2023年10月31日火曜日

割と困る質問:「永代供養ってしてもらえますか?」(その2)

 割と困る質問:「永代供養ってしてもらえますか?」(その1)からの続きです

「永代供養ってしてもらえますか?」という質問の悩ましさは、上に書いたその意味が多義的ということのほかにも、悩ましさがある。

◎ 「永代供養したから、お経をあげる」というわけではない。

 永代供養したから、その方のご供養はお引き受けしましたよ、というように請け合えるかというとそうではないのだ。「永代供養しても、してもらえないのか?」というと、むしろ逆で、「永代供養されても、しなくても、お勤めはする」のである。

 あくまでも、私の場合、今の西正寺の場合は、という前提がつくものではあるが、以下のような考えをしている。

 西正寺の合同墓に納骨された方で、(仮にこの言葉を使うが)「永代供養」を依頼され、懇志を収められた方だけお勤めし、そうではない方はしない、みたいなことができるかというと、そのような器用なことはできないわけである。

 あるいは、永代供養の懇志・お布施の額に見合ったことをそれぞれするかというと、またその金額に応じてどうこうということもできない。

 要は、合同墓に納骨されると、永代供養したからどうこうということはなく、皆同じようにお参りされ、お勤めさせていただくことになるのだろうということである。

 なので、特別に「永代供養」どうこうといわれると違和感が生じるというのは、永代供養したから、しなかったからというところに、なにか変な差があるようなニュアンスが生まれてしまうのではないかというところにもある。

 ◎「永代」(永遠)を保証するのもむずかしいよね、ということもある。

 「それをいっちゃあおしまいよ」といわれるかもしれないが、正直「永代」「永遠」のお勤めを請け負い難いということもある。いつかはおわりがくるし、諸行無常の理(ことわり)を説き続けてきた仏教が、「永代」ってそんなに簡単に保証できるの?というような思いも正直している。

 wikiペディア「永代供養」の項目は割と親切な記述だったりしていると思う。(「…言葉どおりの「永代」ではない。また、霊園の倒産、寺院の廃寺などにより墓が消滅に追い込まれることもあり、この「永代」も保証されるわけではない。」というあたり

 もちろん、現行、西正寺では年忌を区切るということをしていないので、お寺が続く限りお勤めはされるし、お参りされる環境は維持されるように努めなければならないと考えている。(その点は安心されたい)

 ◎ 結局、どういうことかというと

 「永代供養をしたい」といわれる方に対しては、特にその「懇志」「お布施」については、上記の事を踏まえて、いまのところ次のような説明に落ち着くことが多い。

 ・永代供養のお金を収めていただいたからと言って、特別にその方だけにお参りをするような器用なことはできない。納めていただいても、納めていただかなくても、西正寺の合同墓に納骨いただいたら同じように、お参りをさせてもらっている。

 ・じゃあ、なんのためにお金をお納めいただいているかというと、「お寺の護持・維持(ひいてはお墓の維持)」のために充てさせていただいている。 お寺を維持することによって、お墓とお参りを維持することができる。それは、だれか特定の故人のためではなく、納めていただいたみなさんのためになるともいえる。

 ・なので、「だれそれのために特別にお経をあげてください」という依頼にこたえることはできないが、「お寺を護持」していければ、ご縁の故人、ひいてはお墓に収められたほかの皆さんのご縁のお勤めを維持していくことができる。そういう意味でも、「お寺の護持のためのご懇志」ということで、ご理解いただき、納めていただければ、ありがたい。

 というような説明をしている。

 正直どこまで、わかっていただけているのかというと、100%じゃなかろうという感覚もあるが、それでも、うわすべりする「永代供養」という用語だけで事が進んで行くことよりは、このような「説明がさせてもらえる」というだけでも、なにかちがうことがあるんじゃないかと思っている。

 まあ、結局できるかぎり「永代供養」という言葉には、のっかりたくはないのだが、それを説明すると、このような長々としたブログを書いても、まだ説明しきれないというもどかしさや、すっきりしなささが残るということだけは、共感いただけたらうれしいなぁ と思う次第。





割と困る質問:「永代供養ってしてもらえますか?」(その1)

◎墓じまいの流れ

 お寺に合同墓を建ててから数年。
 今年に入って、急激に増えている問い合わせが、「墓じまい」に関することがらである。
 うちくらいのお寺でも、境内墓地で数基がなくなり、市内・市街でも数件、いわゆる「墓じまい」のお勤めを行った。

 今日もお寺にいると、午後から立て続けに2件の来寺・ご相談があった。
 もうそれだけ、お墓が維持されなくなっているということなのだろう。
 そして、その流れの加速度合いはかなり急激にやってきているような感覚を持っている。

(西正寺の合同墓)

 →西正寺ホームページ 合同墓の説明

◎割と困る質問が「永代供養ってしてもらえますか?」。

 それに関連して、よく聞かれるのが、「永代供養ってしてもらえますか?」というものだ。しかし、この問い、いつも「なんて答えたらいいんだろう?」って悩ましかったりするのだ。

 なので、「はい!永代供養しますよ!」なんて、ハッキリ答えたことは、1度もない。(できない) 聞かれるたびに、「うーん、えーっと・・・」と、ごもごもし始めてしまう。

 理由はシンプルで、「永代供養してもらえますか?」という質問が、何を意味しているのかが、明確ではないからである。あるいは、その言葉を使われるたびに、先方が意図されていること、あるいはこちらが意図していることが、すれちがっていってしまいそうな気がしている。

◎大部分が「墓じまい」/「改葬」だったりする。

 正直、多くのケースがいわゆる「墓じまい」、あるいはそもそもお墓をもたないという選択をされて合同墓等に収めたいというご希望だということは承知している。そうわかっているけれども、それをどうも、「永代供養」というようには呼び難いのだ。

 「永代供養」といわれてしまうと、上に意図がすれちがっていってしまいそうだと書いたのは、この語が、はなはだ多義的である、ということが第一の理由でもある。
 例えば、次のようなケースがざっと想定される。

 (1)いわゆる「墓じまい」のケース

 これまで護持されてきたお墓を維持できなくなり、お墓を撤去し、お骨の埋葬場所をあらためたいというケース。その場合に、お骨の引き受け先になってもらえますか?的なニュアンスで「永代供養してもらえますか?」と聞かれることがある。

 これは、「墓じまいするので、(西正寺の場合)合同墓に納骨できますか?」というお問い合わせになる。

 (2)お墓を持たないご家庭の納骨のケース  

 そもそも、お墓を持たない、あるいは諸事情から持てないために、納骨先を探されているというケースもある。こちらも、お骨の引き受け先になってもらえますか?的なニュアンスの「永代供養してもらえますか?」と尋ねられるケースである。

 この場合も、「故人のお骨を(西正寺の場合)合同墓に納骨できますか?」というお問い合わせになる。

 (3)お墓・お骨とは関係なく「お勤めしてほしい」というケース

 上記2者に比べると少数派であるが、お墓やお骨はなく、故人のためにお参り・お勤めをご相談されるというケースもある。

 お骨についての物理的な問題が付随する相談ではなく、お勤めの相談ということになる。

 この場合は、何というべきかは、ケースバイケースであるが、「永代供養してもらえますか?」だとやはり、改めてそのご意図を確認する必要がある。

 ちなみに、西正寺の場合は、「永代経法要」が、春・秋にあり、よく知ってくださっている御門徒であれば、「(故人のために)永代経(あるいは、永代経懇志を)をあげたい」という形でご相談されることが多いケースでもある。

 ちなみに付け加えるならば、このケースの場合、なにか「困りごと」があった場合を想定するならば、他のものも同様であるが、「跡継ぎ」などが不在になり、今後、故人の(あるいは自分自身の)ためのお参りなどはどのようにしたらいいのか?というご相談が付随する場合がある。

 この場合も、こちらがシンプルに「永代供養しますよ」という一言で片づけてはいけないように考えていることも、上記の用語を使うことに躊躇する理由の一つでもある。

まあ、このように「永代供養してもらえますか?」と聞かれても、その裏側にあるニーズというか、お困りごとというか、意図されているものは、いくつか想定されてしまい、また聞いていくと細かな諸事情等もあって、「はい、永代供養しますよ!」とシンプルに答えづらかったりする。

 答えづらい理由はこのほかにもある。(その2へ続く

割と困る質問:「永代供養ってしてもらえますか?」(その2)

2023年10月28日土曜日

「宗教社会学の会」に参加してきた件(2023年10月28日)

本日の午後はこちらに参加してきました。

宗教社会学の会(http://blog.livedoor.jp/socioreligious/archives/52018995.html
初めて参加する会。相愛大学の会でご挨拶させていただいた三木英先生から、フェイスブックの私のある投稿にコメントいただき、やりとりをしたところから、お誘いをいただくことになり、初参加。

今回の発表は以下の方々、以下の内容。

研究報告1 13時~14時45分(質疑応答含む)
加藤希理子(佛教大学非常勤講師)「ナチス政権下における神学者の動向――バルト、ボンヘッファーを中心にーー」

研究報告2 15時~16時45分(質疑応答含む)
峯岸優太(大阪大学大学院)「日本において改宗ムスリムであるということ~外国人ムスリムとの関係性に注目して」


正直、いずれのテーマもほぼほぼ全く触れたことのないものだった。しかし、そうでありながら、とても興味深い発表で、いろいろな気づきや学ばせていただけることがあった。それだけ、しっかりとまとめられたレベルの高い発表を聞かせていただける機会だったように思う。本当に勉強になった。


 1つめの加藤先生の発表は、ナチス政権下における福音主義教会(プロテスタント)の神学者たちがどのような立場をとっていたかという研究発表。
 ナチス下において、ナチスの手先として活動したような「ドイツ的キリスト教者」、そこに理論づけをおこなったような「民族性の神学者」のほか、ゴーガルデン(ナチスに同調、のちに批判)、ブルンナー(ナチスの正当化につながりうる思想的根拠を提供したと批判される)、そして今回のテーマであるカール・バルト、D.ボンヘッファーは、ナチスに対して徹底的に批判し、抵抗を貫いたとされる。

 バルトがナチス政権下でどのような対応をとっていたのか。単に神学的立場・議論だけではなく、当時の社会状況と関わらせて知ることでよりその主張や立場の意味が明確に知られるように思われた。

 キリスト教神学、それもナチス政権下においてどのような思想が展開され、神学的議論が行われていたのかというのは、まったく関心を向けたこともなかったテーマだったので、ついていけるかということ自体から心配だったが、とても興味深い問題をご提示いただいた発表だった。

 

 2つ目の峯岸さんの発表は、日本においてムスリムに改宗した、主に日本人を対象としたもの。日本における現状のイスラム信仰を踏まえつつ、さらに日本人改宗ムスリムの方たちにインタビュー取材を行った具体的な事象に基づいた発表。
 移民宗教としてのイスラム教が日本においてどのような展開を遂げているのかという展望を描こうというものと受け止めた。

 修士論文の中間発表的なものということだったが、非常に濃密な研究と調査を踏まえてもので、非常に濃厚な論文として仕上がるのではないかと思われた。

 

 うまくスケジュール的に都合がついて参加させていただくことができたが、初めて参加した私も温かく迎えてくださるような雰囲気と、発表後に長時間にわたる質疑や意見交換が専門性あふれるものであって、身を置いているだけで、大変勉強させていただいた研究会だった。
 最後になりますが、迎えてくださり、ご教示くださった研究会のみなさまに御礼申し上げたいと思います。ありがとうございました。


2023年10月27日金曜日

パレスチナ問題に関する情報(個人的メモを含む)

現在、認定NPO法人 アーユス仏教国際協力ネットワーク(https://ngo-ayus.jp)という団体の理事をさせていただいている。 

先日来、毎日のように報道されてもいる パレスチナ・ガザ地区への空爆、戦闘についてもいくつかの情報をいただき、国際協力を行うNGOが連名で出した声明にも、アーユスとして賛同を表明するなどしてきたところである(https://ngo-ayus.jp/column/middle_east/2023/10/20231013)。


しかしながら、明瞭にパレスチナ問題について、人に説明できるまでに私が理解できているかというと、まったくもってそのようなレベルには至っていない。しかしながら、アーユスで声明を出すということで、事務局からの草案を拝見するのに並行してあらためて情報を集めたり、見直したりしている。

今回、そのなかで刺激・参考になったものをいくつかこちらにもまとめて置くことにした。


◎AAR(アメリカ宗教学会)における声明(花園大学 師茂樹先生のブログに掲載)
「和訳:イスラエルとパレスチナの危機に関するアメリカ宗教学会(AAR)の声明」
https://moroshigeki.hateblo.jp/entry/2023/10/25/214753

 ⇒ 言葉遣いや表現から、しっかりと背景を踏まえて、何が問題か、何を批判しているのかということについて、しっかりと焦点化されている印象を受けた声明。
あらためて、この声明から何が問題とされるべきかを考えさせられた。


◎認定NPO法人 パレスチナ子どものキャンペーン
 「パレスチナ問題」 https://ccp-ngo.jp/palestine
 ⇒ とても分かりやすく、テキストベースでパレスチナ問題の経緯・背景について情報がまとまっています。上のAARの声明と合わせて読むことで、理解が進んだという感覚を得ることができた。


◎認定NPO法人 DEAR
 「イスラエル・パレスチナにおける武力行為への声明・寄付・教材情報(随時更新)」
 https://www.dear.or.jp/infomation/12756
 → イスラエル・パレスチナにおける武力行為への各団体の声明や、寄付の呼びかけ等の情報がまとめられています。


怖い話を分析する

 特定の界隈で大きな反響をいただいた、「怖い話」の件。
 https://ryogo1977.blogspot.com/2023/10/blog-post.html

この話の何が怖いのか、何がおかしいのかわからないという声があったので、こちらのフィクションと思しき話のエライ人の何が問題かということについて、私見を述べておきたい。

 要は以下の2点の問題があると思っている。


(1)質問されたことがわかっていない。

 そもそも、問いに対して適切に応答することができていない。もしかすると、何が問われているのかも理解できていなかったのかもしれない。これは、公式な場における答弁能力がないことを意味している。二度にわたって、聞かれたことに対してまっとうに応答できないというのは、相当なものである。
 あるいは、この対応が「敢えて」のものという可能性も考えてみたが、それでも、はぐらかしや、ズラしを意図したものと受け取っても、それが成功しているとは言えない。あまりにも拙すぎる。ということで、そもそもやり取りがヤバイのである。


 (2)危機管理能力の欠如が露呈している。

 もし問題があった場合、何かあった場合を想定しておくことはもちろん、そうなったときに適切な対応がとれるかということは、危機管理・リスクマネジメントとして絶対的に必要なことと理解している。(基礎以前の問題だと思っている)

 ところが、この応答ではそれがまったくなされていない。
 「問題があることはありえない」ということは、危機管理やリスクの想定が全く行われていないことを意味している。
 また、それが起こった場合も「それが起きてから考える」というは、もはや常識が欠如しているといわれても仕方がない。

 こういう人がエライ立場にたって、運営や経営にあたるという状況は、すでにその時点で、平時においてさえ災害レベルの被害をもたらすことが目に見えている。そういう意味で、とても怖い話だと思う。

 要は資質の欠如である。


2023年10月25日水曜日

今日あった怖い話。

(以下のお話は、多分フィクションです。フィクションじゃないかな。フィクションだと思う…)


 ある会に出席して、質問をしました。

・私みたいな人
「この施策が、規則に従って決定されたという説明はわかりました。しかし、もし、手続き上、規則に反するような瑕疵があった場合は、どのようにすべきと考えますか?」

・エライ人
「手続きに問題はありません。」

・私みたいな人
「(えっ?)いや、あるかないかを聞いているのではなく、もしあったら、どうされますか?と聞いています」

・エライ人
「手続きに問題がないので大丈夫です」

・私みたいな人
「(ええっー!)いや、あるかないかではなくて、あったらどうするか聞いています。教えてください」

・エライ人
「問題があったら、それから考えます」

・私みたいな人
「(・・・・・・)いや、それはいかんでしょ。手続きに問題があっても、それを無視して続けるかもしれないってことですか? 手続き上問題があることを、私たちはしないといけないのですか?」

・エライ人
「(沈黙)」 

(マイクが実務者にわたる)

・実務的な人
「手続き上問題があれば、認証から見直さないといけないということになります」

・私みたいな人
「(一応のホッ…)」


こんなことがあったら、怖いなあと思いながら、
本当にあったら、腹立つだろうなぁと振り返りながら、立腹しています。


「宗教的な救い」とはなにか?

・先週は宮崎先生と対談でした  先週の土曜日 4月13日の午後は、相愛大学の企画で、宮崎哲弥先生の講義にゲストスピーカー・対談相手として、登壇させていただく機会を得ました。  以前このブログでもご案内していたこちらです。  【登壇情報】宮崎哲弥先生と対談します。 https://...