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【お知らせ】研究座談会(第2回)「NPOとソーシャルビジネス」の開催

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このたび、以下の様な研究座談会を予定しています。 参加申し込みは、以下のグーグルフォームからお願いします。 チラシデータのQRコードからアクセスいただくことも可能です。 https://forms.gle/Pn2C9NLJRLn12w7EA  講師の能島裕介さんは、現在、チラシ掲載の肩書の他にさまざまなお立場で活躍されています。(Wikipediaにも情報が掲載されています  Wikipedia「能島裕介氏」  。  個人的には、尼崎などでの地域活動や、教育委員を務めていた時には、尼崎市の教育行政(教育委員会)のお仕事でもご一緒させていただいていました。  大学在学中に、阪神大震災を契機にはじめられた子どもの支援活動から、NPO法人の設立したことをはじめ、現在は、さまざまなNPOや社会活動にかかわられています。  とくに、長年様々なソーシャル・ベンチャーを生み出しているソーシャルビジネスコンペの活動「egde」( https://edgeweb.jp/ )にも深く関わっていらっしゃいます。  今回は、そのegdeの活動もふくめて、NPO、ソーシャルビジネスに関することについて、お話/話題提供をいただく予定です。  教室の関係から、参加には必ずお申込みいただくようにお願いいたします。 「NPOとソーシャルビジネス」 【趣旨】  実践真宗学の研究の一環として、現代社会の諸課題について、実情に通じた専門家や当事者をお招きした研究会を開催いたします。今回は、NPOの活動ならびにソーシャルビジネスに詳しい能島裕介氏(尼崎市こども政策監)にお越しいただき、標題のタイトルで、話題提供をいただきます。 関心のある皆さんのご参加をお待ちしています。 【講師】 能島裕介(のじま ゆうすけ)氏  神戸市生まれ。関西学院大学在学中に阪神・淡路大震災で被災した子ども達の支援活動に従事。大学卒業後、株式会社住友銀行を経て、NPO法人ブレーンヒューマニティーを設立、理事長に就任。大学生ボランティアを主体としながら青少年を対象にした野外活動、国際交流活動、不登校支援活動などを展開。2013年4月、尼崎市参与に就任。2017年12月、NPO法人ブレーンヒューマニティー理事長を退任。2018年4月、尼崎市理事に就任。教育次長を経て現職。

龍谷大学 公開シンポジウムの打ち合わせをしました。

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たくさん、書き残すべきことがあるのですが、記録や振り返りに手が回らずに過ごしています。 別途、各方面からご案内させていただいているのですが、以下の様なシンポジウムを、所属している大学で企画しています。  

アーユスの声明「「イスラエルとハマスの一連の武力衝突に関して」について

 NPO法人 アーユス仏教国際協力ネットワーク  「 イスラエルとハマスの一連の武力衝突に関して 」   https://ngo-ayus.jp/column/middle_east/2023/10/23palestine/?fbclid=IwAR0iAC0PS93zdn-vqv0IrTTMYJvsAp-8VH-9F_r3XhYkdGQBDNQS-fXoqBs  私も理事として名を連ねさせていただいているNPO法人 アーユス仏教国際協力ネットワークが、イスラエルとハマスの武力衝突に関して、声明を出しました。 声明の作成については、事務局と理事の間でもいろいろな議論がありました。また専門委員の先生からも種々訂正や見直しの指摘があったと伺っています。    もしかすると、立場によって見えるものが異なることがあるかもしれません。あるいは、私もアーユスからも見えていない光景があるのかもしれません。    しかしながら、一貫して議論で、見つめられ続けていたことは、国・勢力が争う中で、苦しめられている市民がいるということ、そしてそこへの支援は何があってもとどめられてはならない、苦難を止める努力は続けられなければならないということだったのではなかったかと振り返っています。  恥ずかしながら、この声明に関する議論が立ちあがるまで、パレスチナ問題については、耳にしてはあいまいになり、ちゃんと学ぶこともありませんでした。あらためて、情報にふれ、学び知るべきであったこと、知らなかったことがたくさんあったことに気が付きました。  今回の件で、このことについても、もっとちゃんと目と耳を開いていかなければいけないと思いなおしています。     以下、アーユスの声明を全文転載します。 「イスラエルとハマスの一連の武力衝突に関して」 アーユスは1993年の設立以来、仏教系NGOとして平和が守られ人権が尊重される社会をめざして活動してきました。とりわけパレスチナ問題に対して深い関心を持ち、そこで活動するNGOに協力してきました。故郷から離散を強いられて難民となったり、占領下という不条理な状況におかれたりしても、民族自決を実現しようと立ち上がるパレスチナ人の姿に感銘を受け、また命を重んじる仏教者の団体として、宗教が深く関わっているこの問題を看過できませんでした。これまで、ヨルダン川西岸地区やガザ地区、...

とある公共施設の整備に関する質疑で感じたこと 

 「この施設の設計にあたって、特にダイバーシティやインクルーシブ、人権配慮はどのように行われましたか?」   このような質問をしました。ある日の教育委員会定例会で審議された、市内のとある施設整備に関する議案についての一コマです。こんなに簡潔に言っていなかったかもしれません。一言一句正確ではないけれど、上記のような質問をしました。    誤解のないように、この投稿で言いたいことを先に述べておくと、予算の扱いや、設計・施工等の手続きに瑕疵があるとか、当該の施設に問題があるとかといったことを指摘したいわけではありません。むしろ、「問題がない」というところにこそ存在している「課題」を共有したいという思いをもって、この記事を書いています。 (議案としてかけられた提案案件については、問題なく承認されました。)   ◎質問の意図   質問をした意図は以下のようなものです。    事務局からの説明資料の中に、当該施設の設計図面がありました。それを見ると、シャワーや更衣室、トイレ等の設備が表示されていましたが、図面を見る限り、トランスジェンダーをはじめとした”男/女に割り振られた設備の利用に抵抗を覚える利用者”が十分に想定されていないのではないか、ひいてはソフト面においても、そのような場合にとるべき対応等が必ずしも十分に検討されていないのではないかと疑問を持ちました。ここで一度、確認しておくべきだと思われ、冒頭の質問を発言するに至った次第です。(十分な想定や検討は行われていないのではないか、という疑問が生じたことによる)。    尼崎市は、ダイバーシティ推進課を設置し、性の多様性に関する理解について取り組みを進めているものの、現実にはいまだ課題が残り、新聞や報道にのぼるような問題が生じたこともありました。そのような中で、施設の整備がどのような配慮をもって行われようとしているのか、確認しておく必要もあるだろうと思った次第です。    ただし、当該の建築物は、すでに設計図面の作成は完了(納品)されており、かなり工程として進んだ段階にありました。手続き的にここでストップするというのは現実的な対応ではないという状況ではありました。しかし、設計段階では想定されていなか...

繁昌する、ということ。

 浄土真宗を日本有数の仏教教団にした、本願寺第八代蓮如上人の言葉として、次のようなものが伝わっています。    一、一宗の繁昌と申すは、人のおほくあつまり、威のおほきなることにてはなく候ふ。一人なりとも、人の信をとるが、一宗の繁昌に候ふ。しかれば「専修正行の繁昌は遺弟の念力より成ず」(報恩講私記)とあそばされおかれ候ふ。 『蓮如上人御一代記聞書 』 (※ 大まかな意訳:仏教の繁昌というのは、人がたくさんあつまったり、勢いが大きく盛んになることではありません。一人であっても、信心を獲た人がいることが、繁昌というものなのです。そうであるから「浄土真宗の教え、専修念仏の教えが繁昌するということは、親鸞聖人が亡くなられた後の門弟たちの信心の力によって成就するものである」と(本願寺第三代の覚如上人の『報恩講私記』には)述べられているのです。)     仏教/お寺とはなにか、なにをすべきかということに、しばしば思い返し、考えさせられることばです。 たくさんの人に知られる、たくさんの人がやってくる、ということは、決してお寺の本来的/本質的な意味ではないのだと知らされる言葉です。  それらは、お寺のあるいは僧侶である私の行っていることの意味を測る軸にはなりえない(してはいけない)のだというのです。  では、「一人なりとも、人の信をとる」ということは、どういうことか。これもまた具体的に理解していくことが難しいことです。このことさえも、つかんだと思ったところに落とし穴や、過ちが潜んでいるようなことでもあるかもしれません。  仏教徒として、お寺とはどうあるべきか、僧侶のなすべきことはなにか。  簡単に答えが得られないし、また「見えやすいもの」「わかりやすいもの」に対してそれではないよ、という警句がちゃんと示されています。  また、そういった言葉を通して、常に問わざるを得ないし、なにかに安住することもできない。常に、自分がつかもうとするものを相対化させられる中でしか、なすべきことはみえないのではないだろうか?とも思ったりしています。

190518_浄土宗應典院さまの「ともいき堂」竣工記念法要

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2019年5月18日土曜。  午前中のお寺の法務(お参り)を終えてから、大阪・下寺町の浄土宗應典院さまへ。お招きいただいていた「ともいき堂」の竣工記念法要に参加しました。  遅参したため法要自体には間に合いませんでしたが、法要後のご挨拶と記念撮影には立ち会うことができました。 その後、行事は会場を大蓮寺客殿に移して、大蓮寺/應典院・秋田光彦ご住職と、桃山学院大学の白波瀬達也先生の対談がありました。  秋田住職の「ともいき堂」や一連の葬送/終活関連の取り組みや思いについては、何度か拝聴する機会をいただいていましたが、そのたびに刺激をいただくお話です。葬送をしっかりと、福祉・コミュニティ・社会保障・宗教の枠内で捉えて、デザイン/仕組みもふくめて行う。今回の講演が実施されたようにそれらをきちんとアカデミックな文脈に載せて理論的にも語ることばをしっかりと持ちながら実施されていく。それを含めた、應典院流というか、秋田光彦住職一流のスタンスがしっかりと根っこにあってのプロジェクトなのだということをひしひしと感じました。語られる言葉にも、何度聞いてもブレがなく、信念に裏付けられた力強さがあります。  秋田住職と白波瀬先生のクロストークでは、近年の寺院・僧侶における社会活動について語られました。社会やコミュニティの変化、寺と檀家の関係性や意識の変化による、寺・僧侶の危機感、あるいは世代による感覚や危機感に基づくもの、またインターネット、SNSの活用によっておこされるブレイクスルー的なあり方といった説明は、非常に明解で示唆に富むものでした。  会の終盤、秋田住職からご指名いただき、コメントする機会をいただきましたが、とっさのことでもあったので、果たして場に対してどれだけ適切だったのかは心許なくおもいます。ただ、そのなかで言及した「お寺を使う/お寺に使われる」ということについて、白波瀬先生からは、「お寺を気軽に使うことが、お寺との関わりの糸口、接点としては重要である」というフィードバックをいただきました。  お寺に対して「気軽に使える・日常的に関われる」ということが、お寺との接点や、関係性の入口になることは、実はとても自分自身が意識していることでもあります。それが無条件ではなく、なにがその先にあるのかといったときに「お寺を使う」私が、「お寺によって動かされる...

(掲載)浄土宗総合研究所編『それぞれのかがやき:LGBTを知る―極楽の蓮と六色の虹』(総研叢書第10集)

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 先日刊行された、浄土宗総合研究所編『それぞれのかがやき:LGBTを知る―極楽の蓮と六色の虹』(総研叢書第10集)に、大正大学の林田康順先生、浄土宗総合研究所の工藤量導先生と、私・中平が対談させていただいた「仏教・浄土教とLGBT」が掲載されています。  この企画は、浄土宗総合研究所さまが、隔年で刊行されている『総研叢書』の企画として、LGBTをテーマにし、仏教徒としての(あるいは僧侶・仏教徒にも当事者がいるはずとの立場にたって)のLGBTの向き合いやアプローチ、仏教、寺院が抱えている課題に取り組まれたものです。企画段階でお声を書けていただき、2016年6月に開催した「テラからはじまるこれからのハナシ。」の取り組み、それから龍谷大学行われている大学としての取り組み、LGBTに関連する諸課題について、至らないながらもお話をさせていただきました。  テラハ。に参加くださった方の中から、妹尾陽さん、虹色ダイバーシティの橋本竜二さんにもコラムを寄稿いただきました。改めて、テラハでの出来事を思い出すようなこともでありました。ありがとうございました。  折しも、国会議員による「LGBTには生産性がない」「支援が過剰」云々という発言があり、LGBTに限らず、人の価値や、存在の意味自体に向けられた問いが喚起されているような状況でもあります。ちょうどそのような時期の刊行になったこと、仏教者からのしかも、伝統教団の公式な機関からの発信・メッセージとして大変意味深いものだと感じています。    本誌の中では、LGBTの当事者や抱えている困難、それを踏まえて、葬送・仏事の場面、寺院でどのような対応がなされるべきか、LGBT当事者の僧侶がどのようにすればその修行生活をおくることができるのか、それらについて現実的な課題や、可能性を模索されています。率直にいえば、現実的には「これから対応すべき形、できる形」を模索されているのであって、「すでにこう対応されている」という事象は多くはないように感じています。しかし、それでも僧侶が経験した当事者との邂逅や、課題の共有から、今後あるべき姿を模索しようとする姿勢や、(伝統という看板で変革が容易でない態勢や価値観を)変革を求めようとする姿勢、気概は感じていただけるのではないかと思います。  ぜひ、関心のある方(特に僧侶の...

講義_「宗教実践特殊研究」5回目の講義の発表とディスカッション

 龍谷大学大学院実践真宗学研究科で担当している講義「宗教実践特殊研究」。 (なかなか、いかつい名前である)  昨年企画・実施した研究科主催のシンポジウムを受ける形で、「ソーシャルインクルージョンと宗教」と題して、宗教者による社会課題に対する実践をテーマにしている。  自身が宗教者(僧侶)でもある若い大学院生のみなさんが、それぞれ関心をもった「社会課題」について調べて発表してもらい、その発表とその後のディスカッションを通して、宗教、あるいは宗教者が関われる可能性―そのフィールドの設定や、具体的な方法―について、考えを及ぼしていくことができたらと、目論んでいる。  これまでは、それぞれの自己紹介を通して、身の回りにある課題や、関心を掘り下げる作業、それから、現在の社会の動きとして(講義のテーマでもある)「ソーシャル・インクルージョン」という考え方、宗教と社会の関係性―「世俗主義」とその捉え直しという―変遷について、レクチャーを行った。 それを踏まえて、今回から、大学院生による発表という回。  一番目の院生さんが選択してきたテーマが、自身がある業界でアルバイトしていることもあって、「悪質クレーマー問題」。  問題の詳細については、ググったり、以下のリンクをみていただけたらと思う。   ■労働組合UAゼンセンによる悪質クレームの定義と対策の文書■    正直、宗教者のフィールドに結びつくのだろうかと、不安がなかった訳ではない。  しかし、受講している院生の積極的な発言や、視点の提示によって、予想以上の視野の広がりと、興味深いディスカッションの展開になった。  悪質クレームという問題を、社会的な病理という面からアプローチする視点、  社会心理や、文化的な背景もあるのではないかという、外国での状況と比較した意見。  また、宗教者のフィールドとしては、「企業チャプレン」というアプローチについても言及があった。  (そして、企業チャプレンの話題については、本日、以下の記事があることが、臨床宗教師会のMLでも配信されて、なんとタイムリーなことかと驚く。  ※「クリスチャントゥディ」 「米国で雇用広がる企業チャプレン 充実しない日本の「心のケア」 http://www.christiantoday.co.jp/articles/1358...

失敗百物語 第五夜 「これも芸の肥やしになる」

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2018年5月10日(木)  夜19時から西正寺を会場に失敗百物語・第五夜というイベントが開催された。 「失敗百物語 第五夜」   https://www.facebook.com/events/906875656160348/ (図:会場で丸川氏が作成したファシグラ) こちらは、友人の藤本氏、丸川氏が主催して開催している100人の失敗を聞くことを目指すイベントでこれまで4回開催されてきたもの。今回、西正寺を場として開催された。これまでの気づきで、「失敗を語ることが、ケアや癒しにつながる」という気づきがあったそうで、その関連から、お寺での開催を依頼された。これはうれしいことだ。  今回は二人の女性の「失敗」にまつわる話が提供された。  そのお一人、演劇をされている女性の言葉のなかに、失敗を消化していく言葉に「これも芸の肥やしになる」と思って、悲しくはなかった。 というものがあった。 「芸の肥やし」という一言。 とても力強い言葉に聞こえた。人生のあらゆることがらが、「芸の肥やし」になりえる。どのような失敗も、躓きも、あるいは喜怒哀楽の感情とそれに関わる出来事のすべても、「芸のこやし」たりえる。言い換えると、自身の人生におこるすべてのできごとが「芸」によって、意味を与えられるのではないだろうか。 会の後、彼女と話をする中で、「演劇がなくなると生きていけない」と思っているという言葉もあった。演劇に支えられ、演じるということが、もしかすると、彼女の人生を根っこから支えて意味づけているものなのかもしれない。  自分にとって、念仏や仏教もそういう面がある。  大きな悲しみや、苦しみも、自分にとっては、「これも仏教の味わい」、「これも仏教を理解する糧になるはず」、「これも念仏の道」と、仏教にことよせることで、意味づけようとし、立っていられるようなことがあった。  自身の歩むべき「道」、つきつめたいと思う「道」を持つということは、もしかするとそういうことなのかもしれないと思った。人生のできごと、身に起こる感情の全てが、その道のを歩むための糧となり、実をつける肥やしとして、意味づけられ、消化されていく。    これも「芸の肥やし」になる。いい言葉だ。  失敗や悲歎をささえ、消化させるといった、その言葉はぐっと突き刺さるような、自分へ...

関西臨床宗教師会の会議をしてきました。

4月26日 夕刻 日中、商店街のご挨拶まわり( https://ryogo1977.blogspot.jp/2018/04/blog-post_27.html )をして、夕刻からは、会議のため大阪梅田のサクラファミリアに向かいました。 事務局長を仰せつかっている、「関西臨床宗教師会」の会議のためです。 臨床宗教師とは、 医療・福祉など公共空間で、スピリチュアルケア・宗教的ケアを提供するなど、活動することのできるトレーニングを行った宗教者、あるいはすでにそのような場で活躍している宗教者を称する名称の一つとして使われています。  特に「臨床宗教師」は、そのようなトレーニングを積み、守るべき倫理綱領を遵守することが求められていることが特徴といえます。  日本臨床宗教師会 ホームページ  http://sicj.or.jp/ 2012年に東北大学で「臨床宗教師研修」が始まり、 勤務していた龍谷大学でも実践真宗学研究科が日本で2番目にその研修をスタートさせました。そのもろもろの関わりもあり、昨年から関西の臨床宗教師のグループ、「関西臨床宗教師会」で事務局長をすることになりました。 とはいえ、昨年8月にリスタートして、通年の行事や研修体制などを作っているところ、 積極的に活動に協力して下さっている役員や会員のみなさんで意見交換しながら、活動の方向をつめている段階です。 今回も、いつも来て下さっている役員会員の他に、新しく加わって下さった方も参加して下さり、活動の方針について、あれこれ意見交換することができました。 個人的には、社会一般に提供できる講座や研究会活動を展開していければいいなーとおもっています。 18:30から21:00に及ぶ長丁場でしたが、いい意見交換ができたとおもいます。 今後の活動も可能であれば、ご紹介していきたいと思っています。 どうぞよろしくおねがいいたします。

論文「「浄土真宗の実践」―その射程とそれを立ちあがらせるものについて―」

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【『真宗学』刊行、論文載ってます】  大学のメールボックスに、龍谷大学真宗学会発行の『真宗学』の最新号が届いていました。  今号は、龍谷大学の川添泰信先生の退職記念特別号です。拙稿「「浄土真宗の実践」―その射程とそれを立ちあがらせるものについて―」も掲載されました。    宗教者の実践、社会貢献が取り上げられる昨今、浄土真宗の教義と実践の関連性について、扱いました。思想研究をしていた者として、また「実践真宗学」に携わったものとして、数年来の愚考をまとめてみたものです。  ご教授、ご叱正をいただけたら大変ありがたく思います。  (※あくまでも、浄土真宗の教義を学んだ立場から、「浄土真宗」の実践について書きました。他宗・他派にもしかしたら架橋するかも知れませんが、その点についての保証や自信はありませんので、あしからずご了承くださいませ)

「應典院ポスト20年プラン」の発表を聞いて

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先に記事を上げた應典院の20周年シンポジウム。( https://ryogo1977.blogspot.jp/2018/03/20.html ) その最後に、秋田住職から「應典院ポスト20年プラン」の発表があった。 「葬式をしないお寺應典院が葬式をしたらどうなるのか」、「葬送に取り組みたい」ということだった。  秋田住職の言葉によれば、  ・親寺の大蓮寺でのご葬儀などから貧困のご家庭と向き合われた経験があったということ。  ・應典院で開催された、葬送をテーマにしたシンポジウム(https://www.facebook.com/events/136846966934224/)で、100名を超える参加者があったという、一般社会からの「強い関心」を感じられたこと。  ・また、そのシンポジウムでは、近代の「助葬システム」が、福祉的な役割を果たしていたという指摘があったこと。  ・「多死」、「貧困」、「孤立」の社会の中で、葬送は「福祉」の文脈で捉え直すことができるのではないか。  等が語られていた。「應典院が葬送に取り組んだら、こうなる」ということを考えたい。という強い言葉もあった。  20年、設立からのコピーに「葬式をしない寺 應典院」と示し、そのタイトルで本まで出していた應典院が、20年の節目を経て、「葬送」に取り組むという宣言。非常に重たい、ズシンとくるものがあった。自分の内面でなにかがふるえているような感覚があった。  伝統仏教教団、あるいは研究機関でもずっと「葬儀」をテーマに掲げた取り組みはあった。食傷気味になるくらい、「葬儀」というのは扱われてきたテーマだ。しかし、應典院として葬儀に取り組む(考える)という宣言は、これまでの伝統教団のそれとはまったく異質の感覚をもって聞こえてきてしまった。  個人的感覚だが、これまでの伝統仏教教団の葬儀は、寺院経営等の経済的な面、宗教儀礼や仏教的価値観の維持、布教伝道といった、仏教教団、あるいは寺院側のモチベーションとどうしても切り離すことができないでいた。それらが透けてみえていたことが、一般社会との乖離を生じさせたり、その主張に説得力を持たせ切れていなかったように思われる。  しかし、(それがテーマや題材として扱われるイベント・研修が行われることがあっても)あえて再建以来20年間「葬儀」という...

浄土宗應典院20周年記念シンポジウムに参加して

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2018年3月2日(金)  應典院の20周年記念シンポジウムに参加した。  (フェイスブックページ: https://www.facebook.com/events/223059001600334/ ) 登壇者は、 ・島薗進先生(上智大学グリーフケア研究所所長・東京大学名誉教授) ・大河内大博先生(願生寺住職・臨床仏教研究所特任研究員) ・大谷栄一先生(佛教大学教授兼コーディネーター) ・秋田光彦住職(浄土宗大蓮寺・應典院住職) 休憩を一回はさみながらも18:00~20:30までの2時間半。 進行大谷先生の巧みさと登壇者の刺激的な提言の連続で、長さや疲労を感じることはなかった。  それぞれの提言は、應典院との関わり、應典院の変遷、社会と宗教と関わりの変遷を軸に、この20年間をふり返り今後の展望を開いていくものだった。  登壇者の大河内さんは「秋田住職に見いだされた」といい、また登壇者の島薗先生については秋田住職がその著述を應典院設立に際して「びりびりに破れる程に読んだ」と御礼を述べられていた。ふりかえってみると、お二人に象徴されるような、應典院と秋田住職に光を当てられたり、育てられたりした人、あるいは應典院を作り、場に過変わり続けてきた人が、一堂に会しているような、まさに「20年の縮図」がそこに展開しているような場であったように今ふり返っている。  登壇者の提言に耳を傾け、社会のうつろいを思い返すとき、自分自身の20年も同時にふり返り、関わり影響を受けてきたものがらの数々についても、思い返すような時間だった。  2時間30分にはとても多くの刺激や気づきがあり、いちいちにあげていくことはできない。自分の中で印象的だったことばをいくつかあげると、  ・秋田住職の、お寺にかかわる「フロー」と「ストック」という言葉。  ・また、「無意識の古層を掘り起こす」という言葉。  ・それから、島薗先生の提言のなかで示唆されていた、近年の、宗教研究と宗教者による実践の接近という状況。  寺院のありかたについて、「都市型」と「村落型」に分けて考えることはままあるが、秋田住職は、その特徴を「フロー」と「ストック」として見る視点を提示された。そして、應典院の取り組みは、ただ「フロー」でおわるのではなく、そのフローの連続・継続性の...

シンポジウム「グリーフケアとしての伝統仏教」@應典院(1/21のこと)

(もう1ヶ月近く前のことになるけれど、書き切れていなかったのでいまさらになる) 2018年1月21日(土)13:30~16:30 應典院で開催されていたコモンズフェスタの一環としてあったシンポジウム「グリーフケアとしての伝統仏教」に登壇させていただいた。 ウェブページ http://www.fmz1999.com/2018_commons/003.html フェイスブック イベントページ https://www.facebook.com/events/357876154638499 登壇者は、 ・中平了悟 (浄土真宗本願寺派 西正寺僧侶/龍谷大学大学院実践真宗学研究科 実習助手) ・大塚茜さん (浄土真宗本願寺派眞西寺寺族 / NPO法人「和」理事長) ・山田昌史 さん(山田石材合資会社[名古屋] / 真宗大谷派教師) ・秋田光彦 さん(浄土宗大蓮寺・應典院住職) ・宮原俊也 さん(帝塚山大学こころのケアセンター臨床心理士) ・佐脇亜依 さん(京都市ユースサービス協会・臨床心理士) ・進行、湯山佐世子 さん(應典院寺町倶楽部 執行部役員) というラインナップ(チラシ等掲載順)。 ◆ 應典院は、1614年に建立、1997年に再建されたお寺だが、再建後は、一般的な寺院ではなく、演劇や講演会、シンポジウム、さまざまなワークショップが展開される場として開かれ、運営されてきた。  地域に開かれたお寺という意味では、先進的な取り組みを絶えず行ってこられた場であり、自分自身もその場で多くのことを学ばせていただいた。たくさんのセッションに参加して、学ばせていただくことがあった場で、まさか自分が話し手側で参加させていただくことがあろうとは思ってもいなかった。お話をいただいたときに、とてもうれしく光栄なことと思ったことを鮮明に覚えている。今回のお話は、まずはとてもうれしく、光栄なことだという思いがあって、それは登壇後の今も続いている。 ◆ 会の趣旨としては、ホームページ等に掲載の通り。企画者からは、「一般の特に應典院をフィールドとしている劇団の方「や、「仏教に全くなじみのない方」を対象として想定したいということ、そしてできる限り「専門」から離れた、一般にむけて言葉を発して欲しいということで依頼を受けていた。 ◆ 僕が心がけていたこと...

本願寺国際センター 恵範講座第40回特別記念シンポジウム「宗教と現代社会との関わりについて」

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今日(2018年2月14日(水))に開催された下記のシンポジウムに参加してきた。 http://www.hongwanji.or.jp/project/news/n002132.html 2018(平成30)年2月14日(水)17:30~19:30 本願寺国際センター 恵範講座 第40回特別記念シンポジウム 「宗教と現代社会との関わりについて」 (会場:聞法会館 3階多目的ホール) 登壇者は、大谷光真・浄土真宗本願寺派前ご門主、小原克博・同志社大学教授、コーディネーターとして、釈徹宗・相愛大学教授。大変豪華な登壇者。 事前申し込みが必須と言うことだったが、すこし残席もあって当日でも入場はできたようだった。   前ご門主の講演、小原先生の講演があったのち、釈先生も加わられてディスカッションという流れ。  おおむね議論は、宗教者の実践と信仰は社会に対してどのように関わり、どのように距離を取るのかということについて、現実的な問題も視野に入れつつ、そのあり方について探る、というのが中心的な問題であっただろうかと思う。  単に教義的・抽象的な議論にとどまるのではなく、インターネットの功罪やそれによってもたらされている社会的な断絶・対立にも目配せがされていた。  実践や信仰を「正当化」したり、理論づけようとするのではなく、現実の中にあるジレンマや、問い自体に考えるための材料や手がかりを提供されたような対話の時間だったように感じる。 ◆大地や、海に通じる宗教性  ディスカッションのなかで言及されたものの一つに、鈴木大拙が親鸞聖人の信心・念仏を「大地」に足を置き、生活することと結びつけたということがあった。それは、今日のシンポジウムの中では、石牟礼道子が『苦海浄土』の中で、自己と切り離されたものではない「海」を語り、また公害の被害を「部外者」としてではなく、自己のありようと深く結びつけて捉え、描いていることと、あるいはガンディーがヒンドゥーとムスリムの暴動の際にハンガーストライキをしたことによって、暴動を治めたエピソードと重ねて語られもした。  要は、信仰の世界、或いは信仰によって獲得された身体性は、自己の枠を超えて、大地や、海や、あるいは他者・世界とつながりなかで再認識され、また他者にもそれが認識されることによって新しい地平につながって...

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