2009年9月30日水曜日

生きているのか、死んでいるのか(2)「死ぬということ」

「死」ということもあいまいだ。

いわゆる「死」を迎えたという状態は、「心臓が止まり」「呼吸がなくなり」「瞳孔が開き」…ということなどで、判断するらしい。医学的・法律的にはそれを「死」とするらしい。
 でも、それはあくまで「医学的」「法律的」に判断されたのであって、はるか昔から絶対的にその定義が適応されてきたわけではない。
 事実、今は「脳死」として、心臓が動き、呼吸をしていても、「脳」の状態によって、「死んだことにしよう」とされ、それを死と認められつつある。しかしそれは、それまでは「まだ死ではなかった状態」を「もう死んだことにしてしまおう」という、「死の前倒し」である。 

 臓器移植などの都合もあるが、そこで暴き出されたことの一つは、
 「死」に対する医学による判断も、法律による判断も、結局は絶対的なものではなくて、便宜上、判断されたにすぎないのだ。

 他のだれかから「もう死にましたよ」といわれて、その瞬間に、「生きていた者」として扱っていた人を、「死んでしまった人」として扱わなければならないなんていう、境界線なんてあるんだろうか。
 生死って、そんなにびっしりと線引きされるものではないんじゃないか。

2009年9月28日月曜日

生きているのか、死んでいるのか(1)「生まれること」

 法事のお勤めのことなどを考えていたときのつれづれ。

 「生」とか「死」とか、考えてみると、実はその定義は、あたりまえのようで、実はかならずしも自明のことではないと思う。いや、むしろ定義自体は非常に明確でありながら、「かならずしも絶対的なものではない」というべきか。

 そもそも僕らはどこから「生まれた」といわれる状態になったのだろうか。
 法律的に「生まれた」のは、母親のおなかの中から出てきて、見かけ上、独立した個体と認識されるようになったときだろう。(これが明確な社会的な定義だろう)

 しかし、それ以前から心臓や脳は個人のものとして活動しているのだろうし、両親やまわりの人たちは、「新しい命」として認識している。もし、なにかしらの事情があって、無事に生まれなかったとしても「一つの失われた命」として扱うのではないだろうか。(これが、「絶対的なものではない」と思うこと)
 じゃあ、受精して着床してということころが、いのちのはじまりかというと、そうとばかりは言えないようにも思う。これは、生まれて事後的に感じることかもしれないが、両親の遺伝情報や、健康状態、薬物の影響あるいは根本的な体質自体など、妊娠以前の状態も生まれてくる子に影響があるんじゃないだろうか。
 明確に、ぶっつりと独立した個人として、まわりの何者にも影響されることなく誕生するのではなく、あくまでも「生まれる」といいつつも、諸条件のつながりのなかでうまれ、いつ「生まれた」といったとしても、その「生まれた」というよりも以前の条件をその身に引き受けている。

 そういった「つながり」を失うことができずに生まれてくるのであれば、全く独立した別箇の個人として「生まれた」と明確に線引きすることは、できないんじゃないかと思う。「生まれた」とは、非常にぼんやりとしたところでしかないのではないか。

 赤ちゃんが生まれたり、生まれると分ったときの感動は、想像だにできないし、「生まれる」「生まれた」と上と矛盾したかのような思いを持つんだろうと思う。
 でも、法律とか、社会的な通念で、「今生まれた」と固定的に線引きして、それでよしとすることには、何か耐え難い抵抗を覚える。それでよしとしてしまうと、つながり的なものもぷっつりと断ち切って、個人主義的な思想に与してしまうようにも思える。
 
 誤解の無いように言っておけば、社会的に「生まれた」と認識されることについては、何の問題ももっていない。でも、自分の生命の実相をどう見るかと考えたならば、その定義自体は常に、疑われざるを得ないんだろうということ。
「便宜上」どこかで限定的に考えてしまわざるを得ないとしても。

2009年9月22日火曜日

自我を超える。

 仏教とは、その教えによって「自分」という枠を超えていく道ということができるかもしれないと考えている。

 自分は、自分以外のほかの多くとの関わりの中で成り立っていて、それまで「自分」と呼んでいたものを、より大きなつながりの中でとらえていくことが教えられていく。

 たとえば、僕は天気にさえ左右される。
 晴れた日には明るく、晴れた日なりの気持ちになり、
 雨の日には、ちょっと陰鬱な、湿った気持ちになり、
 曇りの日には、曇りの日なりの。

 そう、触れ合うものとの関わりのなかで、心がうつろい、行動が規定され、自分という感覚が立ち上げられてくる。
 身近な人の状態や、ただすれ違っただけの人の行動で、「自分」がまた変化を起こされていく。
 そういう自分だったと気づいていく。
 いままで自分ならざるものであったものさえも、自分を形成し、自分そのものであったと認識せざるを得ないような世界を示しているように思う。


もちろん、それも仏教のすべてというのではなく、ほんの一面の把握としてであるけれど・・・。

  

2009年9月21日月曜日

結婚披露宴@名古屋

大学院の後輩の結婚披露宴。
ご招待頂いていたので、午前中の法務を終えて、新大阪から13時40分の新幹線に乗って名古屋へ。
一時間弱で、もう名古屋。新幹線て、やはり速いねぇ・・・。

名古屋駅前の式場で15時から披露宴。
いつものダイゴさんと一緒に出席。

お久しぶりのお顔にも会うことができて、楽しい一日でした。
あさって入籍する人とか、来年一月に結婚しますとか。

そういうのって重なるものでしょうか?
結婚の波、再来?

ともかく、おめでとうございました。
これからの方々も、おめでとうございます。

2009年9月18日金曜日

ヤギを飼いたい

 境内のちょっとした空き地に草がボーボー。
 母が草引きをするけど、ときどきなので追いつかず。
 先日、法要があるからと、草引きを頼まれる。近くのホームセンターで、雑草刈り用のバリカンを買って、
えっちらおっちらと、草刈りをする。

 しばらくまえから考えていること。

 ヤギでも飼って、草を食べてもらえばいいんだ。

 ヤギは、きっと近所の人にもかわいがってもらえるし、
 ヤギ目当てでお寺に遊びに来る人もいるだろうし、メリットはたくさん。

 ネットでヤギをどこかで分けてもらえないかと調べてみると、北海道では、犬より安い値段で分けてもらえるようだ。

 
 さらに見ていると、最近はヤギのレンタルというのもあるらしい。
 しかも除草用に。
 同じようなことを考える人もいるもんだ。

 http://mainichi.jp/select/biz/news/20090828ddm008020054000c.html
 でも、九州か。弟の婿入り先の近くだな。
 大阪近辺ではやってくれないかな。
 レンタルだったら、お手軽でいいな。草の生えているときだけ、
 「ヤギさん、ちょっと来てください。」
 「いつものように、草お願いしますね」

 なんて。




追伸:
ウサギで実験している人を発見!
http://greenlifelabo.blogspot.com/2009/06/blog-post_23.html

2009年9月15日火曜日

大忙しの後

例のごとく、しばらくぶりのブログのUP

八月末からの二週間ばかりは、なんだかあわただしい期間でした。

8/28-8/31
28日 NHKの講座を終えた足で北海道へ。
29日 北海道インド哲学仏教学会では発表。
30日 余市・積丹半島(神威岬など)を観光。(ちょっと休日)
31日 帰る。

9/1-9/6
次の学会の準備。
担当している部会の会議。
ちょっとした不調で病院へ。
合気道の審査のため稽古をサボるわけにはいかず。

9/7-9/13
9/7学会発表の準備とか
9/8,9/9 印度学仏教学会。二日目に発表。
9/10-9/11 得度習礼へ、講義をしに。(初体験)
9/12-9/13 久しぶりの法務。

いろいろと気がついたこと、反省したこともありますが、
ちょっとあわただしい期間が過ぎたので、しばらくちょっと好きなことをする時間をとるのもいいかなと思いつつ。

といっていたら、もうすぐお彼岸。
後輩の結婚式やら、法座の出講やらの予定を聞いていました。
いろいろと準備せねば。。。。

      

「宗教的な救い」とはなにか?

・先週は宮崎先生と対談でした  先週の土曜日 4月13日の午後は、相愛大学の企画で、宮崎哲弥先生の講義にゲストスピーカー・対談相手として、登壇させていただく機会を得ました。  以前このブログでもご案内していたこちらです。  【登壇情報】宮崎哲弥先生と対談します。 https://...