2011年3月24日木曜日

永代経一日目

自坊・西正寺の春の永代経法要。
今年は、3月23日、24日の両日勤まる。今日は第一日目。

御講師は、伊東順浩 師。
遠く、山口県宇部より、お越しいただく。
丁寧な、暖かいお取り次ぎで、御法話をいただく。

法要後、先生と夕食をご一緒する。
お寺のこと、法座のこと、いろいろとお話しさせていただく。

御法話といい、会食の話といい、
いろいろと勉強させていただける、刺激的な一日。
来ていていただいてよかったと思う。

明日も、一日お取り次ぎいただく。

伊東先生のお寺のホームページ
http://renkoji.rexw.jp/index.html

こちらにも、御法話が掲載されているので、ぜひぜひごらんされたし。

2011年3月21日月曜日

正覚寺さま彼岸会法要

平成23年3月21日(月)
今日は、新大阪近くの正覚寺さまにて、彼岸会のご縁をいただいて、法話に参上。
去年、一昨年につづいて、三年連続でご縁をいただいている。

寄せていただくたびに、楽しい雰囲気のあるお寺で楽しい。
ご住職ご家族一同、みなさま明るくて楽しいお寺。
寺族の雰囲気が、お参りのみなさんの雰囲気も、お寺全体の雰囲気も作っているようにも思われる。

今回は、お彼岸ももちろん、先般の地震についてもすこしふれてお取り次ぎさせていただく。


親鸞聖人のご消息に次のような言葉がある。
地震のことを振り返って、ふと思い返された。

「なによりも、去年・今年、老少男女おほくのひとびとの、死にあひて候ふらんことこそ、あはれに候へ。ただし生死無常のことわり、くはしく如来の説きおかせおはしまして候ふうへは、おどろきおぼしめすべからず候ふ。」(『親鸞聖人御消息』)

わたしたちは、どのようなことにであうかわからない人生を生きている。なにがおこるかわからない、どのような不幸に出あうかわからない。どのような苦しみに出あうかわからない。
そのような人生を歩んでいるのだ「生死無常のことわり」を、お釈迦様は説かれていた。

今回の地震、信じられないようなことで、とても受け入れらないようなことで・・・。
でも、お釈迦様は、そんなことがおこる人生だよ、とすでに説かれていたのだ。

2011年3月15日火曜日

駒崎弘樹『社会を変えるお金の使い方』

駒崎弘樹『「社会を変える」お金の使い方――投票としての寄付 投資としての寄付』

 東北の地震・津波の被害に、なにかできることをしたいと思いつつ過ごしている。
目下の所、やはり「寄付」がリストの最上位にあげられる。
これを機に、なにかしたいと思っている人たちの気持ちと力をくみ取れる何かも構築できればと思っている。

そんなこんなで、今日、本屋に立ち寄ったときに目について、購入した本。
インスピレーションの通り、いい内容の本だと思った。
知らないこともたくさんあって、勉強になった。

 フローレンスという「病児保育」の活動をするNPOの代表の著書。
 「病児保育」とは、「子どもが熱を出したり、風邪を引いたりしたときに、保育園に代わって子どもたちを預かる事業」。
 普通の保育園では、熱を出した子どもは預かってもらえない。子どもが熱を出すと、共働きや母子家庭のお母さんなどは、仕事を休まざるを得ない。そうなると、やはり働く上で問題になって・・・。

 ちょうど、今日職場で同様のことがあったので、彼女にも紹介したい本だ。
 そのNPOの活動が寄付によって、運営されるまでの経緯を紹介し、そもそも寄付とはなにか、日本社会における寄付によって開かれてくる可能性が書かれている。
 

「いいか、駒ちゃん。それが普通の人間の考えだ。大部分の、成功から程遠い人間のな。余裕が内から、人には与えない。余裕ができたら、人に与えよう。こういうやつは、実はいつまでたっても与えることなんて、しないんだ。余裕なんて、いつまでたっても生まれない。年収三〇〇万のやつは、年収五〇〇万になるまで余裕がないと感じるし、年収五〇〇万になったら、今度は隣の年収一〇〇〇万のやつが羨ましくなって、そうなるまで自分は一人前じゃないと感じる。一〇〇〇万になっても、子どもがまだ高校生でお金がかかるから、とか、老後が心配だからとか……。キリがねぇ。」(p. 57)
 思っていてもなかなか踏み出せない、自分に向けられた言葉のようだ。

 もう、お風呂に入るので、急いで書いたので、言葉足らず・・・。





2011年3月13日日曜日

まずは情報

帰宅してから、テレビを見ている。
すこしづつ、新しい情報や、緊急の地震警報が流される。

いまは、何かを解決していく段階ではなく、
何が起こっているのかを知る段階。

緊急なことは、

・被災者を保護すること。
・原発などの二次被害が起きないように対処すること。

応急の処置と情報の獲得。

テレビを見ながら何もできない自分を感じる。
でも、実は情報を得ていくということが、唯一のできることなのではないかとも思う。

ツイッターなどでも、有効な情報や対応策が流されている。
そういう可能な、邪魔にならない情報提供も大事。


追記:
情報を得すぎないことも、一つのお役立ちかもしれない
→  http://mblg.tv/enokiiii/entry/7

2011年3月12日土曜日

長崎空港にて

現在地:長崎空港。 17:50の大阪行きに搭乗予定。待機中。

大学院の先輩の結婚披露宴で、昨日から、こちらに。
披露宴開式直前。例の地震の知らせをうける。

夕刻、テレビを見て、これほどまでにひどい状況になっているとは思わず、驚く。
形容する言葉が見当たらない。

津波にさらわれて、一度に大勢の人が亡くなった。

東北に続いて、長野・新潟、茨城・福島でも大規模な地震が発生。
テレビはずっと非常事態の体制で報道し続けている。

見ていると、日本はどうなってしまうんだろうと、不安になる。

なにができるんだろう。
なにをすべきなんだろう。
どう振る舞うべきなんだろう。

なにもわからないような気持ちになる。

2011年3月11日金曜日

ドーナツみたいだという理論

昨日はお誘いをいただいて、夕方から坐禅を大事にされる宗派のお坊さんと会食。
宗派の活動や、自分たちの活動などについて意見交換などをする。

いろいろと面白いことも伺う。
その方がおっしゃっていたことで、興味深かったのは、
仕事のやりがいとかおもしろみを感じる場面として、
「そんなことできるんですか?」と言わせるのが楽しいということ。

違う立場の人たちの意見や目的を把握して、
その橋渡しをすると、思っても見ない道が開けるという。
そんなときに、「そんなことできるんですか?」という声が上がるという。

違う立場の人たちの意見や目的を把握できているからこそ、
見えてくる道があるという。


あと、宗教的な本質なんてものは、つかみようが無くて、
さまざまな形で表れてくる、諸相でしか見ようがないのだという話もあった。
いわばドーナツのような。
本質的なものは、ドーナツの真ん中の輪。
さまざまな諸相は、ドーナツのあげパンの部分。



最近ちょっと頭の周りがいまいち。
雑念が多くて、集中力とか、思考に費やすリソースが浪費されているような感覚。

2011年3月5日土曜日

ミーティング

気がつくと、もう3月が3分の1終わろうとしている。
あっという間に時間が経つ。


今日はミーティングが二つ。
朝は、研究所の業務のミーティング。数ヶ月蓄積してきたことがだんだんと形になっている。
ここでもうひと練りして、満足行く形に仕上げたい。

夕方からは、有志で企画しているイベントのミーティング。
背負うものもなく、比較的気軽な感じで、進めていける企画で、いい感じだ。
違う背景をもって、考え方もいろいろなはずなのに、ほとんど衝突もなく考え方を共有できている。
なかなかレアな空間だと思う。

「宗教的な救い」とはなにか?

・先週は宮崎先生と対談でした  先週の土曜日 4月13日の午後は、相愛大学の企画で、宮崎哲弥先生の講義にゲストスピーカー・対談相手として、登壇させていただく機会を得ました。  以前このブログでもご案内していたこちらです。  【登壇情報】宮崎哲弥先生と対談します。 https://...