2017年10月24日火曜日

(参加)公開シンポジウム「仏教とキリスト教の対話──共通善を求めて」

10/23(月)16:40~18:40 同志社大学の公開シンポジウムを聴講しました。
http://ryoshin.doshisha.ac.jp/jp/activity/20171023/

公開シンポジウム「仏教とキリスト教の対話──共通善を求めて」
日時: 2017年10月23日(月)16:40 - 18:40
場所:同志社大学 今出川キャンパス 同志社礼拝堂
講師 大谷光真(浄土真宗本願寺派・前門主)
コメンテーター 小原克博(同志社大学 神学部 教授、良心学研究センター長)

浄土真宗本願寺派の前門さまの講演を、同志社大学の礼拝堂(教会)で拝聴するという貴重な機会。また、来月開催のシンポジウムにご登壇いただく先生もご所属の研究センターということもあり、「コレハ行カネバ」と、拝聴に伺った次第。

 同志社大学設立以来、浄土真宗のご門主・前門さまが同志社大学の礼拝堂でお話になるというのは初めてのことで、ご挨拶にたたれた先生も「歴史的なこと」とおっしゃっていたのが印象的。

 シンポジウムのなかで、江戸時代の仏教者による「廃耶論」(キリスト教批判)や、新島襄の同志社設立に対する仏教界の猛反発など、仏教・キリスト教の対立(というよりも仏教側、体制側からの抑圧というべきか)の歴史について触れられていた。それを聞くと、過去の時代においては想像すらできなかった状況(浄土真宗の門主という立場ある僧侶が、同志社の教会の真ん中で講演をするという状況)が、目の前にあることをあらためて考え、感じさせられるものがある。

 テーマは「共通善」ということだったが、宗教間対話のような、異なる文化、価値、信仰を有した人といかに対話を成立させ、共通の「善」や「価値」を構築するかということが問われていたとでもいえるだろうか。あるいは、そもそも「対話」を成立させ、交流をする、ということ自体が、一種のこの時代の「善」とか「共通認識」の方向性ともいえるかも知れない等とも思う。

 これはコメンテーターであった小原先生の発言のなかにあったものだが、「時代に生きるものとしての共通善を探す」のだとおっしゃりつつも、一方で「国民道徳」的なものに対して批判的なまなざしを持たなければならないという指摘もあった。
 とするならば、共通善を探すとしつつも、宗教的な役割、価値は、それら世間的な規範を模索する一方で、それらからまた一定の距離を取りつつ、批判や疑問を呈するような関係性であることが求められるということだろうか。

 あと「善」ということについてしばしば考えることだが、仏教の場合(今日のレジュメにも記載されていたが)積極的になにか善行を語る場合もあれば、「十善」のように、悪ではないこと、悪をなさないことを「善」とする場合もある。(ちなみに、仏教の十善とは、「不殺生」「不偸盗」「不邪淫」「不妄語」「不綺語」「不両舌」「不悪口」「不貪欲」「不瞋恚」「不邪見」)
 つまり、積極的にある種の「善」を語るのではなく、悪の否定という「これをしない」というように否定的な形でかたる(あるいは、そうとしか語りえない)ということに、一つの示唆があるのではないかと考えたりしている。 

 すこし、飛躍するのだが、今日、人間の行う「善」や「正義」の限界、あるいはそれらが持つ弊害や暴力性、あるいは「規範」というものがもつ抑圧性や、暴力性を鑑みるとき、正しさとはむしろ、それを握りしめるのではなく、そこに対して、疑問や相対化のまなざしをつねに投げ掛けるものこそ「正義」とか「善」の行為なのではないかと思われるのだがどうだろうか。

 その疑問や相対化のまなざしをもつことを善と呼ぶことを許されるのであれば、またそれは、先に提示されていた「国民道徳」への無批判な追従に対するブレーキにもなり得るし、対話や自己内省を促す「宗教的なはたらきがそこにある」ということもまた考えられるようにも思うのだが、どうだろうか。


以下情報転載。
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公開シンポジウム「仏教とキリスト教の対話──共通善を求めて」
日時: 2017年10月23日(月)16:40 - 18:40
場所:同志社大学 今出川キャンパス 同志社礼拝堂
講師 大谷光真(浄土真宗本願寺派・前門主)
コメンテーター 小原克博(同志社大学 神学部 教授、良心学研究センター長)
趣旨
仏教をはじめとする日本宗教とキリスト教がしばしば対立的な関係にあった戦前と比べれば、今日、宗教間の相互理解や対話が進んだだけでなく、それが積極的に求められる時代となりました。現代社会が抱える多様な問題の解決のために、異なる宗教伝統から知恵を出し合い、協力することの意義を、このシンポジウムでは模索します。そのために、様々な宗教間対話を経験してこられた大谷光真氏を講師として招き、仏教とキリスト教の対話がもたらす地平を、来場者と共に展望したいと思います。

※入場無料、事前申し込み不要

良心学研究センターは、現代世界における「良心」を考察し、その応用可能性・実践可能性を探求することを通じて、学際的な研究領域として「良心学」を構築し、さらにその成果を国内外に発信し、新たな学術コミュニティを形成することを目的としています。

2017年10月22日日曜日

10/21(土)オトナテラコヤ100回目@西正寺

 10月21日、西正寺で、「オトナテラコヤ vol. 100 あそびを通じて日常を拡張する〜あそびとまなびの関係性〜」が開催された。
 主に阪急塚口駅前のさんさんタウン3番館6階のamareで開催されている街の学びのイベント。僕も4回ほど仏教をテーマに出講したり、以前も1度西正寺での開催を引き受けたりしたことがある。

 今回は、100回記念ということで、スピーカーも豪華に4名。
 ・上芝 英司(うえしば えいじ)さん/PEACOCK64代表。
 ・梅山 晃佑(うめやま こうすけ)さん/2畳大学学長
 ・笹尾 和宏(ささお かずひろ)さん/「水辺のまち再生プロジェクト」参加。
 ・高津 祐次(たかつ ゆうじ)さん/今井町じゃず実行委員会プロデューサー他
コーディネーターは、藤本 遼(ふじもと りょう)さん/尼崎ENGAWA化計画/場を編む人

 


 それぞれの活動を7分ほどで紹介してもらったあと、クロストーク。
 テーマは「あそび」と「まなび」。
 それぞれの活動は面白く、刺激的なものばかり。きっと参加者のみなさんもたくさんの刺激をもらったのではないかと思う。
 
 それぞれが、楽しく、遊ぶ、ということをしながら、まちや学びの捉え直しをされているように思った。

 ・名づけ、あるいは仕掛けによって「場所」や「もの」の見方を変える。
  →面白くする、価値の再解釈をする、魅力的にする。
 ・関わり方、仕掛けによって、「見捨てられていたもの」「無価値と思われていたもの」に価値や、遊び方を発生させる。
 ・人との関わり方、まちとの関わりによって、人を巻き込み、なにかを仕掛けていく。
  「こと」を起こしていく。
 ・ただ「やりたいこと」を、純粋にたのしんで遊んでいく。
 ・与えられた枠組みや「遊び方」ではなく、自分が自分で楽しいものを見いだし、作り、「あそぶ」ことを大事にする。

 といったところか。

 個人的な思いだが「遊び」とは、その行為自体が「目的」、「楽しみ」となるようなものだと考えている。 なにかのために「遊ぶ」というのは、すでに遊びではなく、「作業」や「仕事」になってしまっている。何かのためにするのではなく、それをすること自体が楽しくあるものだと思っている。

 今回、スピーカーでこられた人たちは、既存のあり方や枠組みをいったん解体して、て、見方を変えたり、価値を与え直すような活動をされているわけだけれど、それは、それぞれ自身のなかにある価値とか、生き方と深くコミットしたところから湧き出ている面白さだったのではないかなぁとふり返っている。



 今回、お寺には50名ほどの出演者・参加者が来て下さった。


 たくさんのゲスト・参加者と知り合いになれた。また、初めてお寺にきました、お寺が近くなりました、という声も直接いただけたことも、うれしかった。。


 会が終わった後、掃除機をかけて、イスをならべなおした。
 賑やかな後、また本堂が「礼拝」の場になる。これを一晩寝かせて、また明日にいつも通りの本堂になっている。そういうあり方を保つのも、僧侶としての仕事だなぁとも思う夜だった。



2017年10月16日月曜日

New踊り念仏探究会(参加振り返り)

昨日・10/15(日)の午後は、「New踊り念仏探究会」(https://www.facebook.com/events/1951988201682493/)なるイベントに参加してきた。

 午前中はお寺の法務、その後すこし書き物をした後、新今宮の上記の探究会の会場に移動し、参加した。
 参加の動機は、

・主催者の秋田さんが知り合いであり、ご所属の応典院で展開されている諸行事が大変興味深いことをされており、またお会いしたいという思いがあったこと。
・「踊り念仏」という念仏と、念仏信仰、浄土信仰の身体性ここにあり、というようなアクティビティに関心がむくむくと湧いたこと。
・スケジュール的に参加可能だったこと。

といったところだろうか。

 15:00に数分遅刻して、会場のカフェ EARTHに到着。
 ちょうど自己紹介を回しているところから参加。
 参加者は7名ほどか。遅れて2名ほどいらっしゃり最終的には9名。

 メンバ-、浄土宗僧侶、浄土真宗僧侶、時宗僧侶が1名ずつ、他さまざまなモチベーションで参加されてていたが、こういう会に参加しようというだけあり、それぞれ個性的なモチベーションをお持ちのようだった。

 自己紹介の後は、
 ・浄土宗の念仏(5分程)
 ・浄土真宗の念仏について(私から)
 ・時宗の念仏について
 とそれぞれの念仏について、実践、説明があったあと、

 ・主催者の一人、ダンサーのsさんから、体と声を使ったワーク。
 (個人的には、「ホ」と声をだすワークの同調性がとても印象的だった 備忘)
 ・再び、「浄土宗の念仏」(5分)
 ・その後また、Sさんにバトンがわたり、「自由な場所、自由な態勢、とにかく自由に念仏をしてみる」

 ・終了:感想・ふり返り

 というプログラムだった。

 個人的な感想としては、とても刺激的な「実験室」という印象だった。
 身体的なワークをすることで、「念仏を称える」という行為と、身体的な準備との関わり、感覚的なものへの影響を明らかに感じることができた。
 単純にいうと、身体的な準備をして、声を意識して称えることで、「気持ちよく」感じ、念仏に対して集中しているというか、溶け込んでいくような感覚をハッキリと感じることができた。(これはある意味当たり前のことかもしれないが)
 
 参加したモチベーションとも関わるが、浄土真宗の念仏は、特に行的な面やその身体性をあまり(というかほとんど)語ることがない。そのため、敢えて求められることが少ない「念仏と身体性」を感じる場に身を投じてみたわけだが、そちらの方面から念仏を考えるキッカケをもらえたように思えた。

 また、「自由に念仏する」という定型からあえて外される、という体験も大変面白かった。多くの場合、念仏は「念仏すべき時」(例えば、読経・儀礼の場面)に念仏するということが当たり前のようになされるが、そういうお約束を解体して、いわば「正解のない場」に放り込まれること、しかも「当たり前のことはやめてね」という場に置かれることの戸惑いの中で念仏する、という経験は、自分のなかにいったいなにがあるのか、というのをある意味真摯に見つめるような時間でもあった。

 ちょうど、先日読み始めていたルポの文章にも通じるようなところを感じた。
 震災の現場で、なにもない、津波でさらわれ、数多くの遺体に直面して、「祈り」「儀礼」を行った宗教者についての言及だ。

(石井光太『祈りの現場―悲劇と向き合う宗教者との対話』6~8頁抄出、サンガ刊、2015年。)

 宗教者たちの姿は覚悟をもって現場に立っているように見えたが、心の底では不安と葛藤に揺れ動いていたのだ。
 ただ冷静に考えてみれば、それが一般的な宗教者の偽らざる心情なのかもしれない。
 誤解を承知で言えば、普段斎場で行われる葬儀で手を合わせているときは、祈りの持つ意味や力について考える必要はそこまでない。葬儀社が準備したプログラムにそってお経を読み、あるいは讃美歌をうたえば、良くも悪くも済んでしまう。
 しかし、町が大津波に襲われて目の前で人が流されるのをなす術もなく傍観せざるを得なくなったり、・・・(中略)僧侶や神父としての無力感に打ちひしがれずにはいられない。(中略)悲しみの現場にある宗教者の多くは、多かれ少なかれ一度自らの信仰心を疑うのが常だ。そして、神仏のあり方や祈りの意味を考え直し、信仰を一からつくり上げなければならなくなる。
 なぜか。
 それは宗教者が一人ひとりの気持ちに応じた祈りをしなければならなくなるからだ。その人だけ悲しみ、その人だけの懊悩、その人だけの絶望。それにすべてちがった形で応えていかなければならないのである。つまり、決まりきった形を捨て、その人にとっての祈りをつくり出すことが求められるのだ。(中略)
 だが、悲しみの現場にあって、宗教者は苦しみながら悩みながら一つひとつの異なった祈りをつくっていくものなのである。


 信仰を疑う、あるいは信仰を一から作り上げるというところにもしかすると違和感を感じるかも知れない。(私自身もこの表現を素直には受け入れられないでいる)しかし、正解がない場に放り出され、自身の行為の不確かさを感じつつも、それでも一歩を踏み出さなければいけない場におかれる。その歩み、踏み出す勇気が、「作られた儀礼」「形ばかりの儀礼」を越えていくものであろうという趣旨には共感している。
 
 もちろん、震災や、被災地などの深刻さは、ワークでは比べられようもない。
 しかし、言いたいことは、決められた形に安住するのではなく、「正解のない場」に自身の身を置いてみて、なにをしても「安定しない」、不安定な中で何かをせざるを得ないという経験は、自身が当たり前にしていたことへの問い返しを必然ともたらすような思いがした。

 もちろん、今回の「実験室」でだされたものが正解にはなり得ないと思う。
 ただ、さまざまな気づきや、問いをもたらすものであったということを感じつつ、
また、3時間強の時間がとても早くすぎていったことは、とても楽しかったことを示してくれているように思う。


自動代替テキストはありません。


 

銭湯の女将さんの矜恃か性(さが)か。

昨日も書いたおふろバーのことで、もう一つ。
 ・おふろバー vol.07 https://www.facebook.com/events/131123897514836/
 ・昨日の記事 http://ryogo1977.blogspot.jp/2017/10/1013vol07.html

 実は、昨日書き忘れて、書いた後に、あ、これもあったと思い出したこと。

 蓬莱湯銭湯の女将さん、稲さんはとても個性的な方ですが、銭湯の女将としてハラの据わった方でもあると思っています。その稲さんの先日の蓬莱湯でのふるまいです。
 お客さんがくると、まず「お風呂入(はい)り」、「まず、お風呂入る?」、「まあ、お風呂はいっていき」と、受付を済ませると、入浴を勧めるのです。 常連のお客さんにも、おふろバーの参加者にも。
 どのタイミングでも、まず「入浴」を勧めていました。イベント開始直前や、すこし遅れて入ってきた人にも勧めていました。ですから、イベント開始の号令が、なかなか発せられません。開始時間に、お風呂に入っていってしまった方もいました(笑)。
 イベント進行の藤本氏が、全員そろってイベント開始の時機を見きわめがたくて、苦笑いする一コマも。

 イベント参加者全員そろってその場にいて、ということでは、なかなかそれをまとまらせない稲さんの行動でしたが、これはこれでとても興味深く思っている自分もいました。 
 稲さんに、こう言わせるものは、なんだろうかと。

答えは稲さんの中にあるので、聞いてみたいと思うのですが、僕が興味深く思うのは、その稲さんの「ふるまい」のなかに、自身のお風呂に対する自信・誇り(プライド)、とか、入浴するということに対する意味や確信のようなものを感じました。(勝手に感じました)あるいは、カリー寺のなかで語られていたような、まずは「お風呂に入ることで、肩書きを下ろす」「リラックスする」ということから、始まるものがあるというような思いもあるのかなと思ったりしました。

 お風呂に入ってもらうことの「誇り」「意味」「責任」(うまくいいあらわせているような気もしませんが)そんなものが、「まずはお風呂に」という入浴の勧めに、あるのではないか(御本人はどうおもわれているのかわかりませんが)なんか、そのようなものの表出をそこに見たような思いがしていました。

 お坊さんに引き寄せることは、また恐縮ですが、お寺をあずかる僧侶は、なによりも本堂のご本尊にお参りしてもらうことを喜びます。それが、お賽銭泥棒だったとしてもそのひとが「お参りに来た」といわれたら「ようお参りです」と挨拶したという話も聞いたことがあります。
 
 幼いころ、祖父のお寺にいったときには、親戚に挨拶するよりも、まず本堂のご本尊にお参りしてこい、「まずお参りしなさい」と言われて育ちました。「まず○○する」 なによりも優先するものがある、というのは、そこに何が一番大切かという思いが表出しているように思うのです。

 稲さんの女将の矜恃か、あるいは性(さが)か。稲さん自身にはまた聞いてみたいとおもうのですが、「まずお風呂入り」の常套句に、ちょっと思いをもったイベントでもありました。




 

2017年10月15日日曜日

10/13(金) おふろバーvol.07

画像に含まれている可能性があるもの:2人、座ってる(複数の人)、テーブル、室内おふろバーvol.04(6/30開催)から、ホスト役として関わらせていただいているおふろバ-。
 7回目。(https://www.facebook.com/events/131123897514836/)僕としては、4回目のおふろバー。 コンセプトは、リンク先を参照していただくとおり、お風呂屋さん・銭湯でのんびりと過ごすというものです。
 これまでは、「お坊さん」としての立場でその場にいるという求めに応じて、衣姿でその場にすわっていました。しかし、お坊さんがいると、どうも「仕掛け」としてそこにいるような印象があり、「ゆるゆる」とちょっとちがうような感じと、なにか語ること・振る舞うことが期待されるようなところもあって、今回は作務衣程度で、ゆったりとそこにいよう、なにもしないでおこう、という形で関わりました。
 
 参加者もすこし落ち着いて、12名程度。
 そういうこともあってか、喧噪もなく、一人の語りをみんなが共有して聞く、という時間も自然に発生していたように思います。

 今回とくに面白かったのは、池田市の銭湯経営者が、会場の蓬莱湯の視察も兼ねて参加して下さっていて、その語りのなかから、自然と銭湯経営者二人(蓬莱湯の稲さんとその方)の、トークタイムになったということ。
 その銭湯が一番盛り上がった日、銭湯経営のアレコレもおもしろかったのですが、
銭湯経営者お二人のこだわりの共通点が、「日々の掃除」にあったということ。
 
 この掃除についての語りが、僕の琴線にふれました。
 
 目立つところではなく、日々の当たり前の営みをちゃんと積み重ねていくこと。
 僧侶も、一番の仕事は、本堂のご本尊にお仕えすること、仏さまのお給仕をすること、という方がいます。そういう僧侶の勤めにもなにか通じるような思いがしました。

 銭湯のこだわり、哲学、根っこで一番大切にしているものは、「掃除」。
 以前のブログにもかきましたが、稲さんが語る「銭湯」の中には、とても宗教的なこと、人生哲学的なものがふんだんに折り込まれています。(これです http://ryogo1977.blogspot.jp/2017/08/1707092.html

 宗教者がかたらなくても、なんとなく、とても大切なものへの接点が自然と発生したように感じたおふろバーでした。





すこし遅めの誕生日プレゼント

私の誕生日は、7月です。
月に1度出講しているカルチャーセンターの講座の受講生のMさん、7月から
先生の誕生日プレゼントに仏像を贈ろうと思って彫っている、とおっしゃって下さっていたのですが、昨日、写真の像をくださりました。
Mさん、3年ほど前から、仏像彫刻の講座で仏師の先生について勉強されています。その成果は、講座のあとの御茶会でいつもみせてくださっていました。
モデルは、講義でも時々触れる「五劫思惟」の弥陀像です。
講義で触れて心にのこってくださっていたのと、なんとなく中平に似ていると、ありがたいこともおっしゃってくださって・・・。笑
講義では、Mさんはじめ、受講生の方に教えられ、育ててもらっているような思いでいますが、こういう交流もさせていただき、本当にうれしいことです。
Mさん曰く、
たくさんの人に見てもらい、触ってもらいたいということで、
これはご紹介させていただかねばと。

「宗教的な救い」とはなにか?

・先週は宮崎先生と対談でした  先週の土曜日 4月13日の午後は、相愛大学の企画で、宮崎哲弥先生の講義にゲストスピーカー・対談相手として、登壇させていただく機会を得ました。  以前このブログでもご案内していたこちらです。  【登壇情報】宮崎哲弥先生と対談します。 https://...