2014年2月12日水曜日

目の前のことをしたり、さぼったり

予定と課題を抱えていると、ゆっくりと文章を書く暇がなくなる。
すべきことができなくなる。
30分文章を書く時間があったとすると、
その前後に見えない、数えられない時間が必要ということを感じる。
気持や状況を整える時間が必要。

ところが、あればできるかというと、
そういうわけでもない。

ありすぎても、いけないし、なくてもいけない。

先週は、なさすぎて、余裕がありませんでした。
昨日は、ありすぎて、逃避しました。

なくてもできない。
あってもやらない。

結局しない。
これではいけない。

自戒を込めて。


2014年2月3日月曜日

ぼろ家ではなくて、トトロの家になるという…


■娘とトトロを見ています

最近、娘とDVDで「となりのトトロ」を見ています。
2歳8ヶ月を過ぎた娘は、「トトロを見たい」と、要望をしっかりと出してくるようになって、成長にも目を細めたり。

映画を見ながら、あるいは見終わったあと、
「トトロこうしてたねぇ」とか、「こうだったねぇ」と、映画のなかのワンシーンをまねしたり、感想をしゃべったり。幼児ながらにすっかりと、映画の世界を楽しんでいるご様子。


■トトロを見て思ったこと

そんなこんなで、ふと思ったこと。

映画の中で、主人公のさつきちゃんと、めいちゃんは、田舎のぼろーいお家に引っ越してくるわけです。本人たちいわく、

「おばけ屋敷みたーい」。
「わー!ボロ!」
「腐ってる!」

さんざんなわけです。
ところが、本人たちは、そんなボロさをとっても楽しんで、否定的にではなく、むしろ肯定的に賛美している風すらある。

そして、
どうも引っ越しするまでは、「まっくろくろすけ」が住み着いていて、家を片付けていると、それを目撃できたり、
お隣さんには、「トトロ」がいて、遭遇することさえできてしまう。
見ているものには、「ボロ家」がとても素敵な、「行ってみたい」、「経験してみたい」という場所になってしまう。


これを見たものには、一つの世界が与えられる。

ぼろいおうちは、トトロの家。
五右衛門風呂や、カマドのある古い台所は、「時代遅れ」ではなく、
「さつきちゃん、メイちゃんの家と一緒」。

うっそうと茂った森は、「不気味なもの」ではなく、「トトロの住む森」。

何気ないもの、あるいは否定的にとらえうるものを、
肯定的な物語を介在させることで、それらも肯定的に「物語れ」るようになる。

もっといえば、否定的に見ることさえも、
それを「否定的にとらえた物語」の中に生きているといえるかもしれない。
「物語」がないと、それは、ただの「それ」で、
見ることも、語ることもないのかもしれない。


あこがれの世界や物語をもつということは、
現実に目の前にある「ものがら」に意味や価値を与えるものであると、
そんな風なことを思ったり、実感できるのだなぁと考えたり。

【追記】トトロのレビューもすごかった。
となりのトトロ [DVD]


■宗教もそうなのです
 
宗教的な逸話や、伝記というのも、
時に非現実的な、突拍子もないことを書いていたりして、
「そんなこと現実にある訳ないじゃないか」と突っ込みを入れることもできるわけです。
しかし、それらの逸話が、別に現実になくても、かまわないわけです。


その物語や提示する世界に触れて、
それが、自分の身の回りにあるものに投影される。

とすると、単なる食事や、あるいは物が、
「これは、神から与えられたものだ」とか、
「仏様からいただいたものだ」とか、
「宗教的な価値観」によって、大きく変質させられる物語の中に生きるようになるわけです。


目の前の何気ないものが、信仰の世界に居ないと分からない価値を持つ物になったりする。
それは、ある意味「わけがわからない」と言われかねないものです。
でも、
となりのトトロを見たことのない人に、
おんぼろの家を「トトロの家みたい!」と肯定的に表現して喜んでいても、
「なんでボロ家を喜んでいるのかわけがわからない」と、思われる(だろう)ように、
「宗教的な世界の中にいないとわからない」としか、表現できない価値観もあるのです。

あるいは、
非常に苦しい、受け入れられない体験が、ある場合には
宗教なバイアスがかかって、(なんとか)受容可能な形になったり、
あるいは、受け入れられない、苦しいままでありながら、
宗祖や、先人や、あるいは自分の肉親・知人が経験していたことの「追体験」として、
自分以外の人の経験と重ねて、その人の痛みを想像する契機になり、
自分の苦しみに対する意味を、模索する糸口が与えられたりすることも、ありうるように思うのです。
受け入れがたいことを、受け入れがたいままに受け入れていくことは困難だけれども、
そういう解決方法に触れていく、ということも、実は宗教的な物語や、
人物(自分の肉親や知人、あるいは既に亡くなっている人との関係において)との関係において語られていくことも、
一つの思想的な営みではないかと思ったり。

(2014/02/03 17:10 誤字修正)

「宗教的な救い」とはなにか?

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