2018年10月7日日曜日

18/10/06 尼ぱ。



 10月6日 その2

 レインボーフェスタに立ち寄ったあと、尼崎で行われている「尼ぱ」関連のイベントがあるポイントを数カ所めぐる。

 ホームセンターで塗料を入れる缶(3リットル)を調達し、まずは、武庫之荘のハワイアンカフェ・パイナワーフへ。

「尼ぱ」メンバーで調合した青色、「尼ぱブルー」を入手。

 パイナワーフでは、ある芸術家の作品の展示とレゲエの演奏が行われていた。








 パイナワーフを後にして、次は「尼崎傾奇者集落」へ。


 集落の人たちとゆるりとおしゃべりをして過ごす。


 この「尼ぱ」は、半年ほど前から、なかなか個性的なメンバーが、たくらみをすすめて準備をしてきたイベント。
 しかし、なかなか「説明」することも、ましてや「理解」してもらうことも難しい枠組みと、仕掛けで今回は実施されている。

 どこかで、なにかが起こるのではなく、
 尼崎のあちこちで、「文化」や「合い言葉」をつくることを目的としているような感じで取り組みがすすんでいるともいえるだろうか。

 その一つが、この「尼ぱブルー」。
 尼崎の誕生日(市制記念日)を市民として勝手に祝おう、その象徴として、自分たちの「色」を作ろう。そんな気概が込められた「青」。

 知っている人しか知らないし、知らない人には、もしかすると理解や、共感すら得られないのかもしれない。しかし、その「理解しがたいこと」「共感しがたいこと」を十分に理解した上で、あえてそのハードルを越えていくことを目標としているような気概がこのたくらみにはあるような気もしている。

 とりあえず、いまこの段階(10/7の夜)で、 6日・7日と両日各所で行われた「尼ぱ」は、一段落したのだろうけれど、なかなかおもしろい企みの一歩目が行われたのではないかと思っている。
 もちろんいろいろと課題やあれこれはあるけれど。






18/10/06 レインボーフェスタに立ち寄る

 2018年10月6日(土)
午前中のお参りを終えた後、午後の予定を確認していると、ちょうどレインボーフェスタ当日であったことを知る。

レインボーフェスタ(http://www.rainbowfesta.org/)とは、「性の多様性を訴えるイベント」あるいは「セクシュアル・マイノリティの存在や権利を訴えるイベント」ともいえるでしょうか。

毎年この時期に開催されるのですが、ほとんど出講や、他の行事、お寺のお仕事と重なっていて、参加できずにいたのだが、今年はなんとかはせ参じる事ができた。




会場に到着すると、さっそく目にはいったのが、龍谷大学のブース。
龍大では、今年は、レインボーフェスタにブース出店して、
学内のアンケートの結果や、作成した冊子の紹介等を行っていました。

中心になっていたのは、宗教部のA課長と、にじりゅうの学生さんたち。


となりのブースには、大阪大学さんがブースをだしていて、
久しぶりにH先生にお目にかかってご挨拶ができる。

会場内をうろうろとしていると、何人かの友人・知人と顔を合わせ挨拶をする。
意外と知人と出くわすことが多い。

帰りがけに
R大学のM先生が学生さんたちと一緒にいらっしゃるところに出くわし、ご挨拶すると、
思っても見ないほど光栄なご紹介をいただけた。「M先生とR大の学生さんの活動やとりくみをエンパワーしている」云々という。本人にその自覚はないが、結果としてそのようなことになっていたとするのならば、とてもうれしい。


 初めてレインボーフェスタに参加したわけだけれど、実際に足を運んで気がつくこと、感じることはやはりあるものだった。

 一つは、「フェス」が、当事者や、テーマに関心のある人に足を運ばせ、コミュニティやネットワークを作る大きな力となっていること。実際に、これまでの緩やかなつながりが、再会や紹介を通じてまたひとつ強められたような気がした。

 もう一つは、イベント一般がもつテーマ。
 今回参加して、フェス全体がある種の「内輪感」というものに、まとわれているようにも感じられた。ある意味イベントの性質上、それは当然のことかもしれない。「去年もいましたよね?」「今年は・・・」という会話をよく耳にしたが、それはそれだけ継続的に関わり、その中で関係性が作り続けられているということでもあるだろう。ある意味で自分たちの場を、自分たちの力で作り担保しているからこそ、そのような場や、関係性が作り上げられてくるのだろうと思われた。

 しかし、一方で、そうであるからこそ参加者が「異質な他者」に出あう機会は、もしかすると、そう多くはなかったのかもしれない。そういう、異質な他者が多くくる必要があるのかどうかは、会の主催者や、作り手の思いに委ねられるものであるとおもう。一参加者がどうこういうスジの話ではない。

 しかし、自分のテーマと関連させながら、「ここにいない人たちとどうつながるか、ここにいないにもこの場に関わってもらうためにはどうしたらいいのだろうか」という行事自体を拡がるためには?というイメージを膨らませながら、しかし、それと同時にもう一方で「そもそもそれ(外部とつながること)が必ずしも必要なことなのだろうか?」(もしかしたら内輪で完結すること自体に意味があるし、それでもいいのではないか)等、あれこれ考えながら帰途についた。
 
 自分としては、「イベント自体がある種の関係者の内輪感をもって行われる意味」を考えてみないといけないのではないかと思った。

「宗教的な救い」とはなにか?

・先週は宮崎先生と対談でした  先週の土曜日 4月13日の午後は、相愛大学の企画で、宮崎哲弥先生の講義にゲストスピーカー・対談相手として、登壇させていただく機会を得ました。  以前このブログでもご案内していたこちらです。  【登壇情報】宮崎哲弥先生と対談します。 https://...