2018年3月2日(金)
應典院の20周年記念シンポジウムに参加した。
(フェイスブックページ:https://www.facebook.com/events/223059001600334/)
登壇者は、
・島薗進先生(上智大学グリーフケア研究所所長・東京大学名誉教授)
・大河内大博先生(願生寺住職・臨床仏教研究所特任研究員)
・大谷栄一先生(佛教大学教授兼コーディネーター)
・秋田光彦住職(浄土宗大蓮寺・應典院住職)
休憩を一回はさみながらも18:00~20:30までの2時間半。
進行大谷先生の巧みさと登壇者の刺激的な提言の連続で、長さや疲労を感じることはなかった。
それぞれの提言は、應典院との関わり、應典院の変遷、社会と宗教と関わりの変遷を軸に、この20年間をふり返り今後の展望を開いていくものだった。
登壇者の大河内さんは「秋田住職に見いだされた」といい、また登壇者の島薗先生については秋田住職がその著述を應典院設立に際して「びりびりに破れる程に読んだ」と御礼を述べられていた。ふりかえってみると、お二人に象徴されるような、應典院と秋田住職に光を当てられたり、育てられたりした人、あるいは應典院を作り、場に過変わり続けてきた人が、一堂に会しているような、まさに「20年の縮図」がそこに展開しているような場であったように今ふり返っている。
登壇者の提言に耳を傾け、社会のうつろいを思い返すとき、自分自身の20年も同時にふり返り、関わり影響を受けてきたものがらの数々についても、思い返すような時間だった。
2時間30分にはとても多くの刺激や気づきがあり、いちいちにあげていくことはできない。自分の中で印象的だったことばをいくつかあげると、
・秋田住職の、お寺にかかわる「フロー」と「ストック」という言葉。
・また、「無意識の古層を掘り起こす」という言葉。
・それから、島薗先生の提言のなかで示唆されていた、近年の、宗教研究と宗教者による実践の接近という状況。
寺院のありかたについて、「都市型」と「村落型」に分けて考えることはままあるが、秋田住職は、その特徴を「フロー」と「ストック」として見る視点を提示された。そして、應典院の取り組みは、ただ「フロー」でおわるのではなく、そのフローの連続・継続性の中に、本物の「ストック」としての物語を蓄積されるのだと。
また「無意識の古層」ということについては、「宗教とはなにか」という文脈で、釈徹宗先生の言葉として紹介されていた。應典院という場での営みは、新しい試みでありながら、潜在的に場や人の心にある「無意識の古層」を引き出し、掘り起こすことがままあるのだ、と語られていた。
従来の「伝統」という形では、むしろ立ちあがってこなかった、現実に生きている人が無意識に抱えている価値や思い、あるいは潜在的な文化とのコミットメントが、應典院で行われている新しい取り組みのほうがむしろ、引き出し掘り起こしているという指摘には揺さぶられるものがあった。
島薗先生の宗教研究と宗教者による実践との接近ということについては、僕自身が、宗教者を養成する大学院という環境に籍を置いていることもあって非常に考えていたところでもある。
「実践真宗学研究科」(龍谷大学)「実践宗教学」(東北大学・上智大学)ができたように、実践的な宗教者の養成(あるいは宗教者による実践を研究テーマ)を看板とした大学・研究機関や組織は近年増えつつある。
これは、仏教者としての反省であるが、近年のトレンドという枠組みで考えると同時に、「従来」の枠組みが抱えていた反省もふくめて考えないといけないのではないかと思っている。
特に仏教者を養成する大学での修学体制については、多くが経典や聖教を読み、協議を理解する「文献研究者」「思想(史)研究者」を養成するかのようなカリキュラムが主流としてあったことも見逃してはいけないように思う。もちろん、自分自身への反省も含めてのことだが、仏教思想の理解や、文献を読むことができるようになっても、必須の態度として「それを今の社会にいかに結びつけて考え、行動するか」、そもそも「現代の社会の抱えている課題とは何か」を問うことを求められるような機会は、学修機関においては非常に少なかったのではないかと思う。
3.11以降の宗教者の活動や、社会的なニーズに応える形で、大学を中心として具体的な宗教者の実践に焦点が当てられるようになってきたが、それは同時に(特に伝統仏教教団における)従来型の宗教者の養成・育成のあり方の反省や、総括も行われながら進められるべきではないかというような思いを(あくまでも個人的な感覚として)もっていることを改めて思った。
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