2017年1月23日月曜日

大崎善生『聖の青春』


大崎善生『聖の青春』(角川文庫)




映画『聖の青春』を元旦に見て以来、一連の本を読んでいた。


・山本おさむ マンガ・『聖(さとし) 天才・羽生が恐れた男』

・大崎善生『角川つばさ文庫版 聖の青春 病気と戦いながら将棋日本一をめざした少年』


ただ映画も含めやはり、一連の本の原点・原作がこの大崎善生『聖の青春』。

映画や漫画ではカットされていたエピソードも含まれていて、それがまた村山棋士の実像と、生きる姿を思わせられる。

3才で腎ネフローゼを発症し、死を意識しながら、「将棋を指す」という人生を生きた棋士・村山聖の生涯。
映画では、7段昇格からが物語りの中心だったが、本書では、3才のネフローゼ発症から、将棋との出あい、奨励会入会も含め、その人生通して描かれている。







2017年1月11日水曜日

「手に入らない中で生きる」スキル


この「山中伸弥教授と羽生善治棋士との対談」を読んでふとおもったこと。

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/50589

AIや、IPS細胞。
第一人者でさえ驚くほどのスピードで、技術が進んでいる。
不可能がどんどん可能になる。治らなかった病気が治るようになる。

万能に近づき、望ものがどんどんと人間の手の中に入ってくるようになるのだろう。
人類がそっちへむかって、どんどんとスピードをあげて進んでいるように錯覚さえ覚える。

しかしその分、不可能なことの、叶えられないことの、そしてそちら側にいることの苦悩が大きくなるのではないか。

「いかにそれを手に入れるのか」、「いかにそれを達成するのか」というスキルに関心がないわけではない。
しかし、それと同等以上に、
「いかに”手に入らないものがある”という中で生きていくか」、「いかに”受け入れがたい状態である”中で生きていくか」というスキルアップも必要ではないかと思う。

そして、それは、他者から押し付けられるものではなく、自己自身が問い、作業するなかでしかえられないのかもしれない。それが「行」としての営みなのかもしれない。


2017年1月10日火曜日

今年の目標(数字)


今年の目標設定 ・本は100冊読んで、 (昨年は30数冊) ・映画は50本見て、 (昨年は2本くらい) ・論文は200本読んで、 (昨年は…)  ・論文は2本書こうか (昨年は、0) と考えている。 …かなり大きく出ている。目標は大きく。

映画『ベストセラー 編集者パーキンスに捧ぐ』

映画 『ベストセラー 編集者パーキンスに捧ぐ』
(2017年 4本目 1/9鑑賞)

公式サイト
 http://best-seller.jp/

ヤフー映画 
http://movies.yahoo.co.jp/movie/357156/


舞台は1929年からのニューヨーク。
敏腕編集者マックス・パーキンスと作家トマス・ウルフが、2つのベストセラー作品を発刊する前後の二人の仕事と交流が中心に描かれている。

あらすじ、評論については、リンク参照。。


個人的には、いくつかの考えたいこと、余韻がのこる映画だった。

◆タイトルについて
 この映画の邦題は、標題の通りであるが、現タイトルは「Genius」。つまり「天才」と付けられている。
むしろ原題の方が、個人的にはしっくりくるのではないかと思った。

 天才作家「トマス・ウルフ」が、いかに世間に知られるようになったのか。編集者パーキンスが見出し、彼がその才能にかけて、さまざまなものを犠牲にして寄り添う中で、「ベストセラー」が生まれていく。
 「天才」は、一人では世に出ることは決してなかったであろうし、「天才」たりえることもなく、埋もれていったことだろう。つまり、才能は、実体的・不変的に「ある」ものではなく、見いだされ、磨かれることによって「天才」たりえるのではないだろうか。 見いだされ、関わられてこそ「天才」たりえるのではないか。
 
 一人では、「天才」たりえない。天才とは、常に誰かが誰かに関わる中で、そこに立ち現れてくるものではないか。

 そう考えると、このウルフとパーキンスの関係が、ほかの「天才」のありかたと重なってくるように思われた。

 先日見た映画「聖の青春」(その他原作、マンガなど関連作品を読んだがそれらも含めて)のモデル、天才「村山聖」棋士には、師匠森信雄六段とのかかわりを抜きに語ることができないように。
 
 
 「天才」・「才能」とは、一人の人の枠に収めきれるものなのであろうか。
 世に知られるということ、才能が認められるということ、そこには、「一人」の人間ではなく、つねに「だれかとだれか」(あるいはそれ以上の人)が関わる中で立ち上がってくるものなのではないか。

 ふと、そんな考えが、頭によぎる映画の、鑑賞後の印象だった。


◆編集の作業
 膨大な原稿を前に、ざくざくと朱を入れ、文章を削る描写。
 刊行物の編集に関わった記憶がありありと思い返される。
 
 書かれたものに向き合って黙々と、朱を入れる作業。
 あーでもない、こーでもないといいながら、その文章がよりよく伝わるように費やされる時間。
 (このブログは、推敲もなく書いているわけですが)
 そうやって、一文を書くために、膨大な語句を削る作業。 あるいは、一文の背景にある、推敲されたよく似た、でもそれではない文章の数々。
 
 その削られ、掘り出され、整えられていく文章が、才能が目に見える彫刻となって掘り出されてくるような、そんなイメージもあった。

(つれづれ)

2017年1月4日水曜日

モチを切る その日それをするということ。

1月4日のルーティンは、お正月三が日にお供えしたモチを切るということ。

なかなかの重労働で、これをするだけで、午前中が終わる。

フェイスブックを見ると、毎年この行事を書いているようだ。

ただ、結構、「この日はコレをする」というものがあるのは、嫌いではない。
自分にとって、1月4日は、モチを切る日と設定されている。

最近は、曜日で動くことが多くなり、
村の祭りや、お寺の行事も、第何土曜日がなに、第何日曜日が何という形になった。

以前は、祭りやお寺の行事もいくつかが、
「何月何日」は、○○××の日、と、
特定の日で、設定されていたものがあった。

特定の日に何かをする、というのは、一年を過ごす上での区切りとしても意味があるのかもしれない、少なくとも、自分にとっては、「今年もこの日が来た」という思いで過ごせる、年間ルーティンの一つになっている。


2017年1月3日火曜日

映画『この世界の片隅に』

映画『この世界の片隅に』(http://konosekai.jp/

Yahoo!のレビュー
http://movies.yahoo.co.jp/movie/348641/story/


・口コミで、「いい!」という評判があまりにも高いこと、
・なぜか職場(研究室)に、「のん」さんの直筆サインのチラシがあること、
・公開前に、知り合いの方からも強く進められていたこと

 など、「見るべき」条件が整いすぎていて、「見ないといけない」気持ちもあって、鑑賞してきました。


 見る前の正直な気持ちは、「悲しすぎたらいやだなぁ」というもの。
 『蛍の墓』のように悲しすぎるものがたりは、悪くはないのだけれど、感情を持って行かれてしまうことに対しては敬遠したいという気持ちがあった。感情を振られすぎることに、自分自身苦手意識があるのかもしれない。(ちょっとした自分に対する気づき)


 しかし、実際は、むしろ安心しながら、適度に感情を動かされつつ、見ることができた。
 見終わった後、はむしろ、こういった戦時中を語る映画が提示する視点はとても大事なものがあるのではないか、と考えられる映画だった。

 それは、どこまでも市井に暮らすの一人の女性が体験した戦争を描くという視点。

 偉人的な活躍をしたわけでもない。(ごく小さなコミュニティであっても、モチベータにもリーダシップを発揮するような人物でもない、どこまでも主婦)
 特定のイデオロギーをもっているわけではない。(あの当時としてはおそらく、多くがそうであったように、親が決めた相手といわれるがまま結婚し、いわれるがまま家事を行い・・・)
 戦闘の最前線や、悲劇的な地域に居住しているわけではない。(呉という街もある種特別な街であることに間違いはないが、街から少し離れた山手に居住していて、ローカルな雰囲気漂う)
 
 それら、いわゆる戦争映画によくあるシチュエーションや、人物の登場はほとんどなく、登場人物が「歴史」を動かしたりすることもなく、おかれた状況でどこまでもつつましやかに、日常としての「戦時を暮らす姿」が描かれた映画といえようか。

 
 個人的には、「戦争」を描くには、あまりにも穏やかすぎたという気持ちがしないではない。
 しかし、じゃあ、どう描けばいいのか?。そういうことを考えてみると、「穏当な戦争の描き方」とか、「万人が納得するような戦時の状況描写」なんていう物自体が、むしろ幻想ではないかと思われてくる。

 人によっては、「主義主張のない戦争映画」に逆に批判的な目を向ける人もいるだろう。ネットのレビューをみれば、「国内的な描写のみで、国外で行った日本の非人道的な事柄について言及がない」ということについて批判的な意見さえあった。

 僕の「穏やかすぎる」という印象とは、逆に「これ以上は悲劇的すぎる」とか、「もっとイデオロギッシュであるべきだ」という感覚の持ち主もいるかもしれない。

 
 むしろ、こういう場合の最近の僕の立場としては、
 「もっとも相応しい解を探すよりも、それぞれの立場が相対化されるような刺激をもたらすものの方がのぞましい」と考えたりしている。 

 そういう意味では、この映画は、ともすれば陥りやすい、「戦争に対する賛美」(無意識、無教養なものや、あるいはイデオロギー的なものも含む)や、その逆に悲劇的などこまでも反戦イデオロギーに包まれるような描写に偏るものでもない、あるいはイデオロギッシュに右と左が対立的に問われるような投げかけが含まれるものでもない。むしろ、そういったものと距離をとることで、相対化していくような問いかけが秘められているような、穏やかな(ヒーロー的な要素のまったくない、いわれるがまま日常を暮らしていた)若い一人の女性の視点からの戦争映画だったのではないかと思われた。つまり、いわゆる戦争映画のあり方を、市井に落として、あらためて問いかける(賛美を含めて)相対化するような視点がふくまれている、という意味においても、意味ある映画の一つなのではないか。
 そのような意味においても、冒頭に書いたように、「こういった戦時中を語る映画が提示する視点はとても大事なものがあるのではないか」と思いながら、帰りの自転車をこぐ昼過ぎだった。(朝から上映にのこのこと出かけていたので)
 

追記:
・子どもと見る場合。
 僕の後ろには、小学校の子どもさんをつれた家族連れがいて、子どもと見るには、これくらいが安心なのかもしれない。しかし、ところどころで、「●●ってなに?」とお母さんに尋ねたりしているところがあって、小学生にとっては難しいことばもあったようだ。でも、そういう言葉に「触れる」ということでは、いい学びなのかもしれない。


追記その2:
 劇中に、お坊さんがお経を上げたり、お葬式をするシーンがありましたが、いずれも「浄土真宗」でした。 「如是焔明 無与等者」という「讃仏偈」と、『御文章』が読まれる場面がありました。さすが安芸門徒の広島と思いました。

2017年1月2日月曜日

映画『ある天文学者の恋文』

『ある天文学者の恋文』

http://gaga.ne.jp/tenmongakusha/


昨日の『聖の青春』に引き続いて、正月は映画をと、続けて映画を見てきました。
塚口サンサン劇場。昨日は、サービスデイで1000円で鑑賞できたからか、映画自体の評価だったのか、席が結構埋まっていたのに比して、今日は、50席弱の座席に、観客は僕を入れて6名。

悠々としたスペースで鑑賞した。
少ない観客でゆったりと見れるのも、ありがたいことだけれど、
営業的には心配にもなる。(サンサン劇場、すごくいいところですよ!)


◆映画の感想(あくまでも個人の感想) 
 ※以下、ネタバレではないけれど、水を差すようなレビューでもあるので、ご注意を。

さて、映画。ホームページの紹介文、

「一人の天文学者が恋人に遺した“謎”をめぐる物語。数十億年前に死してなお、地球に光を届ける星々のように、命尽きても、我々の愛は大切な人たちの行く先を照らし続けることができるのか。そんな壮大でロマンに満ちたテーマを、名匠トルナトーレが描きあげる。」

というのを期待して見にいったわけです。
結局の所、感情が揺さぶられるところは個人的には少なかった。
昨日の『聖の青春』の方が、感情移入しやすかったのは、
和洋の文化の違いもあるのだろうか。

 あるいは、「死者が、死んだ後も手紙を送り続けてくる」という謎と、そこに向き合かっていく、という「理」というか「知的」な謎にモチベートされた行動は、恋人との「死別」「離別」という悲しみ(感情)を少々背景へと追いやってしまっていたのではないかとも思った。
 感情的な描写もあったけれど、それ以上に、送られてくる手紙や、謎への追跡に比重があって、個人的にはもっと感情に振って欲しかったかなと思う。(これは、個人的なニーズなのかも知れない)


 ただ、2時間の間、あまり退屈もせずに、ちゃんと映画に向き合えたと言うことは、駄作ではないのだろうと思う。そもそも、あまり映画を見ない僕が、そこそこ集中して見たというのは、ちゃんと記しておきたい。
 
 エディンバラや、「イタリア湖水地方のサン・ジュリオ島」なんかの街並み、風景はとても美しかった。

 映画を見て過ごす日っていうのも悪くないなぁと思います。

 

Yahoo!のレビュー
http://movies.yahoo.co.jp/movie/357363/



映画『聖の青春』


『聖の青春』

http://satoshi-movie.jp/


2017年元旦、塚口さんさん劇場で、見たかったこの映画を見てきました。
29才、進行性膀胱がんのために夭逝した、村山聖棋士を描いた作品。
映画では、彼が24才で7段に昇段してから、29才で亡くなるまでが描かれている。

5才でネフローゼという難病を発症しつつも、トップ棋士となり、「天才」と評された棋士。
27才で進行性の膀胱がんが見つかるも、棋士として生きったその生涯。

劇中の時間の経過がわかりづらいところもあったが、考えさせられ、感情も揺さぶられる映画だった。


うまい言葉が見つからないが、どうだった?と聞かれたら、こう言いたい。

「生きるということは何か、ということを考えるならば見たい映画の一つと。」
将棋好きなら、なおのこと、おすすめしたい。

死を意識せざるをえず、
人生において、「普通にあるもの」を諦めざるを得ないことから生じる悲歎。
まわりとの乖離、軋轢。

スピリチュアルケア、グリーフケアを考える教材としてもいいのではないかと思う。

DVDが出たら買いたいと思う。






2017年初投稿。

2017年 明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。

しばらくフェイスブックばかりでこちらのブログにあまり記事をアップできていませんでした。
今年は、こちらにも記事を書いて行けたらと思います。

「宗教的な救い」とはなにか?

・先週は宮崎先生と対談でした  先週の土曜日 4月13日の午後は、相愛大学の企画で、宮崎哲弥先生の講義にゲストスピーカー・対談相手として、登壇させていただく機会を得ました。  以前このブログでもご案内していたこちらです。  【登壇情報】宮崎哲弥先生と対談します。 https://...