「すれちがい」というのは、往々にして起こるものである。
言葉足らずや、ちょっとしたボタンの掛け違いみたいなもので、思ってもみない風に言葉が伝わったり、発したの意図とは全く違うものとして伝わってしまったりすることが、しばしばある。
そして、そういった場合の多くは、「あ、そういう意味じゃなくて…」と修正したり、「(多少ズレっちゃったけどまあいいか)」みたいに心の中にとどめながら、会話がそのまま進んでいってしまうのではないだろうか。そして、そのいずれの場合も別に大きな問題へと展開することは、まあほとんどない。(たまにあるかもしれないが)
しかし、中にはまったく違う前提を有しているが故に、言葉を重ねれば重ねるほどに、どんどんとズレが大きくなってしまうケースということもある。ここ数日、そういうケースをいくつか経験したようにおもっている。
こちらが「そんな事実はないですよ」と言っていても「あるはずだ」という推測による前提が岩盤のように強固になっていたり、好意でかけた言葉や親切が「攻撃」のように受け取られてしまったり…。(以下、類似のケースはたくさんあるように思います)
また、このブログでも、僕が葬儀の事について書くと、SNSの反応のなかには、お坊さんが葬儀について書いているものだから、結局「坊主は葬儀でお金もうけをすることばかり」と言われてしまったりする。それに対しては、「うーん。そんなつもりは毛頭ないのだが。(そもそも、お金を儲けるだけであれば、他にもっといい、批判されない手段もありそうである。)」と思いつつ、なんとか誤解が解けたらいいなぁと思っている。
ただ、その誤解を是正して、こちらと同じまなざしにたってもらうのは、なかなか困難で、大変しんどいことであるだろうとも知っている。正直なところ、「うーん。そういう風に見えてしまうこともあるんだなぁ」と若干の落胆を感じてはいる。が、別段なにもしていない。
しかし、こういった場合「わかんない人にはわかんないよ」と投げきってしまうこと、ある種の関係性を断ち切ってしまうことも一つの選択肢なのだろうけれど、それだけでもいけないような気もしている。それを極端にまで推し進めると、わかる人だけの同質性の枠の中に閉じ込もってしまうような気がするからだ。
伝わらないこと、あるいはまったく違う見方が立ち上がっていると知れたことは、結構大事なことなのではないかと思っている。そこにもうちょっと向き合って、「どうやったらちゃんと伝わるのだろうか」とか、「どうしたら、こちらの問題意識をずれることなく理解してもらえるのだろうかなぁ」とか、「どうやったら誤解が生じないのかなぁ」とか、ぼんやりと考え続けている。
なにか、そういう営みを経てこそ「伝わる」ということが起こってくるような気がしている。「わかる人だけに伝わる」のではなくて、「わからない人にも伝わる」方法を考えていかないと、同質性の穴にどんどんと落ち込んでいってしまうんじゃないだろうかと思ったりしている。
本当の意味で、言葉を紡ぐこと、伝えるということをするということは、「伝わらなかった人に、どう伝えるか」という問いと向き合う必要があるような気がしているが、どうだろうか。
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