2024年4月15日月曜日

「宗教的な救い」とはなにか?

・先週は宮崎先生と対談でした

 先週の土曜日 4月13日の午後は、相愛大学の企画で、宮崎哲弥先生の講義にゲストスピーカー・対談相手として、登壇させていただく機会を得ました。

 以前このブログでもご案内していたこちらです。 

【登壇情報】宮崎哲弥先生と対談します。
https://ryogo1977.blogspot.com/2024/04/blog-post_4.html

 こちらの講義は、相愛大学の講義として学生の単位となりつつ、また一般にも有料で公開されているものとのことでした。 宮崎先生の講義を受けに来られた一般の方の他に、相愛大学の学生さん、関係者・先生方が出席されていました。私のブログの投稿で、興味を持ってくださった友人・私の講座の受講生の方も何名かお越しくださっていました。(ありがとうございました)

・講座、対談の内容は…

 宮崎先生の仏教理解や講義スタイルの独自性に、いろいろと考えさせられるところもありました。 しかしながら、登壇させていただいた後半部分は、宗教と社会の関係性から、宗教者の社会活動というような部分に話題が広がっていきました。
 お寺の活動、臨床宗教師や災害支援、ビハーラ活動、貧困支援など。チャプレンの活動から、軍隊へのコミットや、教誨活動等についても話題は及びました。
 いろいろと多岐にわたりましたが、聞かれたことにこたえつつ、話題を広げていくという時間で、大変楽しく過ごさせてもらいました。(受講された学生さんたちの感想も、なかなか良かったようで、うれしく頂戴しました)

・教誨活動にふれて

 話題が「教誨活動」に及んだとき、「宗教的な救い」とはなにかということに触れる場面がありました。 宮崎先生の講義でも「救い」ということに注目されている発言があったので、そこに触れていく必要を感じたからです。
 この「教誨活動」とは、教誨師という、刑務所などで活動する宗教者の活動のことで、浄土真宗の僧侶も多くこの活動にかかっています。先年、大杉連さん主演で「教誨師」という映画も公開されました。

 Wikipediaのリンクを参考に置いておきます。

 教誨師の活動は、刑務所に足を運び、受刑者に宗教的かかわりをすることをその勤めとしています。一番シリアスな場面では、「死刑」になる直前に、その受刑者の要望によっては面会し、かかわりを持つことがあります。
 
 そのような話に触れたときに、以前、お寺の法座でお世話になった著名な布教使の先生が、その教誨活動に触れながら、宗教的な救いについてお話しされていたことを思い出しました。

・宗教的な救いについて

 その宗教的な救いについて、端的に言えば次のようなことをおっしゃっていました。
 
 真に宗教的な救い(※)というのは、次の瞬間に「死」が来たとしても成立するような「救い」でなければ、それは本当の宗教的な救いとはいえないのだ。

 と。このようなことを、若かりし10代前半、お寺で座っているときに聞きました。のちに、私は、仏教、真宗を学んでいくのですが、宗教とはなにか、救いとは何かを考える際に、根底の問いとして、この言葉や、テーゼがあり続けていたような思いがしています。
 つまり、死刑を目の前にした死刑の受刑者であっても成立する「救い」がそこにあるか、否か。それが成立しないような救いであれば、それは本当に、「宗教的な救い」といえるか?そんな問いがそこにあるように思います。

 ※ 真に宗教的な救いに(※)を付けましたが、少し注釈も必要だろうと思っています。というのは、広義に「宗教」を考えた場合、すべてのこれに当てはまるわけではないということも、知見として知っています。 ただ、自分自身の問題として、あるいは浄土真宗という信仰のたちばとして、自分自身にとって(つまり浄土真宗という思想・仏教にとって)「救い」を問題にするとき、本当の救いとは何かと考えるときには、この問いは有効であろうということは、いえるのだろうと考えています。

 この問いが、「教誨」の文脈でてくるのは、まさに次の瞬間に「死刑」となるような、罪を抱え、命のおわりがやってくる人に対して、(あるいはそれは自分自身がそうだったとしても)、この教え、思想に救いはあるのかどうかが問われるのだろうと思います。

 

・伝える側、聞く側として

 そんなものあるのか?というように思われるかもしれません。あるいは、「死刑」やそれに類するような罪や悪行を行った人は、そもそも救われないのでは?という立場や考えもあるかもしれません。
 しかし、浄土真宗という思想が説いてきた救いは、そのような悪人であっても(いや、そのような悪人こそを)救いの対象であるととき、死ぬ瞬間まで、罪や迷いのなかにあったとしても「救い」は成立する、ということを説いてきた仏教でもあるのです。

 だからこそ、浄土真宗の救いとはなにか、それは(自分自身にとって)真の宗教的救いとは何か、ということを考えていくときに、そのような極限状態においても、成立するような救いであるのかどうか、そのような問いをもって語りえているか、あるいはそのような問いに耐えうるような聞き方や向き合い方がされているか、というのは、ある種宗教的な問いや語りを聞くときには必要なことであるのではないかとも思うのです。

 ちょうど先日、そのようなことについて、思いもかけずに触れる機会があったので、書き出してみました。

 つれづれなるままに。



 


2024年4月12日金曜日

西正寺でバスツアーを実施します

西正寺で、来月5月にバスツアーを企画しています。

昨年、本願寺の慶讃法要に参拝する京都へのバスツアーを開催したところ大変好評でして、それならと今年も開催することにしました。

詳細は、下記のリンクからご覧ください。

西正寺バスツアー 播磨の仏教寺院をめぐる http://saishoji.net/archives/1534


門徒さん対象のツアーで、普段からお寺を支えてくださっている還元ということもあって、大変お安く設定しています。(なんと 5000円)

御門徒でない方は、2000円を上乗せした額をお支払いいただく形になりますが、関心を持っていただければ、参加の申し込みをしていただくことは可能です。(それでも、比較的 割安なはずです)

行先は、加古川市、小野市内のお寺を回ります。
先日、4月3日に、下見をしてきまして、大体の所用時間と、行程のめどが立ちましたので、下記のようなスケジュールで考えています。

集合 朝 7:50 JR塚口駅前

午前 ・加古川市 鶴林寺、敬信寺を参拝・見学し、昼食

午後 ・道の駅みきに立ち寄り、小野市 浄土寺を参拝・見学し、宝塚北SAに立ち寄り帰着。

その後、希望者は懇親会場へ(別途 会費を設定)


鶴林寺(https://www.kakurinji.or.jp/:589年(崇峻天皇2年)創建とも伝わる、聖徳太子ゆかりのお寺。天台宗のお寺。多くの国宝・重要文化財をはじめとする文化財がある。(国宝2件、重要文化財18件、県指定文化財12件、市指定文化財24件)


教信寺:親鸞聖人が尊敬された「加古の教信沙弥」ゆかりのお寺。
 教信沙弥については、ひとまずwikiペディアの情報から →Wikipedia「教信」


浄土寺(https://ono-navi.jp/spot/463/:鎌倉時代の重源建立の寺院。快慶作の5.3mの国宝・弥陀三尊像が圧巻。これを皆さんと一緒に見たくて、今回のツアーを企画したとも言えます。個人的目玉。ぜひぜひ。



(加古川 鶴林寺の大門)
















2024年4月4日木曜日

【登壇情報】宮崎哲弥先生と対談します。

非常勤講師としてお世話になっている相愛大学で、以下の講演会があります。

第一回のゲストスピーカーとして、登壇させていただくことになりました。

(添え物なので、ちょろっとです。)

ご期待にそえるかどうかわかりませんが、

お寺での活動や、宮崎先生がお話しされたことなどから、対談をさせていただくようなこととうかがっています。

ご期待に沿えるか、役割を果たせるかというドキドキも含めて、ご関心もっていただけましたら、どうぞよろしくおねがいします。


https://www.soai.ac.jp/information/event/2024/03/miyazaki-01.html



2024年度相愛大学人文学部公開授業「仏教文化講読1」

宮崎哲弥客員教授による「あなた」のための仏教思想

講師:宮崎哲弥客員教授+ゲストスピーカー

日時:年間11回 各日14時00分~16時00分(開場受付開始:13時50分)

[第1回]4月13日(土) 今、仏教を学ぶ
[第2回]5月18日(土) 誤解されている仏教の教え
[第3回]6月15日(土) ブッダの教え「縁起」
[第4回]7月13日(土) ブッダの教え「無常」「無我」「苦」

受講料:2,000円/本学ウェブサイトにてお申込後、コンビニ決済にてお支払い

場所:相愛大学本町学舎
(OsakaMetro御堂筋線「本町」駅下車C階段4号出口より徒歩約5分)

お問い合わせ先:相愛大学人文学部人文学科合同研究室
TEL:06-6612-6247 (平日9時00分~17時00分対応)
E-Mail:jinbungakubu@soai.ac.jp


2024年4月2日火曜日

新年度の私

 4月になりました。お寺も別段新しいことはしていませんが、新年度になり気持ち新たにまた日々を過ごしていきたいと思います。

 今年度、自分自身の立場(お仕事/有償・無償に限らず)を振り返ってみたときに、以下の事をさせていただきます。基本的に、昨年度と変わりません。バタバタといろいろと雑になってしまっていることを反省し、できるだけ丁寧にいろんなことに取り組んでいきたいと思います。


 西正寺

 ・西正寺住職 

 ・西正寺寄席実行委員会 代表 

尼崎市関係

 ・尼崎市教育委員

 ・尼崎市 地域活動サポーター

 ・尼崎みんなのサマーセミナー 実行委員

出講関係(非常勤講師)

 ・龍谷大学大学院 実践真宗学研究科 「宗教実践特殊研究」
          文学部真宗学科 「伝道学特殊講義」

 ・相愛大学 人文学科 「仏教思想と現代」(必修科目)

 ・園田学園女子大学 「つながりプロジェクト」

 ・浄土真宗本願寺派布教使課程(伝道院) 専任講師

 ・NHK文化センター 梅田教室 「親鸞聖人のことばと思想」(仮)

NPO関係

 ・認定NPO法人 アーユス仏教国際協力ネットワーク(理事)







 


2024年3月19日火曜日

お布施・寄付の相場 ってどれくらいですか?(その2)

◎「無理なく、後悔なく…」1%くらいでどうだろうか 

 「その1」では、お布施は定額ではないのだ、ご寄付なのだということを書いたが、実際にどれほどしたらいいのか?という問いには、ちゃんと答えられていない思いが残っている。

 質問いただいた時にも、いつもはぐらかしてしまったような感覚が残っているのも実際だ。

 感覚的なところで「無理なく、(出しすぎたとか、逆に少なすぎたとか)後悔が残らないくらい」みたいなことを言ったりする。実際それが適当なあたりなんだろうと思っている。しかし、この回答は具体性に欠ける回答であるというのも事実だ。

 ということで、すこし、具体的な数字に踏み込んでみたいと思う。 今まで、口頭でこんな言い方をしたことはないのだが、正直にいうと、代替「1%」という率を基準に考えてもいいのではないかと思っている。

◎10%の寄付は高額

 収入の1割を寄付するという、話もしばしば聞こえるが、1割というのは結構な額になる。 1割寄付をする、それを継続するというのは、相当な覚悟や決意が必要なものだろうと思う。 それはかなりの「寄付」熟練者のレベルといっていいのではないかと思う。

 (10%を超える寄付を求める宗教団体は危ないという話も聞いたことがあるような記憶がある。ただ、今回ネットで検索しても、その裏付けを見つけることができなかった。どこで見たのだろうか? 気のせいだったか。しかし、感覚的にはわかる気がする)

◎1%はおそらく適当な水準

 1%という数字は、経団連などが提唱して始まったといわれる、1%クラブのことを知って、ヒントを得たものだ。でも、無理なく、後悔もなく、考えてみると実際の水準とも合致しているような気がしている。
 
 例えば、お寺のお参りに合わせると、月参りということであれば、毎月のことなので月収の1%が基準になる。
 月収20万円ならば、2千円、30万円ならば3千円、50万あれば5千円、100万円あれば1万円ということになる。月収が15万円ならば、1500円だ。
 
 月参りで1万円というのは、ほとんどないがおそらく、月収が100万円であるというのと稀有さは同レベルではないかとおもっている。(勝手な感覚である)

◎ 人に伝える場合には、ぼかす。

 人に伝えることを考えると、1%と断定的な数字より、「だいたい1%、範囲として1~2%前後が適当ではないか」とあいまいにしておくのがいいようにも思っている。なぜならば、断定的にすると、逆算して寄付者・寄進者の収入が類推されてしまうからだ。(上述のように、この話を直接誰かに話したことはないのだが)
 2%になれば、上述の倍ということになるが、「ちょっと多めに寄付しよう」と思ったときに、それでも無理のない範囲におさまっていくのではないかと思う。 

◎ もうちょっと具体的にしてみる

 上に、月参りで例を出したが、法事や葬儀はもうちょっと高額になるじゃないかというご意見もあるように思う。その場合についても、1%で考えられるように思っている。
 例えば、法事は、年に一度くらいのことということで考えれば、年収の1%で考えもらうことができるのではないだろうか。(おそらく、実際にその範囲がお布施の相場感としても近いものになっていると思う。 それくらいの幅の中で、現状お布施をいただいているように思う)
 
 葬儀は、ちょっと算出が難しい。現状、葬儀屋さんから「これくらいですよ」と言われた額をお布施としてお渡しくださっているように思うのだが、「定額」になると、同じ金額がやはりご家庭(あるいは人)によっては、「高額すぎる」感じられることもあれば、「適当な額」であったり、「少ないのではないか」と思われたりするようである。
 これとても年収の10%(つまり10年分の収入の1%ということになるが)は、かなり高額なるので、それを上限に葬儀費用の1割程度とか、故人の残された財産の1%とか、そういったところあたりが基準になるような気もしている。 
 (※ 例えば、相続にかかる税理士さんの報酬の相場は「遺産総額の0.5~1.5%」とのこと)
 逆に言えば、それ以上の額になるというのは、私の感覚からすれば、「高額すぎる」という印象でもある。
 

◎ 出しすぎもよくない

 上の議論、お布施・寄付をしたくない、あるいは否定的な方には、「金に汚い」と思われてしまうかもしれない。しかし、上のような相場感を今提示してみたい気持ちは、実は「出しすぎじゃないか、チェックしてみてほしい」という気持ちの方が大きい。
 そして、私が、実際に寄付する側に回った時に、自分に無理のないところを考えたとき、やはり、複数の寄付先に1回あたり、月収の1%前後~2%程度の範囲内で寄付をさせてもらうことが多いし、それをベースに考えるようにしている。

 
 ネットで、「お布施の相場」的に、固有の金額があるように書かれているのを見てみると、やや「割高」な金額が設定されていることが多いような印象がある。お預かりする側からしても、年金を主な収入とされている方から、50万円、60万円の月収の方と同様の額を負担感を感じながらお布施してくださる姿をみるのは、申し訳ない思いになるのだ。
 
 今はネットの情報がさも真実かのように流布しているし、僕自身それを大いに参考にして生きている。でも、お寺の事や、お寺にまつわるお布施のことについては、ごく一部のケースがさも全体がそうであるかのように流布してしまっているケースもあるように感じている。
 
 お寺はもっと庶民的な、無理のないところで、気軽に相談や交流が可能なものであることを知ってもらえたらありがたいと思っている。



 
 

お布施・寄付の相場 ってどれくらいですか?(その1)

 ◎ 答えずらい質問

 よく聞かれる質問に、「お布施はどれほどしたらいいですか?」と聞かれる。

 この質問に具体的にこたえられるお寺・僧侶もいらっしゃる。あるいは、ホームページ等に明示的に書かれていることもある。
 しかし、正直言って、なかなか具体的にどれだけしてくださいとは答えづらい質問である。

 うちの場合はという限定付きであるが、月参り・法事・ご葬儀その他のお勤め(法務呼んでいる)で、上のように聞かれた場合は、「お布施は、ご寄付なので、決まった額はないので、いくらでも、無理のないところでお布施していただいたらいいですよ」と答えている。

 さらに、言葉が足せそうなときは、
 「おうちそれぞれで、ご事情が違いますし、ご無理のないところでしていただいたら結構なことなんです。お金がかかるから、お勤めできない、お弔いができないというのが、私たちにとって一番残念なことですから。こころよくお勤め(お送り)していただくのを大事にしてください云々」などと、言葉を足している。


◎過去のケース

 過去に実際に残念というか無念さを感じたケースがあった。
 ある老夫婦がお寺に相談にお越しになった。伺うとご兄弟がなくなって葬儀をしたが、葬儀会社からの見積もりと、僧侶へのお布施の相場を聞いて、「そんなにかかるのか!」と驚いて、「無宗教で、直葬でやります」と返事し、実際にそれでお葬儀をしてしまった。葬儀が終わって、そのことを後悔している、というご相談だった。

 法名もなく、葬儀のみで、その後のお勤め、法事もない。お経・仏事をすることができなかったというところに、心残りがとてもあるので、お勤めをお願いできないかというようなことだった。

 そのご夫婦の話を聞いたときに、そのご兄弟のお送りが望まれる形で、ちゃんと行われなかったことが残念であったし、無念であったし、申し訳なく思った。「お葬式」と「お金」に関する論理が逆になってしまっているんじゃないかと強く感じた。

 「お金がかかるから、仏事ができない」というのは、サービスや消費経済の論理に宗教的行事・儀礼が引きずられ、引き落とされてしまっているようなものだ。「お金がないから葬儀ができない」ではなく、「お金などなくても、葬儀はできる(できなくてはならない)」ものなのではなかったか。

 本来は、葬儀や法事というのは、信教の自由や、それらにまつわる「権利」として保障されているべきものだと考えている。「弔われない」というのは、ある意味で、人権や福祉が欠落した状態だといえる。

 亡くなった方は弔われ、亡くなった形に対して弔いの気持ちを向けることは、お金があってもなくても、本質的な差はない形で実施されるべきものだろうと思っている。

 ご相談に来られたご夫婦とはお話を進めて、49日のお勤め、法名の相談をした。それ以後もお盆や、年忌の法事もご相談されて、継続的にお勤めをされている。

 その経験を通して、ご葬儀のお布施の相談には、「お金の有無ではなくて、大事にお送りのお勤め、ご葬儀をしていただくのが一番大事なことですからね。」という言葉を添えることもある。

 結局、仏事をはじめとしたお寺へのお布施は「寄付」であり、「お気持ち」であって、本当にいくらでもいいのだ。


その2につづく 〈その2はこちら〉
https://ryogo1977.blogspot.com/2024/03/blog-post_45.html

 → その2では、もう少し具体的に額について考えています。


 ※補足1 おかげさまで、私のお預かりしているお寺は、いまのところ大きな工事や問題が生じない限りは、現状の維持については、なんとか行えるレベルで経営・運営ができているからそのように言えるのであるのだろうという、バックグラウンドも大事な部分でもある。


 ※補足2 こう書きながらも、お墓への納骨に関しては、ある程度の目安を提示している。これは、「行為」ではなく、物理的な容量という限界や維持のために必要なコストを共有いただくという性質でもある。本当は、そこにも「お金は気にせずに」といえたらいいのにと思わなくもない。




2024年3月16日土曜日

お寺のお金、予算。

◎来年の予算について承認をいただいたということ。

本日、3月16日(土)、西正寺の総代会を開催しました。
主な議題は、令和6年度のお寺の予算について。
当方で作成した予算案について、協議・承認をいただきました。

詳細は現段階では公開するまでには至りませんが、ぼかしを入れた画像を添付しておきます。

◎住職は月給をもらっているということ

お寺は「宗教法人」であり、年度の予算を編成し、その予算に基づいて活動することになります。この予算のなかに「人件費」があり、住職はじめ、お寺で働かせていただいている者の給与として支払われていきます。

 今日も、お参りの中でこの話をすると驚かれました。

 「月給なんですか?」と。

 お預かりしているお布施はすべて住職の所得になり、自由に使われていると思われていたそうです。(苦笑) 

 おそらく、そんな風に多くの方が誤解されているのだろうと感じています。
 そして、そういった誤解を解きたいために、このブログも書いています。

 わかりやすく示してみると、

【売上】 ⇒「会社」(株式会社)⇒【月給】⇒「社長」/「会社員」

【お布施】⇒「お寺」(宗教法人)⇒【月給】⇒「住職」/「職員」

という感じでしょうか。
 売り上げは会社の収益になり、その中から 社長や社員に「給与」が支払われてそれが所得になるように、お寺の場合は、お布施等としてお預かりしたお金はすべてお寺の収入となります。そして、そこから毎月決まった額が給与として、私たちに支払われるわけです。

 お寺の維持には、備品、消耗品を買ったり、保険を支払ったり、工事やメンテナンスをしたり、水道光熱費を支払ったりと、結構なお金がかかります。ですので、入ってきたお金を現実的にもすべて所得にすることもできるはずがありません。
 現在の規模ですと、せいぜい、お寺の収益の三割程度が、人件費に充てられています。

◎少なすぎてヤバいらしい

 上述の檀家さんに、具体的に、
「今、お寺は3人で〇〇〇円くらいが人件費なんですよ」
というと、
「えっ、(少なすぎて)ヤバイじゃないですか」
という反応でした。
実際、「非常勤」扱いで満額ではない人がいるので、少なく見えるのですが、実際に上の金額が1名分だといわれてもおそらく驚かれないだろうくらいの金額で回っています。(苦笑)(具体的にはいいませんが)

◎できるだけ透明化していきたい。
 今回は、総代会に予算を審議いただき、承認いただきました。
 3月下旬にある永代経では、この内容をお寺の役員さんたちにご報告することにしています。
 上述のような誤解(お寺に入ったお金はすべて住職のもの、という誤解)を解きたいと強く思っています。また お金については透明性を高めることで信頼・信用を得ていくことができるだろうと思っています。
 そのため、近い将来お寺のお金の在り方については、もっと透明性・公開性高めていきたいと考えています。
 (その点は、今日の総代会でもお話していました)

2024年3月9日土曜日

本願寺の総長選挙の結果が朝日新聞に載っていた。

『朝日新聞』に、昨日3月8日に行われた 浄土真宗本願寺派の総長選挙の結果が記されていた。


記事によると、

「選挙の結果、荻野氏27、池田氏13、白票34、無効票1となり、白票が最も多くなったが、すべての候補者が得た有効得票の過半数という総長選挙の規定により、荻野氏が選ばれた。任期は12月まで。」

とのこと。

新たに選ばれた荻野氏も、池田総局の「副総長」というNo2のポジションであるということで、方針に大きな違いを示すものではない。当然、既定の路線に反発をしている方たちは、「白票」を投じるということになったのだろう。


3月10日の12時まで、以下のリンクから無料で見られます。

https://digital.asahi.com/articles/ASS38660VS38UCVL01F.html?ptoken=01HRGKKH9Y33DJ63VZ827ZMSMV



2024年2月29日木曜日

法事は何回忌まで?という動画がバズってる?

◎自分の出た動画が、プチっとバズっていた件。
 → どの尺度でバズっているかというと、あくまで個人的尺度です。

 フェイスブックで神戸別院のアカウントの、動画について触れられている投稿を見て思い出した。
 「あの動画、どうなったのかなぁ」とふっと思いだして、リンクを踏んでみると驚いた。
 この動画の再生回数が、1万3千回をこえていた。(下の動画である)
 同じシリーズで撮ったもう一つの動画(どちらも、僕が出演している)は、170回程度。
 テーマが、視聴者の関心にヒットしたのだろうか。



 神戸別院/兵庫教区教務所のユーチューブ・動画がまとめられているサイトは以下。
兵庫教区教務所 @Hongwanji-Kobe
 2024年2月28日朝現在、チャンネル登録者1010、動画67本。

 ここにあるように、主に法話等が中心で、別院・教務所の案内動画などもある。
 今日現在で、上の動画が一番再生されているらしい。
 

◎「きかせてお坊さん」を撮った背景。

 この動画は、2022年の1月頃に撮影したものだ。そこからさらにさかのぼること、数か月。2021年に神戸別院の職員さんから相談・依頼があった。「コロナ下で研修がオンライン研修会を実施するための教材動画を作りたい」(ざっくりいうとこんな企画)。

 オンラインに自分が話したものが、自分でコントロールできない中で残るというのは、あまり乗り気でない中であったけれど、依頼に到るまでのつながりやご一緒するメンバーとのかかわりもあって、お引き受けした。
 正直乗り気ではなかったのだが、やってよかったと思っている(ので、この話を披露している。笑)。主に担当してくださった職員さん、お2人のお人柄や、このお仕事に大変誠実に向かってくださっているのが伝わってきたので、動画を撮り終えて、その後、この動画を使って研修会を実際に実施したときにも、大変いい機会を持つことができたなぁと感じている。
 だから、やってよかったなぁというお仕事だった。

◎いい法話もたくさんある。

 最近では、法話をオンライン/youtubeで配信する形式もたくさん増えている。
 いい法話もたくさんあるので、お試しでも視聴してみてほしい。
 (話し手の巧拙や、相性や好みといったものもあろうと思うので、たくさんお試ししてほしい)
 私は自分が顔を出して話すということにあまり自信を持てないタイプなので、基本的にお断りか、「期間限定」でお願いしている。(例外もあるし、遊びで出しているものもある)




2024年2月24日土曜日

中学校給食を試食したこと

 2月22日の尼崎市教育委員会・定例会https://ryogo1977.blogspot.com/2024/02/222.htmlからのつづき 


 教育委員会定例会の後、昼食を兼ねて、徒歩でいける市内の中学校に行き、中学校給食の試食を行いました。

 尼崎市の中学校給食の取り組みについては、以下のページに情報がまとめられています。
 ⇒尼崎市「小学校・中学校・特別支援学校の給食 https://www.city.amagasaki.hyogo.jp/kosodate-kyoiku/school/primary/lunch/index.html 


 ⇒尼崎市「学校給食
https://www.city.amagasaki.hyogo.jp/kosodate-kyoiku/school/primary/lunch/103gakuho_kysyk.html

 画像は、この日いただいた給食。
 ごはん、豚肉のにんにく炒め、高野豆腐の卵とじ、はるさめサラダ、牛乳です。
 味は、うすあじにされているということでしたが、ダシが利いていて、おいしく感じました。

 給食センターの管理栄養士さん(だったと思う)の方の説明によると、ダシの削り節も入札によって業者さんが選ばれるそうです。そのため、業者さんの納品する削り節によって、ダシの具合も変わるとか。
 食材の調達一つでも、影響関係が複雑にあるだろうと思います。日々、事務局・職員のみなさんは、そういった調整も行われて、おそらく大変なことだろうと思います。



 これで1食、310円

昨今の物価高の影響は、この学校給食の食材費にも当然、及んでいます。
しかしながら、その食材費の上昇分は、市の財政で負担されて、保護者の支払う「給食費」は、今まで通りで行えるようにてあてがされています。また来年度以降、支払う給食費が上昇することがあっても、急激な上昇にならないように、一定公費で負担されることでゆるやかな変動になるように調整されることになると思われます。(この「思われる」という推測は、これまでの委員会での説明や、提出された議案の説明にもとづいています)

 「給食食材費の上昇分を本市が負担しますhttps://www.city.amagasaki.hyogo.jp/kosodate-kyoiku/school/primary/lunch/1032324.html


 このあと、その中学校の様子を見学させていただいて、総合教育会議の行われる市役所へと移動しました。

 続く

2024年2月23日金曜日

尼崎市 総合教育会議が開催されました。(2024年2月22日)

2月22日は午後から総合教育会議でした。(13:30~15:00)

 (参考リンク)総合教育会議について

  ・尼崎市「総合教育会議」
  ・文科省PDF
  ・wikiペディア「総合教育会議」

総合教育会議は、2014年の教育委員会の制度改革により設置された、地方自治体の長(つまり市長)と、教育委員を構成員として、教育行政について協議する会議です。

 今回の会議では、以下の議題が取り扱われました。

1 子どもの人権擁護の取組状況について

2 学びの多様化学校設置基本方針(素案)について

    3 その他 


 1は、市立高校などでの体罰事案を契機に、教育現場での体罰等について、毎年アンケートを行って、その回答とそれにもとづく聞き取りと、市教委の対応について報告するものです。

 2は、このたび令和8年度に、尼崎市に「学びの多様化学校」という、不登校対策の特例校を、市立中学校として設置することを目指すことになりました。その基本方針の素案を始めて提示・公開するというものになりました。

 会議で提示された内容は、上にあげている尼崎市の「総合教育会議」のページに、資料が提示されています。

 また、松本眞市長も、ご自身のnoteに思いを書かれています。

松本眞 市長 note
https://note.com/shinmatsumoto/n/nc9ce86b8b78c

 3のその他では遅延していた、いじめ重大事態に関する調査の進捗について報告がされました。

 こちらは、教育委員としてコメントする時間がありませんでしたが、大変関心をもっている問題です。前々回の総合教育会議で教育長から、報告のめどとして示された時期からも大変遅れてしまっています。稲村市長の時には「スピード感をもって対応する」と言われていましたが、第三者委員会の調査、調整に時間がかかり、ようやくに報告書が出されるというフィーズに入るような状況と聞いています。

 この報告書の遅れについては、問題意識をもって以前に教育委員会事務局に質問し、説明を聞きました。隠ぺいや怠惰ということはありませんが、それでもこのように報告が遅れて行くというのは、構造的に課題があるような思いがしています。このあたり、詳しい方とまた意見の交換などができればと望んでいるところではあります。


 


2月22日の尼崎市教育委員会・定例会

2月22日、尼崎市の教育委員会定例会に出席しました。 
 定例会は、平場の協議も含めて、10:00~11:50頃まででした。


 毎月第四月曜に定例会、その他随時、「臨時会」「協議会」などが開催されています。
 この日は、市長との総合教育会議が開催されるため、スケジュールを変更して、この日に定例会が開催されました。
 
 議案は以下の2件。
 (1)令和5年度尼崎市一般会計教育関係補正予算について(企画管理課)報告
   → 議会にかかる議案のため非公開
 (2)尼崎市学校運営協議会委員の委嘱について(社会教育課)協議・報告
   → 個人情報に触れるため非公開。

 そのほか、公開で
  ・「教育長の報告と委員協議」が行われました。

 公開の場面で、尼崎市の政策推進会議と、七市一町の教育長会議での議論の内容をお尋ねしたところ、他市での「学校体育館のエアコン設置」等の取り組みについて等が、話題にのぼったことを伺いました。
 
 先月にも、「体育館のエアコン設置」については、市でも課題を感じているものの、他に優先すべき工事や、課題がありなかなかそこには進めていないようなこともうかがっていました。
 「体育館にエアコン」というと、自分自身の小中学校の時代には、まだまだ考えられもしなかったことで、耳にしたときには正直驚きもありましたが、現在の学校環境については、そのように今に応じた施設環境の整備や取り組みが進められているものと理解しています。

 その他、2つの案件は、非公開のため詳細に触れることはここでは控えておこうと思います。ただ、「尼崎市学校運営協議会委員」というのは、いわゆるコミュニティスクールで、本市では、市内の小中学校の多くがこのコミュニティスクールが設置され、取り組みが進められています。
 
 ⇒ 尼崎市「コミュニティ・スクール(学校運営協議会)」
 
 また、定例会の閉会後には、継続して、数件「平場協議」として、教育委員会事務局で取り組まれている施策や、議会に諮る案件等についての協議が行われました。

 学校教育に身を置いているわけではない私が、どれほどふさわしいことができているか、力不足を感じながらも、できる限りのことはしているつもりです。
 また、知識やご存じのことなどがあれば、ぜひぜひお教えいただき、反映したり、考慮したりできればと思っています。読んでくださっている方のご理解・ご協力をぜひぜひよろしくお願いします。

 (給食の試食に続く)
【続き】「定例会ー総合教育会議の合間の昼食は、中学校給食の試食でした。」
https://ryogo1977.blogspot.com/2024/02/blog-post_24.html


2024年2月20日火曜日

ある火葬場で、お棺の運搬が全自動だったことに驚いた

◎某市の斎場はとてもきれいだった

 先日、お葬式をお勤めしたご縁で、少し離れた箕面市の火葬場に赴いた。
 前住職は来たことがあるそうだが、私は初めて足を運んだ。


 そこでのこと。「火屋勤行」をお勤めする際に、そこの係の人がお棺を炉の前室に運んでこられる。しかし、普段見慣れた光景と少し違っていた。

 お棺を運ぶ台車が、人の手ではなく機械が自動で動く、全自動式だったのだ。
 まったく人が手を触れていない。係りの人の手には、リモコンのようなスイッチはあるが、操作するわけではなく、勝手に動いているのだ。想像していなかった形式だったので、正直少々驚いた。

 ※ 箕面市のホームページには、「棺運搬車」の写真はないが、

お棺を運搬する台車は電磁誘導方式に依る「無人搬送システム」を採用しており、儀式の流れに従って無人で動き、設定された火葬炉に自動で納棺します。

 と書かれてある。
・箕面市「火葬施設について」
 https://www.city.minoh.lg.jp/seien/seien/kasousisetsu.html


 葬送のシステムの進展は著しい。
 進んだところではこんなことになっているのかと、驚いた。
 終わった後も、ご葬家と「全自動でしたね。驚きました」と感想をすこしお話したりもした。


◎全自動の棺をみたことにことよせて、初七日のお勤めのあとにお話ししたこと

 さて、その「全自動」のインパクトにことよせて、そのご葬儀の初七日のあと、次のようなお話をさせていただいた。あらためて、私自身が心に思ったことでもある。


 火葬場で、棺を運ぶ台車が、全自動だったのですこし驚きました。
 葬儀の形や道具はどんどんと変わっていきます。でも、どこかで「人の手をかける」ということも大事なことのように思うのです。

 全自動の棺運搬車がありましたが、お葬儀のあと、それから火葬場についてから、ご家族の皆さんで「棺」を持って運んでくださいましたよね。 葬儀屋さんがやってもいいのに、全自動の台車が運んでもいいのに、ご家族のみなさんの手で運ばれた。そこでいろいろなことを感じられたと思うのです。

 実際に棺を持ち上げて、その重みを感じること。お花を手向けて、故人のお顔や体に触れられること。そういう「作業」を、他人や機会に任せるのではなくて、自らがされる中で、思い出されること、感じられること、あるいは心の中で言葉や、約束ごとのやりとりがあるかもしれない。気持ちの整理ができたり、あるいは、あふれ出す感情があるかもしれない。

 お通夜、ご葬儀、火葬場でのお勤めや、さらにこの還骨のお勤め、初七日のお勤め、たくさんのお勤めをして、時間かけて、一つ一つ丁寧にお送りをしてきていただきました。
 それはもしかすると「しなくてもいいこと」なのかもしれませんが、一つ一つ、時間と手をかける中でしか、感じられない思いや、感情が、お葬式の中では大切なことなのかもしれないと思っています。

 機械にまかせること、業者さんにまかせること、あるいは私たち僧侶にまかせていただくことや、できることもあるかもしれませんが、一つ一つご一緒いただき、時間をかけて、てをかけていただいた中で、お送りのお勤めをさせていただいたなかで、感じられたこと、故人の言葉や、思い出や、約束されたことを、また大事にしていただきたいと思います。

 心寂しいとき、落ち着かないとき、あるいは故人を思い出されたとき、お仏壇のご本尊の前や、ひとり心落ち着けられる場所などで、どうそ心をお浄土の故人に向けていただく時間をまた大事にしていただけたらと思います。。。。(要旨・以下略)


 ともかくまあ、全自動の棺運搬車はインパクトがあった次第である。


ブログの収益を公開してみる。

 ここ3日、連続してブログを書きました。

 おかげさまで、たくさんの方が見に来てくださったので、以下の執筆料が入ってきました。

 このグーグルのブロガーには広告が表示されていて、見られた分なのか、クリックされた分なのか、その仕組みはよくわかりません。

 


 だいたい 1本 30円くらいの割合になります。3本書いたら、ご褒美にジュースを一本買えます。


 ※ 広告は、グーグルがフィルタリングして提示されていますが、クリックされると収益は増えるみたいです。


2024年2月19日月曜日

「すれちがい」が起こり続けるこの世界でどうするか。

 「すれちがい」というのは、往々にして起こるものである。

 言葉足らずや、ちょっとしたボタンの掛け違いみたいなもので、思ってもみない風に言葉が伝わったり、発したの意図とは全く違うものとして伝わってしまったりすることが、しばしばある。

 そして、そういった場合の多くは、「あ、そういう意味じゃなくて…」と修正したり、「(多少ズレっちゃったけどまあいいか)」みたいに心の中にとどめながら、会話がそのまま進んでいってしまうのではないだろうか。そして、そのいずれの場合も別に大きな問題へと展開することは、まあほとんどない。(たまにあるかもしれないが)

 しかし、中にはまったく違う前提を有しているが故に、言葉を重ねれば重ねるほどに、どんどんとズレが大きくなってしまうケースということもある。ここ数日、そういうケースをいくつか経験したようにおもっている。

 こちらが「そんな事実はないですよ」と言っていても「あるはずだ」という推測による前提が岩盤のように強固になっていたり、好意でかけた言葉や親切が「攻撃」のように受け取られてしまったり…。(以下、類似のケースはたくさんあるように思います)


 また、このブログでも、僕が葬儀の事について書くと、SNSの反応のなかには、お坊さんが葬儀について書いているものだから、結局「坊主は葬儀でお金もうけをすることばかり」と言われてしまったりする。それに対しては、「うーん。そんなつもりは毛頭ないのだが。(そもそも、お金を儲けるだけであれば、他にもっといい、批判されない手段もありそうである。)」と思いつつ、なんとか誤解が解けたらいいなぁと思っている。

 ただ、その誤解を是正して、こちらと同じまなざしにたってもらうのは、なかなか困難で、大変しんどいことであるだろうとも知っている。正直なところ、「うーん。そういう風に見えてしまうこともあるんだなぁ」と若干の落胆を感じてはいる。が、別段なにもしていない。


 しかし、こういった場合「わかんない人にはわかんないよ」と投げきってしまうこと、ある種の関係性を断ち切ってしまうことも一つの選択肢なのだろうけれど、それだけでもいけないような気もしている。それを極端にまで推し進めると、わかる人だけの同質性の枠の中に閉じ込もってしまうような気がするからだ。

 伝わらないこと、あるいはまったく違う見方が立ち上がっていると知れたことは、結構大事なことなのではないかと思っている。そこにもうちょっと向き合って、「どうやったらちゃんと伝わるのだろうか」とか、「どうしたら、こちらの問題意識をずれることなく理解してもらえるのだろうかなぁ」とか、「どうやったら誤解が生じないのかなぁ」とか、ぼんやりと考え続けている。

 なにか、そういう営みを経てこそ「伝わる」ということが起こってくるような気がしている。「わかる人だけに伝わる」のではなくて、「わからない人にも伝わる」方法を考えていかないと、同質性の穴にどんどんと落ち込んでいってしまうんじゃないだろうかと思ったりしている。

 本当の意味で、言葉を紡ぐこと、伝えるということをするということは、「伝わらなかった人に、どう伝えるか」という問いと向き合う必要があるような気がしているが、どうだろうか。



2024年2月18日日曜日

これから「葬儀」の形について考えてもいいはず(でも・・・)

昨日、葬儀について、ブログを書いた。

「 僧侶がなぜ「あの葬儀会社はよくない」という話ができないのか」
https://ryogo1977.blogspot.com/2024/02/blog-post.html


 近年、いろいろと教えていただいたり、情報交換をしたり、西正寺にもお話に来てくれたりしている池邊文香さんも、以下のような記事を投稿されている。参考までにご紹介しておきたい。

池邊文香氏(せいざん株式会社)note
「なぜ葬儀の高額請求トラブルは増えるのか?」https://note.com/seizanikebe/n/n9003d9ac44e5


  そもそも、葬儀の料金や宗教者へのお布施が高額すぎるのではないかというのは、以前からずっと言われ続けてきたことでもあるだろう。しかし、ある一面から見れば、過去の(ある特定の時期・時代)葬儀の規模や形式であれば一定の納得感があったものが、変化してしまったにもかかわらず、葬儀プランや、お布施の金額の規模だけが温存されてしまっているという問題もあるのではないかとも思っている。

 たとえば、町内や仕事の付き合いのある人など大勢が参列する葬儀、社葬等の一定の規模の葬儀であれは、祭壇を花で大きく飾り、盛大に葬儀をお勤めする意味は見出しやすい。
 また、参列者が香典を持参していたことは、葬儀に対する相互扶助の意味が少なからずあった。そういう意味では、過去のそういう時代の葬儀というのは、「個人」や「一家」という単位で出すものではなく、参列者も含めて、遺族・参列者、その他関係者が経済的にも協力し合って作り上げているものであったという見方ができる。

 しかし、「家族葬」という名と形式の流行で、その流れは大きく変わってきている。
 香典返し等の負担を軽減する目的もあるのかもしれないが、「お香典は遠慮」ということの方がスタンダードになりつつあり、形式も規模も、名目も葬儀は「家族」か「個人」のものになりつつある流れは、おそらく誰の目にも明らかなものだろう。

 そういう意味では、葬儀の参列者の規模も、経済的規模も、それまでの「コミュニティ」(町内・あるいは職業的な交際、会社関係名なども含めた)から、「ファミリー」的なものになっているといえる。

 葬儀にかかわる中で、肌感覚としては「コロナ」によって、それは不可逆な勢いで、一気に進んだように感じている。企業活動や大きな組織の活動であれば、大勢の人を集めることに違和感はないかもしれない。しかし、個人的なこと、家族的なこと(それは葬儀がもはやその枠内にあるという意味でも)に、「大勢の人を集める」ことは、どこか「いけないこと」であるような雰囲気を感じてしまっている人・社会になってしまったように感じている。


 ともかく、今書いたように、葬儀が規模の大きな「コミュニティ」としての営みだったものが、小さな規模の「ファミリー」的なものに移ろったにもかかわらず、葬儀にかかる費用の水準というのは、従来のそれからあまり推移していないのではないか。そのことに、もうすこし違和感をもつべきではないのだろうか。そんな風に考えてもいるのである。

 もっと、いろいろなやり方や、形式の見直しはあってしかるべきのような気がしている。
 (※文末に補足を書いている)

 葬儀の際に、僧侶(私)が司会の方のマイクによって、仰々しく紹介されて入場し、お勤めを終えると、また仰々しくお礼を言われながら退場し、厳粛に葬儀を勤められる形式も一定の意味はあるのだろうと思う。ただ、過去の形から変化した「ファミリー的な規模」で、あたたかく送るのであれば、また少し違った僧侶のアプローチや、かかわり方もあるはずだろうとも思っている。思っているが、思いつつも具体的にそれができるかというと、そうでもなく、悶々としているというのが、現状の現実でもある。(ごめんなさい)

(以上雑感)


(※)補足
 このように書いたが、しかし「葬儀」に関する寺・僧侶の負担は少なくないというのもまた事実である。日程的には突然に発生する緊急のスケジュールであり、それだけの「重み」があるのもまた「葬儀」というものである。もしほかの予定があれば、最優先で調整される。予定がなければないで、それまた貴重なはずの休日は返上ということになる。
 正直、葬儀の布施が多くの場合、お寺の経済的事情を左右するということも少なくない事実であり、その「経済的構造」や、「マンパワー的課題」みたいなものも、また現実重たい問題でもある。お寺側の問題ではあるが。


2024年2月17日土曜日

ブログを書いたり書かなかったり

このブログ、今年初の投稿が、今朝のものだった。
https://ryogo1977.blogspot.com/2024/02/blog-post.html

年明けから、下書きを書き始めては、途中で終わってというものが、いくつか繰り返されて、結局書きあげるまでには至らず、投稿もできずで止まってしまっていた。

書き上げる時間がなかったり、ゆったりと思考をめぐらす余裕がなかったりということも理由になるかもしれない。

十分ではないけれど、子どものお世話や家事に費やして「可処分時間」があるとすれば、一時に比べて、それはもう激減している。

本を読んだり、ものを考えたりする時間もなかなか持つことができない。

うむむ。こまった。しかしまぁ、そのままではいけないし、やらないといけないこともたくさんあるので、何とか頑張ってみようと思う。

(ということで、思いつくままに書きつらねた)


僧侶がなぜ「あの葬儀会社はよくない」という話ができないのか

 業界に詳しい知人と話していたこと。

 テレビCMなどでバンバンと流れている、さるグループ・系列の葬儀会社の実情がとてもひどいという話が流れてくる。

 具体的にはかけないが、内容がひどい、高額請求がひどい、うたい文句と実情がかけはなれている・・・など枚挙にいとまがない。
 
 一回限りの葬儀であるということや、葬儀形式の縮小等により葬儀経験が極めて少なくなっている現状(つまり、多くのケースが「初めての葬儀」に近い状況)により、比較対象がなく、なにがよくて、なにがよくないかわからない、という状況にも拍車をかけているように思う。

 じゃあぜんぶ、暴露してしまえばいいかというと、なかなかそういうわけにもいかない。
 お坊さんと葬儀会社の付き合いがあるんでしょ、と思われるかもしれないが、それは大したことではない。それだけならば、全部暴露してしまって、いい葬儀社・よくない葬儀社と、出してしまいたいくらいである。

 僕がそれをしない、できない理由は、「葬儀会社との関係」が理由ではなく、「その葬儀会社でご葬儀をした御門徒」が目の前にいるかもしれない(そして実際にいる)からなのだ。
 もし、具体的に「あそこの葬儀会社はひどかった」とか、「高かった、ぼったくりだった」とか、よくない評価を明確に下してしまったならば、その葬儀会社の評価だけではなく、その葬儀会社でおこなったご葬儀、ひいてはご遺族の葬儀にたいする想いや、その葬儀自体を「ひどいもの」として立ち上がらせてしまうことになる。
 その点を斟酌(しんしゃく)いただければ、事後的に「どこどこの葬儀がひどかった」という話が、僧侶・寺院側から明確に出されてこない理由もお分かりいただけるのではないだろうか。

(正直、こういう話自体―つまり、よくない葬儀会社があるということ、それを僧侶が内心でおもっているということ自体を表現すること自体―に、躊躇がないわけではない)

 とはいえ、こういう状況を放置していては、ますます「葬儀」をお勤めする意味は見失われ、仏教ばなれという状況になっていってしまうのだろう。葬儀へのコミットの仕方は考えなければいけない。

 現状何ができるかというと、葬儀については、信頼できるお寺・僧侶が身近にあれば/いれば、事前に一度相談するくらいはしてみておいてほしい。
 
 ※事前に葬儀会社に見積もりをとおもわれるかもしれない。しかし、ほかの業界でもそうかもしれないと思うが、よくない会社の見積もりは、見積もりの意味をなさないケースがあるので参考にならない。(もちろん、いい会社の見積もりはちゃんとしています。)
 つまり、「いい会社」と「よくない会社」が見極められている方は、この投稿は捨ておいていただいて結構です。

「宗教的な救い」とはなにか?

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