2019年2月27日水曜日
僧侶でしかないので
おそらくネットでしか、僕のことを知らないであろう人に、
なにをめざしているのか、どうなりたいのか、わかんないよって言われたんですが、僕もわかりません。笑(おそらくニュアンスは批判的なそれだったと思うのですが)
僕は、尼崎にいる一人の「お坊さん」であり、仏教研究をしてきた人間である、という思いはあります。その名と名乗りに見あうように近づきたいという思いはありますが、それ以外のなにかになろうとか、名のりを得ようという思いはないのだなあと思います。(その問いをもらって明確に言語化できたように思います)
セクシュアリティの多様性にも関心を向けています。地域の福祉や、身心の「しょうがい」や、国際的な課題にも関心をもち、関わることが増えてきました。ただ、それは友人が取り組んでいるテーマであったり、課題であったりすることのお手伝いや、なにか助けができればという思いであって、僕自身はその専門家や活動家ではないし、なりたいとおもっているわけではありません。
学校の先生が、「障がい」や「福祉」について語ってもその専門家ではなく「学校の先生」であるように、
企業で「人権」や「憲法」についての研修会や行事を開催してもその専門家や活動家といわれることがなく、「会社員」や、その職の「職員」であるように。
お寺でいろいろなことをしている(と言われる)けれども、
これは、僕は地域の僧侶として、あるいは仏教研究に関わっているものとして、宗教者の実践に関心を向けてそのあり方を模索している者として、「できること」「やりたいこと」をやっているにすぎないと思っています。
むしろある意味で、僕は(もちろん自分の行為や発言・活動に対しての責任を引き受けながら)ある種の素人や門外漢としてそこにかかわることの意味もあるだろうとも思ってはいます。もし僕のしていることや関心をむけていることが、「専門家」や「活動家」だけの領域にとどまるのならば、その思いや理念、問題意識は、限定的に共有されるものにしかならないだろうから。
(心ある)専門家や専門の活動家の邪魔をしない範囲で、素人でお手伝いできること、あるいは自分の立場でできることを見つけながら関与していくこと、専門家でもないにも関わらず「お寺」だから、「僧侶」だからできることが少なからずあるのではないかという思いはもっています。
だから僕はいまのところは「西正寺の僧侶」という名乗りをするし、専門的に研究したことは「中国の浄土教思想」という分野であると思っているし、知りたい学びたいとおもって関心を向けているのは(狭い意味では)「宗教者の社会における実践・活動のありかた」であって、それ以外のことではないと思っています。その枠が拡がっていくさきに、さまざまなことがつながっていっているのだろうとおもっています。
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