2024年4月15日月曜日

「宗教的な救い」とはなにか?

・先週は宮崎先生と対談でした

 先週の土曜日 4月13日の午後は、相愛大学の企画で、宮崎哲弥先生の講義にゲストスピーカー・対談相手として、登壇させていただく機会を得ました。

 以前このブログでもご案内していたこちらです。 

【登壇情報】宮崎哲弥先生と対談します。
https://ryogo1977.blogspot.com/2024/04/blog-post_4.html

 こちらの講義は、相愛大学の講義として学生の単位となりつつ、また一般にも有料で公開されているものとのことでした。 宮崎先生の講義を受けに来られた一般の方の他に、相愛大学の学生さん、関係者・先生方が出席されていました。私のブログの投稿で、興味を持ってくださった友人・私の講座の受講生の方も何名かお越しくださっていました。(ありがとうございました)

・講座、対談の内容は…

 宮崎先生の仏教理解や講義スタイルの独自性に、いろいろと考えさせられるところもありました。 しかしながら、登壇させていただいた後半部分は、宗教と社会の関係性から、宗教者の社会活動というような部分に話題が広がっていきました。
 お寺の活動、臨床宗教師や災害支援、ビハーラ活動、貧困支援など。チャプレンの活動から、軍隊へのコミットや、教誨活動等についても話題は及びました。
 いろいろと多岐にわたりましたが、聞かれたことにこたえつつ、話題を広げていくという時間で、大変楽しく過ごさせてもらいました。(受講された学生さんたちの感想も、なかなか良かったようで、うれしく頂戴しました)

・教誨活動にふれて

 話題が「教誨活動」に及んだとき、「宗教的な救い」とはなにかということに触れる場面がありました。 宮崎先生の講義でも「救い」ということに注目されている発言があったので、そこに触れていく必要を感じたからです。
 この「教誨活動」とは、教誨師という、刑務所などで活動する宗教者の活動のことで、浄土真宗の僧侶も多くこの活動にかかっています。先年、大杉連さん主演で「教誨師」という映画も公開されました。

 Wikipediaのリンクを参考に置いておきます。

 教誨師の活動は、刑務所に足を運び、受刑者に宗教的かかわりをすることをその勤めとしています。一番シリアスな場面では、「死刑」になる直前に、その受刑者の要望によっては面会し、かかわりを持つことがあります。
 
 そのような話に触れたときに、以前、お寺の法座でお世話になった著名な布教使の先生が、その教誨活動に触れながら、宗教的な救いについてお話しされていたことを思い出しました。

・宗教的な救いについて

 その宗教的な救いについて、端的に言えば次のようなことをおっしゃっていました。
 
 真に宗教的な救い(※)というのは、次の瞬間に「死」が来たとしても成立するような「救い」でなければ、それは本当の宗教的な救いとはいえないのだ。

 と。このようなことを、若かりし10代前半、お寺で座っているときに聞きました。のちに、私は、仏教、真宗を学んでいくのですが、宗教とはなにか、救いとは何かを考える際に、根底の問いとして、この言葉や、テーゼがあり続けていたような思いがしています。
 つまり、死刑を目の前にした死刑の受刑者であっても成立する「救い」がそこにあるか、否か。それが成立しないような救いであれば、それは本当に、「宗教的な救い」といえるか?そんな問いがそこにあるように思います。

 ※ 真に宗教的な救いに(※)を付けましたが、少し注釈も必要だろうと思っています。というのは、広義に「宗教」を考えた場合、すべてのこれに当てはまるわけではないということも、知見として知っています。 ただ、自分自身の問題として、あるいは浄土真宗という信仰のたちばとして、自分自身にとって(つまり浄土真宗という思想・仏教にとって)「救い」を問題にするとき、本当の救いとは何かと考えるときには、この問いは有効であろうということは、いえるのだろうと考えています。

 この問いが、「教誨」の文脈でてくるのは、まさに次の瞬間に「死刑」となるような、罪を抱え、命のおわりがやってくる人に対して、(あるいはそれは自分自身がそうだったとしても)、この教え、思想に救いはあるのかどうかが問われるのだろうと思います。

 

・伝える側、聞く側として

 そんなものあるのか?というように思われるかもしれません。あるいは、「死刑」やそれに類するような罪や悪行を行った人は、そもそも救われないのでは?という立場や考えもあるかもしれません。
 しかし、浄土真宗という思想が説いてきた救いは、そのような悪人であっても(いや、そのような悪人こそを)救いの対象であるととき、死ぬ瞬間まで、罪や迷いのなかにあったとしても「救い」は成立する、ということを説いてきた仏教でもあるのです。

 だからこそ、浄土真宗の救いとはなにか、それは(自分自身にとって)真の宗教的救いとは何か、ということを考えていくときに、そのような極限状態においても、成立するような救いであるのかどうか、そのような問いをもって語りえているか、あるいはそのような問いに耐えうるような聞き方や向き合い方がされているか、というのは、ある種宗教的な問いや語りを聞くときには必要なことであるのではないかとも思うのです。

 ちょうど先日、そのようなことについて、思いもかけずに触れる機会があったので、書き出してみました。

 つれづれなるままに。



 


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