劇団ひとり 山添真寛さんがなさっている おてらおやつ劇場。 このたび、JAMMINのチャリティ―コラボイベント( https://jammin.co.jp/2020/04/15/this-week-design-ooc-theater/ )で、Tシャツとトートバッグを販売されているので、一口購入させてもらったのが、昨日届きました。  おてらおやつ劇場  https://otera-oyatsu.club/theater/  自粛生活が続きますが、できることをひとつずつ。  

クラウドファンディングをして考えていたこと

 カリー寺基金というクラウドファンディングにチャレンジをしています。 https://camp-fire.jp/projects/view/211382  カリー寺基金を企画した理由について、その一つは、以前、活動報告でも書かせていただいたことがあります。なぜ地域に助成するという企画を立てたのかということについて、その意味について書きました。 https://camp-fire.jp/projects/211382/activities/115644#main  このカリー寺基金には、もう一つの側面があります。それはファンドレイジング―協賛の募集および、クラウドファンディングによる資金集めをしているということです。前者は、お金を地域に「渡す」というチャレンジ。後者は、地域や多くの人からお金を「渡される」「預かる」「寄付される」というチャレンジです。今回は、この後者の点について、少し言葉を重ねてみたいと思います。 ●僧侶は「ファンドレイザー」でもあった。 このクラウドファンディングは、私(住職)にとっては、ある意味で「僧侶としてお金集めをする意味を問う」というチャレンジでもありました。古来より、日本では僧侶が寄進を集めてまわる「勧進」などが知られています。勧進については、このキャンプファイヤーのページでも紹介されていました。  “ちなみに、「クラウドファンディング」という言葉自体は比較的新しいものですが、不特定多数の人から資金を募り何かを実現させるという手法自体は古くから存在していました。海外では美術品などのアート分野で寄付を募る取り組みや、日本では寺院や仏像などを造営・修復するために個人から寄付を求める「勧進(かんじん)」などがその例です。” ( https://camp-fire.jp/crowdfunding  より)    古代・中世には寺院や仏像の建立・再建の他、道路や橋等の公共事業なども「勧進」によって行われることがありました。弁慶の勧進帳等の逸話等でも知られています。 そういった意味では、そもそもの僧侶の活動とこのクラウドファンディングということは、一定の親和性があるものという言い方もできるのかもしれません。現在でも、お寺の運営・維持も多くのケースが「お布施」(寄付)によって成り立っています。また大きな工事や、事...

西正寺の永代経法要を中止しないのは(規模縮小でやります)

 コロナウィルスで大変な状況ですが、自坊西正寺の永代経法要(3月25日・26日)は、コロナウィルス対応・対策を取りつつ、規模を縮小しながらお勤めさせていただく予定です。  法要の案内・詳細については、以下のリンクの記事に投稿しておりますので、ご覧ください。    http://saishoji.net/archives/317  この投稿では、なぜ現在において(中止ではなく)上記の対応に至ったのかという思いをすこし書きたいと思いました。 【とるべき対応の候補と選択について】 実際に2月末からの急展開で状況が追い付かなかったところが多々あります。全国の小中学校の休校や、諸行事の自粛の様子が報道を通してうかがわれ、どのように対応すべきか正直迷いが生じていました。また、全国のお寺にとっては、3月にはお彼岸を迎える時期ですが、お彼岸の法要や、永代経といった法要の動向も「中止する」という判断をされたことを多数うかがっていました。この判断は、苦渋の決断・断腸の思いであろうとお察ししますし、感染対策として最善の判断をされたということだと思います。  自坊の状況を考えたとき、お寺にお参りに来られる方は、いわゆる高齢者が大変多くいらっしゃいます。今回の新型コロナウィルス、肺炎の高リスク層です。この状況でなんらかの対応をとらないという選択はまずありえませんでした。  では、どうするか。可能性として考えられる候補をリストアップすると、以下の案があると考えました。(選択しないものも含めてリストアップしています) 1、平常通りに実施する。 2、感染対策(消毒・マスク等)を行いつつ実施する。 3、規模を縮小し、感染対策を行いつつて実施する。 4、参拝者なしで、お勤めのみを実施する。 5、中止する。一切何もしない。 もしかすると、この他にもあるかもしれませんが、 素人判断で、思いついたのはこのレベルでした。 上記のように、現状において1はもう無理だと思われました。学校や3月中の行事が自粛・中止をしているなかで、なにも対応を取らずに実施するというのはあり得ません。2の対応をとったとしても、本堂という空間に数十人の人がいるのは、感染対策として今回の場合は十分な対応ではないと思われました。また「都合をつけてご参拝ください」と呼びかけられるレベルでもありません...

2020年1月23日 よいかなよいかな(3)

イメージ
2020年1月23日 よいかなよいかなの3回目。 大学生がいいだしっぺで、みんなで仏教を学ぶイベント、「よいかなよいかな」の3回目が開催されました。 ■進行について タイムスケジュールは、以下の通り。 19:00 スタート、勤行「十二礼」 19:10 イントロダクション、自己紹介 19:30 テーマの「愛」についてみんなで考える      ・各自でふせんに イメージ、疑問、好きなものを書き出す      ・紹介しながら、模造紙に張り付ける。       → 「愛」についての イメージや、語感、意味等が幅広く出ました。       → 40代男性が2名が「愛は勝つ」「勝つ」と書いたので世代を感じました。 19:50 住職が「仏教」の「愛」について 紹介。 20:20頃から、ふたたび参加者みんなでなんやかんやと話し合いました。   ■内容、語りあいについて 前2回が教科書的に、固い感じでアプローチをしてしまったところの反省もあり、身近に考えたり、語ったりできればということ、友人が「仏教は失恋に効くのか?」というテーマを設けて考えていた会があったこと、それから大学生が「恋人必要・不必要?問題」が関心にあったようなので、それらを総合して、今回のテーマになったように思います。 結果として、仏教の「愛」についてのとらえ方について触れてもらったものの、「哲学カフェ」的な語りあいの雰囲気もあったのではないかと思いました。 もうすこし、そっちの方で、みなさんのアレコレ考えていること、漠然としていることを言語化していくような時間があってもよかったのかな?と終わった後に思いました。それでも、試行錯誤しながら、今回一つの形を試しながら、みなさんと話せたように思いました。 ■仏教の「愛」について  仏教の愛については、大まかに以下の様に紹介しました。  ・四苦八苦の一つに、「愛別離苦」などが挙げられているように、愛するものとの別離、愛着のあるものから発生する「苦」や「悲しさ」は仏教のテーマ、解決すべきことがらのひとつだったとおもわれる。  ・しかし、「愛」は多くの場合、肯定的にとらえらてはいない。「煩悩」「とらわれ」「執着」として、苦を発生させる原因として語られる場合が多い。古い経典...

190616_『地域寺院』に西正寺をとりあげていただきました

イメージ
大正大学地域構想研究所・BSR推進センター( https://chikouken.jp/project/bsr/ )が刊行されている『地域寺院』37号に、西正寺について取材いただいた記事が掲載されました。  3月31日に開催した大江戸ブギウギの前日・当日に取材頂き、インタビューでお話ししたこと等を記事にしていただいています。お寺がいろいろな人とつながり、関係性をひろげていく状況をとても丁寧に文章にしていただけたように思います。 担当くださったHさん、ありがとうございました。 この『地域寺院』は、地域で活動を展開している寺院、僧侶の特集記事や、寺院活動に関するコラムなどを編集して毎月刊行されている冊子です。大学の刊行物という性格上、販売ではなく会員に頒布するという形をとられています。ただ、年5000円で、毎月この情報が得られるというならば、関心のある人にはかなりお得な印象のする刊行物ではないかと思います。  詳細は、以下のリンクに。 https://chikouken.jp/project/bsr/  

190518_浄土宗應典院さまの「ともいき堂」竣工記念法要

イメージ
2019年5月18日土曜。  午前中のお寺の法務(お参り)を終えてから、大阪・下寺町の浄土宗應典院さまへ。お招きいただいていた「ともいき堂」の竣工記念法要に参加しました。  遅参したため法要自体には間に合いませんでしたが、法要後のご挨拶と記念撮影には立ち会うことができました。 その後、行事は会場を大蓮寺客殿に移して、大蓮寺/應典院・秋田光彦ご住職と、桃山学院大学の白波瀬達也先生の対談がありました。  秋田住職の「ともいき堂」や一連の葬送/終活関連の取り組みや思いについては、何度か拝聴する機会をいただいていましたが、そのたびに刺激をいただくお話です。葬送をしっかりと、福祉・コミュニティ・社会保障・宗教の枠内で捉えて、デザイン/仕組みもふくめて行う。今回の講演が実施されたようにそれらをきちんとアカデミックな文脈に載せて理論的にも語ることばをしっかりと持ちながら実施されていく。それを含めた、應典院流というか、秋田光彦住職一流のスタンスがしっかりと根っこにあってのプロジェクトなのだということをひしひしと感じました。語られる言葉にも、何度聞いてもブレがなく、信念に裏付けられた力強さがあります。  秋田住職と白波瀬先生のクロストークでは、近年の寺院・僧侶における社会活動について語られました。社会やコミュニティの変化、寺と檀家の関係性や意識の変化による、寺・僧侶の危機感、あるいは世代による感覚や危機感に基づくもの、またインターネット、SNSの活用によっておこされるブレイクスルー的なあり方といった説明は、非常に明解で示唆に富むものでした。  会の終盤、秋田住職からご指名いただき、コメントする機会をいただきましたが、とっさのことでもあったので、果たして場に対してどれだけ適切だったのかは心許なくおもいます。ただ、そのなかで言及した「お寺を使う/お寺に使われる」ということについて、白波瀬先生からは、「お寺を気軽に使うことが、お寺との関わりの糸口、接点としては重要である」というフィードバックをいただきました。  お寺に対して「気軽に使える・日常的に関われる」ということが、お寺との接点や、関係性の入口になることは、実はとても自分自身が意識していることでもあります。それが無条件ではなく、なにがその先にあるのかといったときに「お寺を使う」私が、「お寺によって動かされる...

190503_タイのおぼうさまと看取りについてのお話

イメージ
2019年5月3日(金) 13:00~16:00 「逝き方から生き方を創るwithおぼうさん」( https://peatix.com/event/655938/view )というイベントが西正寺で開催されました。 こちらは、タイで活動をされている古山裕基さん、浦崎雅代さんのお二人が企画・持ち込みをくださった企画です。普段お住まいのタイから3名の僧侶と2名のメーチーさん、それから数名の同行の方とお越しになり、お話をくださいました。 第一部は古山さんからご自身のお母様の看取りの経験とタイでの散骨のについて 第二部はゲストのお二人のタイのおぼうさまからお話。  それぞれ、ご自身のおばあさまの看取り、それからお二人共通の師匠の看取りの様子についてお話いただきました。 休憩をはさんで第三部。 そこでは、私が聞き手になって、お二人のお坊さまに質問をしました。 ・日本の僧侶についてどのように思いますか? ・「死」、「死苦」をどのように超えていくのか。 ・病院や、その他の場所で「死の恐怖」や「死苦」を抱えている人にどのように接するのか、関わるのか、をお尋ねしました。  会場からの質問をいただいたなかには、ご自身の看取りの経験と後悔にどのようにむきあえばいいか?というものなどがありました。 そののち、参加者同士のみなさんで、小グループになって20分ほど話しあい、 最後に共有と、登壇者から一言ずつをいただき、散会となりました。  会場には、40名を超える参加者があり、主催者とタイからのメンバーを含めると、60名近くの人たちと時間をすごしました。    印象的だったことは、やはり僧院で修行されているお坊さまが持つ雰囲気と、言葉の力。はずかしながら、同じ僧侶とは思えないような、雰囲気と言葉の力がありました。  イベント時、それからその前後でお話のなかで、タイのお坊さまたちと「人に接すること」「人の苦しみに接すること」についてお話をする時間がありました。そこでは日本では、「ケア」や「傾聴」といわれるような姿勢と共通するものが多くあったことも印象的でした。  僧院で説き、修行を重ねていく上で語られるような「死を恐れてはいけない、恐くないよ」とか、「とらわれを手放しなさい」ということは決して言ってはいけない。そうではなく、その人の気持ちや、感...

190429_東京二日目、池袋にて

宿を池袋に取った。 いつも豊島区に泊まるということ、そして宿代が安かったのももちろんある。 しかしネットで探しているときに、今回は池袋にしようと思った。 朝、目がさめて身支度をととのえる。チェックアウトし、その理由の場所に向かった。 先日、東池袋であった事故の現場だ。 献花台が設置されて、多くの人が花を手向けているというニュース、 あの事故に多くの人が心を揺さぶられ、具体的な行動を促されているという話に接したことを思い出し、このタイミングで東京にいるならばと、足を運ぶことにした。 移動の途中、東池袋近くのイオン系のコンビニの店先に、お供え用の華が販売されていたのでそれを購入した。もしお花屋さんでもあれば、買おうとおもっていたところだったので、これ幸いという形だった。事故があったから販売されているのか、いつも置かれているものなのかは、わからない。 地下鉄の東池袋近くでの工事現場の人に、場所を聞き、事故現場・献花台に到着。 手にしていた花を供えた。 すでに、多くの花、そしてペットボトルのお茶やジュースが大量に供えられていた。 お菓子やパン、かわいいぬいぐるみも供えられている。 その場所、そして事故に対するたくさんの思いが見える形でその場にあった。 その場に行き、花を手向け、手を合わせたが、それでは何かが足りない気がした。 そのまま、そこを立ち去るには何かが足りない気がして、そこをもうすこし見届けようと思った。ここで起こることを目にしておきたいような思いがした。 そこで、献花台近くの花壇のへりに腰掛けて、そこの献花台とその周りの様子を観察することにした。30分はそこにいようとおもった。 まもなく、出勤途中の男性がやってきて、ペットボトルを供えて立ち去った。 さらに自転車に乗って信号を渡って来たおかあさんと幼児が、自転車を降りて、献花台にしゃがみ込んで合掌していった。様子からすると、お友だちなのかも知れない、という想像すらさせる。 とおりすがりに、献花台に目線をおくる人は多い。車の中でも、信号まちの途中でこの場所のことが話題にあがってるような感じの様子が何台もあった。 1分と開くことなく、その場所を訪れ、なにかを行っていく人がいる。 その場所に気持ちを向けたり、その場所に...

僧侶でしかないので

イメージ
おそらくネットでしか、僕のことを知らないであろう人に、 なにをめざしているのか、どうなりたいのか、わかんないよって言われたんですが、僕もわかりません。笑(おそらくニュアンスは批判的なそれだったと思うのですが) 僕は、尼崎にいる一人の「お坊さん」であり、仏教研究をしてきた人間である、という思いはあります。その名と名乗りに見あうように近づきたいという思いはありますが、それ以外のなにかになろうとか、名のりを得ようという思いはないのだなあと思います。(その問いをもらって明確に言語化できたように思います) セクシュアリティの多様性にも関心を向けています。地域の福祉や、身心の「しょうがい」や、国際的な課題にも関心をもち、関わることが増えてきました。ただ、それは友人が取り組んでいるテーマであったり、課題であったりすることのお手伝いや、なにか助けができればという思いであって、僕自身はその専門家や活動家ではないし、なりたいとおもっているわけではありません。 学校の先生が、「障がい」や「福祉」について語ってもその専門家ではなく「学校の先生」であるように、 企業で「人権」や「憲法」についての研修会や行事を開催してもその専門家や活動家といわれることがなく、「会社員」や、その職の「職員」であるように。 お寺でいろいろなことをしている(と言われる)けれども、 これは、僕は地域の僧侶として、あるいは仏教研究に関わっているものとして、宗教者の実践に関心を向けてそのあり方を模索している者として、「できること」「やりたいこと」をやっているにすぎないと思っています。  むしろある意味で、僕は(もちろん自分の行為や発言・活動に対しての責任を引き受けながら)ある種の素人や門外漢としてそこにかかわることの意味もあるだろうとも思ってはいます。もし僕のしていることや関心をむけていることが、「専門家」や「活動家」だけの領域にとどまるのならば、その思いや理念、問題意識は、限定的に共有されるものにしかならないだろうから。  (心ある)専門家や専門の活動家の邪魔をしない範囲で、素人でお手伝いできること、あるいは自分の立場でできることを見つけながら関与していくこと、専門家でもないにも関わらず「お寺」だから、「僧侶」だからできることが少なからずあるのではないかという思いはもっています。  ...

『茉莉花』113号、2018秋号(法話・わろてら)

イメージ
『茉莉花』113号、2018秋号 に「法話」ということで、原稿を書かせて頂きました。 NHK文化センターの受講生の方に聞かせていただいたお話から、 私としては大変感銘をうけたことを取り上げさせて頂きました。 あと、まったくの奇遇なのですが、 同号には「わろてら」さんの記事も特集されていました。 こちらも、「テラハ。」でのつながりをきっかけにはじまったということで、 大変うれしくおもっています。

180912 普通を語ろう(仮) 2回目

イメージ
  9月4日に開催予定だったこの会。「普通を語ろう」(仮)の2回目ですが、ちょうど台風21号の直撃と重なって、1週間ほど延期し、この日 9月12日の開催となった。  1週間前にリスケジュールとなったにも関わらず、当日は前回を超える14名(主催者2名を含む)の「われこそは普通」という思いや、そうではない思いを抱える参加者があつまった。    年齢や性別、地域、そして信仰もある程度の多様性を含んだメンバーになっていたのが面白かった。  予定していたより多くの人があつまったため、4人組×3グループになって、それぞれで「普通」について思うところを語り合う。  ・時代や文化のコンテクストで揺れ動く「普通」  ・子どもに期待する「普通」  ・過去の「普通」の水準が、今では異なる水準へと変化している例  ・ちょうど先週の台風という災害によって、「普通」にあったものが、「当たり前ではない」という事実に気づかされたこと  ・「普通だよね」という批判、「もっと普通にして」という要求。    今回も様々な角度から、話題が提示され、それぞれの思いや感情が乗せられた経験も含めて語りが出てきているようだった。  グループでの話題をシェアしたあとは、(すこし休憩をはさんだ)全体での話し合いの時間。 今回は、多様な普通が語られ、やや方向性としては散漫な感じがしたものの、掘り下げがあったこととしては、 ・抑圧や、威圧、ある種の暴力性を持った「普通」と、それにどう対峙するか?(あらがうか、自覚的になるか)という問題 ・異なる「普通」(これは価値とか、文化とか、個性とも癒えるかも知れない)の対立や、摩擦が生じる際に、どのように向き合うか、という問題。 (これは、すりあわせや、交流の問題といえるかもしれない)  両者は、ある面では、よく似ているように思う。前者は、この会でもよく取り上げられ問題になる点で、抵抗を感じるが、時としてそれが「文化」や「歴史」によって培われた「マナー」や、「価値観」の伝達の場面でも起こりうるのではないかというような指摘でもあったように思う。  とするならば、「普通」として語られ、提示される価値の中には、「普通のこと」「普通の感覚(常識)」として、伝達され、受け継がれるものもあるのではないか?  しかし、一方でそれ...

「お寺のために使われる」(カリー寺 オープニングトークから)

イメージ
 もう一月以上たってしまったカリー寺。  カリー寺では、本堂でトークやパフォーマンスをプログラムしているのだが、オープニングトークとして、企画・主催の二人でカリー寺について話しをした。  カリー寺が始まった経緯や、地域やお寺に対する思いや考え、あるいはお寺と地域の関係、お寺の可能性について話が及んだ。  そのなか、「お寺の使い方」や「お寺のもつ可能性」について話題にあがったときに、ふっと自分の意見を以下のように述べていた。漠然と考えていたことを、かなり明確にできたような思いがしているので、あらためて記しておきたいと思う。  (そのとき発した言葉とは、異なっていると思うが、内容はおおむね以下のようなことを述べたつもりである) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  しばしば、次のようにいわれる。  「お寺の使い方」、「お寺はもっと社会に役立つことができるはずである」「お寺の使い方の可能性はもっとあるはずである」と。たしかに、お寺がもつ社会的責任や、社会的な役割、社会的な意味を考えたときに、寺院はもっといろいろな可能性があり、もっといろいろな使われ方、開かれ方があってよいはずである。  しかし、一方で「お寺を使う」という言葉の中に含まれてしまいがちなニュアンスの中にあるものに、なにか注意すべきものがあるように思うのである。違和感を覚えるのである。(もちろん、その言葉自体がすべて否定されるべきとはおもってはいない。)  もうすこし踏み込んで言えば、(僧侶を含めた、誰か個人の思いや願いを叶えるために)「お寺を使う」ということであれば、(あるいは、そのような意味が含まれていることに)違和感を感じるのである。     お寺はどのように維持され、ここにあるのだろうか。そう考えたときに、お寺を支えてきてくださった檀家さんの思い、あるいはこれまでお寺を支えてきたであろう人たちの思いがあって今のお寺があるのではないだろうか。お寺は、ある面で「お寺のために」という思いで、人が関わり、人が力を合わせて維持され、運営されてきたという一面もあるのではなかろうか。「お寺を使う」のではなく、お寺を支えるために「自分たちの力を使う」人たちの力や思いによって支えられてきたという見方がたちあがってくるようにおもう。  現に、今のお寺も、お寺の行事に...

失敗百物語 第五夜 「これも芸の肥やしになる」

イメージ
2018年5月10日(木)  夜19時から西正寺を会場に失敗百物語・第五夜というイベントが開催された。 「失敗百物語 第五夜」   https://www.facebook.com/events/906875656160348/ (図:会場で丸川氏が作成したファシグラ) こちらは、友人の藤本氏、丸川氏が主催して開催している100人の失敗を聞くことを目指すイベントでこれまで4回開催されてきたもの。今回、西正寺を場として開催された。これまでの気づきで、「失敗を語ることが、ケアや癒しにつながる」という気づきがあったそうで、その関連から、お寺での開催を依頼された。これはうれしいことだ。  今回は二人の女性の「失敗」にまつわる話が提供された。  そのお一人、演劇をされている女性の言葉のなかに、失敗を消化していく言葉に「これも芸の肥やしになる」と思って、悲しくはなかった。 というものがあった。 「芸の肥やし」という一言。 とても力強い言葉に聞こえた。人生のあらゆることがらが、「芸の肥やし」になりえる。どのような失敗も、躓きも、あるいは喜怒哀楽の感情とそれに関わる出来事のすべても、「芸のこやし」たりえる。言い換えると、自身の人生におこるすべてのできごとが「芸」によって、意味を与えられるのではないだろうか。 会の後、彼女と話をする中で、「演劇がなくなると生きていけない」と思っているという言葉もあった。演劇に支えられ、演じるということが、もしかすると、彼女の人生を根っこから支えて意味づけているものなのかもしれない。  自分にとって、念仏や仏教もそういう面がある。  大きな悲しみや、苦しみも、自分にとっては、「これも仏教の味わい」、「これも仏教を理解する糧になるはず」、「これも念仏の道」と、仏教にことよせることで、意味づけようとし、立っていられるようなことがあった。  自身の歩むべき「道」、つきつめたいと思う「道」を持つということは、もしかするとそういうことなのかもしれないと思った。人生のできごと、身に起こる感情の全てが、その道のを歩むための糧となり、実をつける肥やしとして、意味づけられ、消化されていく。    これも「芸の肥やし」になる。いい言葉だ。  失敗や悲歎をささえ、消化させるといった、その言葉はぐっと突き刺さるような、自分へ...

広告A