2016年9月28日水曜日

社会保障の議論の前提(おぼえがき)

某氏の主張や考えについては、常々違和感があり、また、関与することも避けたいと思っていた。けれど、通勤中にふと目にしたこの記事は、そこを問題提起としつつ、考えさせられるべき点が多かった。
・社会問題について議論する前提とは何か、ということについて提示されているということ。
・僕らのような宗教者や、思想に関わるものが、「職」として、社会にどのようにコミットすべきかということについて、示唆されているように感じられる。
著者さんについては、どんな方がしらないけれど(薬剤師さんらしい)
以下、ブログから抜粋、それでも少々長いけれど、転載。
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年金、医療や介護、子育て支援、失業者の救済といった「社会保障」について語る際、その理念を前提とせず、議論することはできません。
社会保障の理念の中で、代表的なものは『社会による包摂』、つまり
『貧困や失業、健康不安により社会から結果的に排除される人々を、再び社会の関係性に引き入れよう。どのような立場や状況にあろうとも居場所と役割があり、互いの存在意義を認め、尊重しよう』
とする概念です。そして実際に、この理念に力を与えているのが、社会に共有される「人権意識」や「倫理観」であるといえます。
(中略)
個人的な印象としては、日本が戦後、経済大国の仲間入りをする過程で、核家族の増加や長時間労働に伴う世代間の交流の減少があり、また経済的な成功こそが人間としての成熟だとする誤った理解が広がる中で、日本の高所得者層・リーダー層を中心に「新自由主義的な思想」(自由放任・規制緩和・自己責任・小さな政府を志向)が浸透しすぎたのではないか、歯止めとなるべき社会規範が弱かったのではないかと考えています。
収入や社会的地位が高いほど、こうした思想に染まりやすいとされますが、日本のリーダー層や制度設計担当者、マスメディアに広がるのは非常に危険です。
日本では政府系の会議に企業経営者が「有識者」として招聘されがちでもあり、こういった思想に対し、その都度、強い口調で拒否の意向を示すことが必要なのかもしれません。

http://www.huffingtonpost.jp/hidekazu-takahashi/dialysis-patient-yutaka-hasegawa_b_12189180.html?utm_hp_ref=japan

2016年9月5日月曜日

ハワイにおけるchaplaincy

【ハワイにおけるchaplaincy】
 
 先日来、大学のハワイ研修に同行しています。
 いくつものまなびがありますが、日本で耳にしていたことも、現地の実際にそれに従事している方からうかがうと、やはり全く違う印象や、実感をもつ、ということもあります。

 ある意味、ハワイでの「僧侶」の活動は、(一般的に)日本よりずっと社会的で、期待や責任が大きいと思われる面があります。それが、日常的に、僧侶(を含めた宗教者)が、日常的に、病院や高齢者施設などの社会施設を訪れる、ということです。

 今回、講義をして下さった開教使(浄土真宗では、ハワイで伝道活動をする僧侶を「開教使」と名称しています。)の先生によれば、

 ・病院は、週に1回
 ・高齢者施設等は、月に1回

 程度で、訪問されているとのことでした。
 例えば、病院であれば、宗教者が病院を訪問すると、入院患者のリストを見せてもらいます。
 そこには、患者さんたちの「信仰」に関する記載があり、そのリストをもとに、信仰を同じくする入院患者さんのところ(僧侶であれば、仏教徒の患者さん)のところに訪問し、お話をうかがったり、求められれば、仏教についての教えの語りや、儀礼などを行う事があります。

 訪れる患者さんは、その僧侶が日常から関係のあった「信者」(メンバー)であるとはかぎりません。病院訪問によって「はじめまして」と、初対面から関係を構築するような方にも、挨拶に訪れ、お話を伺うこともするそうです。

 そこでは、宗教的な問いや、その方のスピリチュアルな求めに応じたケア(← リンク参照・メディア特に芸能関係で一時話題になった、「スピリチュアル」とは違います)などが提供されます。 

 
 この分野については、日本でも、臨床宗教師や、臨床仏教師等といった研修が実施され、実際に病院等の医療施設、高齢者施設等の社会福祉施設で活躍する宗教者もいるけれども、まだまだ一般の認知は低いところでもあります。
 このハワイでのように、「宗教者がすべきこと」として、社会に対する義務として認知されること、あるいは、患者リストを閲覧して関与するような社会的システムになっているというのは、宗教者として考えるべきところが多くあるように思います。
 日本では、そのようになる道筋すらも見えていないようにおもうけれど、実際にそういう関与が、(海外の事例であるけれども)宗教者によってなされているということは、「あるべき姿」として、あるいは、「ありうべき姿」として、の可能性の一つとして、しっかりと考えるべきことではないかと思います。
 現地でその話をうかがえた、ということは、上に書いたように、日本で間接的な学びをするのとは、大きく違う印象をもってうけとることができました。

 実際に「医療現場」での関わりも目で見てみたいとはおもったけれども、それは将来の期待、ということで、胸においておきたい。

「宗教的な救い」とはなにか?

・先週は宮崎先生と対談でした  先週の土曜日 4月13日の午後は、相愛大学の企画で、宮崎哲弥先生の講義にゲストスピーカー・対談相手として、登壇させていただく機会を得ました。  以前このブログでもご案内していたこちらです。  【登壇情報】宮崎哲弥先生と対談します。 https://...