昨日・10/15(日)の午後は、「New踊り念仏探究会」(https://www.facebook.com/events/1951988201682493/)なるイベントに参加してきた。
午前中はお寺の法務、その後すこし書き物をした後、新今宮の上記の探究会の会場に移動し、参加した。
参加の動機は、
・主催者の秋田さんが知り合いであり、ご所属の応典院で展開されている諸行事が大変興味深いことをされており、またお会いしたいという思いがあったこと。
・「踊り念仏」という念仏と、念仏信仰、浄土信仰の身体性ここにあり、というようなアクティビティに関心がむくむくと湧いたこと。
・スケジュール的に参加可能だったこと。
といったところだろうか。
15:00に数分遅刻して、会場のカフェ EARTHに到着。
ちょうど自己紹介を回しているところから参加。
参加者は7名ほどか。遅れて2名ほどいらっしゃり最終的には9名。
メンバ-、浄土宗僧侶、浄土真宗僧侶、時宗僧侶が1名ずつ、他さまざまなモチベーションで参加されてていたが、こういう会に参加しようというだけあり、それぞれ個性的なモチベーションをお持ちのようだった。
自己紹介の後は、
・浄土宗の念仏(5分程)
・浄土真宗の念仏について(私から)
・時宗の念仏について
とそれぞれの念仏について、実践、説明があったあと、
・主催者の一人、ダンサーのsさんから、体と声を使ったワーク。
(個人的には、「ホ」と声をだすワークの同調性がとても印象的だった 備忘)
・再び、「浄土宗の念仏」(5分)
・その後また、Sさんにバトンがわたり、「自由な場所、自由な態勢、とにかく自由に念仏をしてみる」
・終了:感想・ふり返り
というプログラムだった。
個人的な感想としては、とても刺激的な「実験室」という印象だった。
身体的なワークをすることで、「念仏を称える」という行為と、身体的な準備との関わり、感覚的なものへの影響を明らかに感じることができた。
単純にいうと、身体的な準備をして、声を意識して称えることで、「気持ちよく」感じ、念仏に対して集中しているというか、溶け込んでいくような感覚をハッキリと感じることができた。(これはある意味当たり前のことかもしれないが)
参加したモチベーションとも関わるが、浄土真宗の念仏は、特に行的な面やその身体性をあまり(というかほとんど)語ることがない。そのため、敢えて求められることが少ない「念仏と身体性」を感じる場に身を投じてみたわけだが、そちらの方面から念仏を考えるキッカケをもらえたように思えた。
また、「自由に念仏する」という定型からあえて外される、という体験も大変面白かった。多くの場合、念仏は「念仏すべき時」(例えば、読経・儀礼の場面)に念仏するということが当たり前のようになされるが、そういうお約束を解体して、いわば「正解のない場」に放り込まれること、しかも「当たり前のことはやめてね」という場に置かれることの戸惑いの中で念仏する、という経験は、自分のなかにいったいなにがあるのか、というのをある意味真摯に見つめるような時間でもあった。
ちょうど、先日読み始めていたルポの文章にも通じるようなところを感じた。
震災の現場で、なにもない、津波でさらわれ、数多くの遺体に直面して、「祈り」「儀礼」を行った宗教者についての言及だ。
(石井光太『祈りの現場―悲劇と向き合う宗教者との対話』6~8頁抄出、サンガ刊、2015年。)
宗教者たちの姿は覚悟をもって現場に立っているように見えたが、心の底では不安と葛藤に揺れ動いていたのだ。
ただ冷静に考えてみれば、それが一般的な宗教者の偽らざる心情なのかもしれない。
誤解を承知で言えば、普段斎場で行われる葬儀で手を合わせているときは、祈りの持つ意味や力について考える必要はそこまでない。葬儀社が準備したプログラムにそってお経を読み、あるいは讃美歌をうたえば、良くも悪くも済んでしまう。
しかし、町が大津波に襲われて目の前で人が流されるのをなす術もなく傍観せざるを得なくなったり、・・・(中略)僧侶や神父としての無力感に打ちひしがれずにはいられない。(中略)悲しみの現場にある宗教者の多くは、多かれ少なかれ一度自らの信仰心を疑うのが常だ。そして、神仏のあり方や祈りの意味を考え直し、信仰を一からつくり上げなければならなくなる。
なぜか。
それは宗教者が一人ひとりの気持ちに応じた祈りをしなければならなくなるからだ。その人だけ悲しみ、その人だけの懊悩、その人だけの絶望。それにすべてちがった形で応えていかなければならないのである。つまり、決まりきった形を捨て、その人にとっての祈りをつくり出すことが求められるのだ。(中略)
だが、悲しみの現場にあって、宗教者は苦しみながら悩みながら一つひとつの異なった祈りをつくっていくものなのである。
信仰を疑う、あるいは信仰を一から作り上げるというところにもしかすると違和感を感じるかも知れない。(私自身もこの表現を素直には受け入れられないでいる)しかし、正解がない場に放り出され、自身の行為の不確かさを感じつつも、それでも一歩を踏み出さなければいけない場におかれる。その歩み、踏み出す勇気が、「作られた儀礼」「形ばかりの儀礼」を越えていくものであろうという趣旨には共感している。
もちろん、震災や、被災地などの深刻さは、ワークでは比べられようもない。
しかし、言いたいことは、決められた形に安住するのではなく、「正解のない場」に自身の身を置いてみて、なにをしても「安定しない」、不安定な中で何かをせざるを得ないという経験は、自身が当たり前にしていたことへの問い返しを必然ともたらすような思いがした。
もちろん、今回の「実験室」でだされたものが正解にはなり得ないと思う。
ただ、さまざまな気づきや、問いをもたらすものであったということを感じつつ、
また、3時間強の時間がとても早くすぎていったことは、とても楽しかったことを示してくれているように思う。
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