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ある火葬場で、お棺の運搬が全自動だったことに驚いた

◎某市の斎場はとてもきれいだった  先日、お葬式をお勤めしたご縁で、少し離れた箕面市の火葬場に赴いた。  前住職は来たことがあるそうだが、私は初めて足を運んだ。  そこでのこと。「火屋勤行」をお勤めする際に、そこの係の人がお棺を炉の前室に運んでこられる。しかし、普段見慣れた光景と少し違っていた。  お棺を運ぶ台車が、人の手ではなく機械が自動で動く、全自動式だったのだ。  まったく人が手を触れていない。係りの人の手には、リモコンのようなスイッチはあるが、操作するわけではなく、勝手に動いているのだ。想像していなかった形式だったので、正直少々驚いた。  ※ 箕面市のホームページには、「棺運搬車」の写真はないが、 お棺を運搬する台車は電磁誘導方式に依る「無人搬送システム」を採用しており、儀式の流れに従って無人で動き、設定された火葬炉に自動で納棺します。  と書かれてある。 ・箕面市「火葬施設について」   https://www.city.minoh.lg.jp/seien/seien/kasousisetsu.html  葬送のシステムの進展は著しい。  進んだところではこんなことになっているのかと、驚いた。  終わった後も、ご葬家と「全自動でしたね。驚きました」と感想をすこしお話したりもした。 ◎全自動の棺をみたことにことよせて、初七日のお勤めのあとにお話ししたこと  さて、その「全自動」のインパクトにことよせて、そのご葬儀の初七日のあと、次のようなお話をさせていただいた。あらためて、私自身が心に思ったことでもある。  火葬場で、棺を運ぶ台車が、全自動だったのですこし驚きました。  葬儀の形や道具はどんどんと変わっていきます。でも、どこかで「人の手をかける」ということも大事なことのように思うのです。  全自動の棺運搬車がありましたが、お葬儀のあと、それから火葬場についてから、ご家族の皆さんで「棺」を持って運んでくださいましたよね。 葬儀屋さんがやってもいいのに、全自動の台車が運んでもいいのに、ご家族のみなさんの手で運ばれた。そこでいろいろなことを感じられたと思うのです。  実際に棺を持ち上げて、その重みを感じること。お花を手向けて、故人のお顔や体に触れられること。そういう「作業」を、他人や機会に任せるのではなくて、自らがされる中で、思い出されること、感じられること、ある...

これから「葬儀」の形について考えてもいいはず(でも・・・)

昨日、葬儀について、ブログを書いた。 「 僧侶がなぜ「あの葬儀会社はよくない」という話ができないのか」 https://ryogo1977.blogspot.com/2024/02/blog-post.html  近年、いろいろと教えていただいたり、情報交換をしたり、西正寺にもお話に来てくれたりしている池邊文香さんも、以下のような記事を投稿されている。参考までにご紹介しておきたい。 池邊文香氏(せいざん株式会社)note 「なぜ葬儀の高額請求トラブルは増えるのか?」 https://note.com/seizanikebe/n/n9003d9ac44e5   そもそも、葬儀の料金や宗教者へのお布施が高額すぎるのではないかというのは、以前からずっと言われ続けてきたことでもあるだろう。しかし、ある一面から見れば、過去の(ある特定の時期・時代)葬儀の規模や形式であれば一定の納得感があったものが、変化してしまったにもかかわらず、葬儀プランや、お布施の金額の規模だけが温存されてしまっているという問題もあるのではないかとも思っている。  たとえば、町内や仕事の付き合いのある人など大勢が参列する葬儀、社葬等の一定の規模の葬儀であれは、祭壇を花で大きく飾り、盛大に葬儀をお勤めする意味は見出しやすい。  また、参列者が香典を持参していたことは、葬儀に対する相互扶助の意味が少なからずあった。そういう意味では、過去のそういう時代の葬儀というのは、「個人」や「一家」という単位で出すものではなく、参列者も含めて、遺族・参列者、その他関係者が経済的にも協力し合って作り上げているものであったという見方ができる。  しかし、「家族葬」という名と形式の流行で、その流れは大きく変わってきている。  香典返し等の負担を軽減する目的もあるのかもしれないが、「お香典は遠慮」ということの方がスタンダードになりつつあり、形式も規模も、名目も葬儀は「家族」か「個人」のものになりつつある流れは、おそらく誰の目にも明らかなものだろう。  そういう意味では、葬儀の参列者の規模も、経済的規模も、それまでの「コミュニティ」(町内・あるいは職業的な交際、会社関係名なども含めた)から、「ファミリー」的なものになっているといえる。  葬儀にかかわる中で、肌感覚としては「コロナ」によって、それは不可逆な勢いで、一気に進んだように感...

割と困る質問:「永代供養ってしてもらえますか?」(その2)

 割と困る質問:「永代供養ってしてもらえますか?」(その1) からの続きです 「永代供養ってしてもらえますか?」という質問の悩ましさは、上に書いたその意味が多義的ということのほかにも、悩ましさがある。 ◎ 「永代供養したから、お経をあげる」というわけではない。  永代供養したから、その方のご供養はお引き受けしましたよ、というように請け合えるかというとそうではないのだ。「永代供養しても、してもらえないのか?」というと、むしろ逆で、 「永代供養されても、しなくても、お勤めはする」 のである。  あくまでも、私の場合、今の 西正寺 の場合は、という前提がつくものではあるが、以下のような考えをしている。  西正寺の合同墓に納骨された方で、(仮にこの言葉を使うが)「永代供養」を依頼され、懇志を収められた方だけお勤めし、そうではない方はしない、みたいなことができるかというと、そのような器用なことはできないわけである。  あるいは、永代供養の懇志・お布施の額に見合ったことをそれぞれするかというと、またその金額に応じてどうこうということもできない。  要は、合同墓に納骨されると、永代供養したからどうこうということはなく、皆同じようにお参りされ、お勤めさせていただくことになるのだろうということである。  なので、特別に「永代供養」どうこうといわれると違和感が生じるというのは、永代供養したから、しなかったからというところに、なにか変な差があるようなニュアンスが生まれてしまうのではないかというところにもある。  ◎「永代」(永遠)を保証するのもむずかしいよね、ということもある。  「それをいっちゃあおしまいよ」といわれるかもしれないが、正直「永代」「永遠」のお勤めを請け負い難いということもある。いつかはおわりがくるし、諸行無常の理(ことわり)を説き続けてきた仏教が、「永代」ってそんなに簡単に保証できるの?というような思いも正直している。   wikiペディア「永代供養」 の項目は割と親切な記述だったりしていると思う。(「… 言葉どおりの「永代」ではない。 また、霊園の 倒産 、寺院の廃寺などにより墓が消滅に追い込まれることもあり、この「永代」も保証されるわけではない。 」というあたり )  もちろん、現行、西正寺では年忌を区切るということをしていないので、お寺が続く限りお勤めはさ...

割と困る質問:「永代供養ってしてもらえますか?」(その1)

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◎墓じまいの流れ  お寺に合同墓を建ててから数年。  今年に入って、急激に増えている問い合わせが、「墓じまい」に関することがらである。  うちくらいのお寺でも、境内墓地で数基がなくなり、市内・市街でも数件、いわゆる「墓じまい」のお勤めを行った。  今日もお寺にいると、午後から立て続けに2件の来寺・ご相談があった。  もうそれだけ、お墓が維持されなくなっているということなのだろう。  そして、その流れの加速度合いはかなり急激にやってきているような感覚を持っている。 (西正寺の合同墓)  →西正寺ホームページ 合同墓の説明 ◎割と困る質問が「永代供養ってしてもらえますか?」。  それに関連して、よく聞かれるのが、「 永代供養ってしてもらえますか? 」というものだ。しかし、この問い、いつも「なんて答えたらいいんだろう?」って悩ましかったりするのだ。  なので、「はい!永代供養しますよ!」なんて、ハッキリ答えたことは、1度もない。(できない) 聞かれるたびに、「うーん、えーっと・・・」と、ごもごもし始めてしまう。  理由はシンプルで、「永代供養してもらえますか?」という質問が、何を意味しているのかが、明確ではないからである。あるいは、その言葉を使われるたびに、先方が意図されていること、あるいはこちらが意図していることが、すれちがっていってしまいそうな気がしている。 ◎大部分が「墓じまい」/「改葬」だったりする。  正直、多くのケースがいわゆる「墓じまい」、あるいはそもそもお墓をもたないという選択をされて合同墓等に収めたいというご希望だということは承知している。そうわかっているけれども、それをどうも、「永代供養」というようには呼び難いのだ。  「永代供養」といわれてしまうと、上に意図がすれちがっていってしまいそうだと書いたのは、この語が、はなはだ多義的である、ということが第一の理由でもある。  例えば、次のようなケースがざっと想定される。  (1)いわゆる「墓じまい」のケース  これまで護持されてきたお墓を維持できなくなり、お墓を撤去し、お骨の埋葬場所をあらためたいというケース。その場合に、お骨の引き受け先になってもらえますか?的なニュアンスで「永代供養してもらえますか?」と聞かれることがある。  これは、「墓じまいするので、(西正寺の場合)合同墓に納骨できますか?」というお...

9月2日(金)お墓のおつとめ・サマセミのアンケート入力作業

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(西正寺にある合同墓のようす) 9月2日(金)晴れ。  午前中のお参りに、お墓でのおつとめがあった。お墓を撤去されるので、その工事の前にお墓の改築に際しておつとめ。  西正寺境内にある、とあるお墓。ご両親が亡くなられ、娘さんは結婚され別の名字になっていらっしゃる。またお孫さんたちは結婚され、また別のお名前にというように、あとを継がれる方がいらっしゃらなくなるような状況で、いわゆる「墓じまい」をなさるわけである。収められていたお骨は、西正寺の「合同墓」(上の写真)にあらためて納骨される。  西正寺では、2018年に合同墓を建立し、ご縁の方の納骨をしていただけるようにしている。  (2018年11月30日 西正寺合同墓 建碑記念法要のようす)   この日のおつとめのあと、おうちの方とお話している中で伺ったこと。 「お寺で合同墓をつくってもらえて、本当によかった。」「墓じまいをする踏ん切りがつけられた。」「お寺でこうやってお参りしてもらえるから安心」等。  このようなお声がいただけるのはありがたいこと。お寺のとりくみが、いろいろな安心につながっていると聞かせてもらえるのは本当にうれしい。    実際にここ数年、いわゆる「墓じまい」の相談やおつとめは多い。  石のお墓を持つということが、多くの人には難しい社会・暮らしになっているのだろう。 ずっと代々一か所に定住する形が主な形ではなくなってきたこと。これから人口が減っていくとともに、いわゆる「家」や、家名を存続していくことが難しくなるおうちも増えてくるのは必然となっている。お墓のかたちも、葬送の形もかわっていくことは、同じく必然なのだろう。  すべてに対応することは難しいけれども、ちゃんと丁寧に向き合える準備をしていきたい。  (お寺の境内にある柿の木。実が少しづつ色づき始めている) ◎みんなのサマーセミナー実行委員会 ・ サマセミアンケートの入力  18:00。みんなのサマーセミナー実行委員会の活動。 立花南生涯学習プラザに集合して、サマセミのアンケート入力と、感謝祭開催の準備作業。みんなそれぞれ仕事終わりなどに、順次集まってきて、わいわいといいながら、アンケートの入力など作業を行う。  雑談や、世間話もしながら(というか、それが大半)、あーだ、こーだいいながら作業。  3時間くらいかかるかもーと言っていた作業が、人手が多...

8月24日(水) 住職継職奉告法要の会議をするなど

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 8月24日水曜日 晴れ。  月参りとお葬儀のおつとめ。  故人は、古くからお寺とお付き合いの深かった御門徒のおうちの方。いろいろな思い出とともにお送りをする。  午後、資料作りやもろもろの調整の作業をし、15:00から「住職継職奉告法要実行委員会」。11月3日に、住職継職奉告法要を予定している。2020年5月に予定し、延期・再延期を経て、3度目の正直のような、開催を目指して準備しているところ。  16名ほどの御門徒が実行委員として会議に参加してくださっている。今回は、前回からの進捗、記念品や発注内容の確認、現在の参加の返信数の報告、そして、当日のタイムスケジュール(大枠)の報告等を行った。  大きな議題もなく、時間を割いて集まっていただくことに恐縮な思いもあるが、マイルストーン的にこういう会議を持たせてもらうことで、自分自身の準備作業の動因にもなり、進捗確認にもなるので、非常にありがたい。(本当に、進捗確認になり、ありがたい。大事なことなので、2度言う。)  細かな疑問や、調整が必要な指摘もあり、やはり投げかけて相談すること、一人では見えない視点をもらうことは大事だとも感じる会議だった。西正寺の御門徒のみなさん、本当にサポーティブなかかわりをしてくださっている。ありがとうございます。 (これは、先月(7月)に案内状の発送作業をしてくださっているときの様子)  会議後、会場の片づけ等をして、通夜のおつとめに。  お参り→葬儀→会議→通夜というスケジュール。当初予定以上に詰まってしまったが、務めをひとつひとつ務めとして行っていきたい。    故人は、父の同級生で幼馴染のような方。小さいときにはよく一緒に遊び、中学校は毎日一緒に登校していたという。ご家族とのあいさつのときにも、そのお話を共有させていただいた。お通夜のおつとめをしながら、故人のこと、ご家族・参列の方のことを思うとともに、翌日の葬儀で導師を務める前住職(父)は、どのような思いで故人と向き合うのだろうか、などとも思う。 とはいえ、あらためて直接聞くようなことはしないが、そんなふうな問いが頭に浮かぶ。  通夜を終えて、お寺に戻った後、葬儀の準備。それから翌・25日にある布教使課程での講義の準備。これはひとえに自分の怠慢であるが、資料の準備があまり進められていなかったために、12時を過ぎるまで、どうしようか、こう...

8月8日(月)いろいろお参りと葬儀・法事の仏事で思っていること

  8月8日月曜日。尼崎は快晴で暑い。定番のあいさつが「こんにちは、暑いですねー」だ。   SNSのタイムラインを埋めようとするサマセミの投稿は一日たっても続いている。  朝、家事して、お参り。月参り、お盆参り、法事のお参り。来週あたりにかけて、徐々に「お盆のおまいり」のピークがやってくる。(あまり)お待たせせずにお参りにお伺いするために、細やかなスケジュールと調整が必要になってくる時期。  12:00 法事(四十九日法要)のおつとめ。すこし珍しく、伊丹市のホテルを会場にした法事のおつとめ。ホテルの前には、甲子園出場校2校の宿泊先である表示。ふむふむ。こちらにご宿泊なのですね。がんばってください。  14:00過ぎ、いったんのお参りを終えてお寺に戻る。あまさきさん(スタッフ)と、8月・9月の行事のうちあわや、事務作業。  19:00、お通夜のおつとめに行き、帰宅後、明日の葬儀の準備をして、終了。  (その後は、家事等) ◎   今日のお通夜や49日法要等、お別れに関わるおつとめや、それからあまり時間がたっていない法要では、いつもなにができるのだろうか、と思いながらそこにいる。(これは結構なお坊さんが感じているのではないだろうか)  僕自身は、できうる限り丁寧におつとめをすること、お気持ちに添えるようなお話ができること、無理のない「会話」が法要前後にできること等といったことを心掛けたりはしている。    ただ、今日もいくつかのお参り、おつとめでそうだったように、おつとめのなかに涙されたり、「やっぱり思い出しちゃってだめですね」といった言葉をいただくと、不用意に「悲しみ」を膨らませたりしていなかったかと、反省・振り返りをすることともないわけではない。(今日の場合は決してそうではないと思っているのだけれど)  「儀式」をなすことの意味や、お坊さんとしてその場その場で、一つ一つのおつとめでお話すること、ということについては、ずっと考えていくのだろうと思う。ただ、お盆という時期は、お参りのみなさんが仏事によりいっそう心が向いていく時期でもあるので、センシティブで、敏感にならざるを得ない時期でもあるように思う。  ただ、それに比例する形で、お寺・お坊さん側のスケジュールは過密化していきがちなので、きめ細やかな対応が、求められるときに限ってしにくい、というジレンマにも陥いるのかも...

「應典院ポスト20年プラン」の発表を聞いて

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先に記事を上げた應典院の20周年シンポジウム。( https://ryogo1977.blogspot.jp/2018/03/20.html ) その最後に、秋田住職から「應典院ポスト20年プラン」の発表があった。 「葬式をしないお寺應典院が葬式をしたらどうなるのか」、「葬送に取り組みたい」ということだった。  秋田住職の言葉によれば、  ・親寺の大蓮寺でのご葬儀などから貧困のご家庭と向き合われた経験があったということ。  ・應典院で開催された、葬送をテーマにしたシンポジウム(https://www.facebook.com/events/136846966934224/)で、100名を超える参加者があったという、一般社会からの「強い関心」を感じられたこと。  ・また、そのシンポジウムでは、近代の「助葬システム」が、福祉的な役割を果たしていたという指摘があったこと。  ・「多死」、「貧困」、「孤立」の社会の中で、葬送は「福祉」の文脈で捉え直すことができるのではないか。  等が語られていた。「應典院が葬送に取り組んだら、こうなる」ということを考えたい。という強い言葉もあった。  20年、設立からのコピーに「葬式をしない寺 應典院」と示し、そのタイトルで本まで出していた應典院が、20年の節目を経て、「葬送」に取り組むという宣言。非常に重たい、ズシンとくるものがあった。自分の内面でなにかがふるえているような感覚があった。  伝統仏教教団、あるいは研究機関でもずっと「葬儀」をテーマに掲げた取り組みはあった。食傷気味になるくらい、「葬儀」というのは扱われてきたテーマだ。しかし、應典院として葬儀に取り組む(考える)という宣言は、これまでの伝統教団のそれとはまったく異質の感覚をもって聞こえてきてしまった。  個人的感覚だが、これまでの伝統仏教教団の葬儀は、寺院経営等の経済的な面、宗教儀礼や仏教的価値観の維持、布教伝道といった、仏教教団、あるいは寺院側のモチベーションとどうしても切り離すことができないでいた。それらが透けてみえていたことが、一般社会との乖離を生じさせたり、その主張に説得力を持たせ切れていなかったように思われる。  しかし、(それがテーマや題材として扱われるイベント・研修が行われることがあっても)あえて再建以来20年間「葬儀」という...

ご参加御礼とアドレスの管理

先日は急な告知にもかかわらず、転送していただいたり、お手回しいただきありがとうございました。 おかげさまで、盛況な会になりました。 数日前にメールでも案内を流してました。 ところが、メールアドレスをチェックしていると、 まわすべきところのアドレスが抜け落ちていたり…。 職場で管理されているアドレス、 PCのメーラーで管理されているアドレス、 gmailなど、Webで管理されているアドレスといった具合に一元化されていなかったり、 きっちりと名前をつけて、管理されていないアドレスがあったり。 早急な整理が必要など痛感しました。 すこしづつですが、暇を見つけて作業を進めていきます。

ご案内:第7回 別離の悲しみを考える会

うっかり、当日になってしまいました。 今日、本願寺で以下のような取り組みがあります。 急なご案内でもうしわけありませんが、 お時間のあるかたは、是非。 【転送・転載歓迎】 ◆◆━◆◆━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━         葬儀社からみた「葬儀」とは?                    講演会のお知らせ      2011年10月19日(水)西本願寺・聞法会館 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◆◆━◆◆ 近年、葬儀をめぐっては、さまざまな視点から活発な議論が行わ れています。このたび、教学伝道研究センターでは、近年遺族の グリーフケアに積極的な取り組みを行い、『グリーフケア―見送 る人の悲しみを癒す―』(毎日新聞社)の著者でもある公益社代 表取締役社長の古内耕太郎氏を招き、葬儀社からみた葬儀の現状 と課題について考える講演会を開催いたします。 また、あわせて日本では数少ないエンバーミングを行っている関 西エンバーミングセンター副センター長の宇屋貴氏とともに、新 しい葬儀のあり方について学びを深めます。  ●名称 第7回別離の悲しみを考える会      「葬儀とグリーフケア」     古内耕太郎(株式会社公益社代表取締役社長)     宇屋貴(関西エンバーミングセンター副センター長)  ●日時 2011年10月19日(水)      13:00~15:00(入場無料・申込不要)  ●場所 西本願寺 聞法会館3階 研修室①      京都市下京区堀川花屋町上ル  Tel 075-342-1122       http://monbou.jp/  ●主催 浄土真宗本願寺派教学伝道研究センター       http://crs.hongwanji.or.jp/ kyogaku/

岡山でお葬式に参列

研究所の上司のお母様のお葬式。参列とお手伝いで、今日は岡山に行く。 新幹線という手もあったけれど、在来線でのんびり行っても間に合う時間だし、 なによりちょっとの早起きで、 ・片道3000円も浮く ・2時間30分も自由な時間ができる。 こんなにメリットがあるので、在来線での移動を選択。 今は帰りの電車の中。姫路を出たところ。 本も2冊読み終わった。提出が迫っている講義計画の案も進む。 お葬式。 ときどき参列したり、お手伝いをしたりすることがある。 お手伝いで中に入ると、いろいろと勉強させていただけることが多い。 受付を手伝うことが多いのだけれど、その段取りや、お香典の管理、 どこでも一緒ではないけれど、気をつけるべき点はこんな所にあるのかという、 勘所を覚えられるようになってくる。 お坊さんとしてお参りしているときには、見えなかった場面も目に入ってくる。 素人なもので、受付も案内も、帰りのタクシーの手配・差配も、僕がしたことは アタフタアタフタと周りの方のご協力やご理解なしではできなかったのではありますが・・・。 大事な方を亡くされて、送られる大切なお葬式。 心にしみる挨拶や、言葉もあった。 送りに来られた方の心情はいかばかりか。 いろいろと感じさせられた式でもありました。 雰囲気を壊したり、お邪魔をしたりしていなければよいのですが。

ご案内:「第六回別離の悲しみを考える会」

私が、お世話になっている「教学伝道研究センター」で、以下のような会を開催します。 葬儀問題に関心のある方、グリーフケアに関心のある方には是非ともお越しいただきたいです。 どうぞよろしくお願いします。 以下、転載用として回ってきた案内。 各方面へご案内いただければありがたいです。 ◆◆━◆◆━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ お葬式は必要か? 僧侶・市民がともに葬儀の<現在>と<未来>を語る 講演会のお知らせ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◆◆━◆◆ 近年、葬儀をめぐっては、さまざまな視点から活発な議論が 行われています。 このたび、教学伝道研究センターでは、グリーフサポートと エンバーミング普及の第一人者であり、『お父さん「葬式は いらない」って言わないで』の著者でもある橋爪謙一郎氏を 迎え、葬儀の意義についてあらためて考える講演会を開催い たします。 「葬儀こそが大切な人を亡くした死別体験者が立ち直るため のスタートライン」と語る橋爪氏。講演後は、自死遺族であ る野村清治氏(リメンバー名古屋自死遺族の会代表幹事)、 当センター研究員との鼎談を通して、市民・僧侶・葬儀関係 者という三者の視点から、葬儀の<現在>と<未来>について縦 横無尽に語っていただきます。 ●名称 第6回別離の悲しみを考える会 「グリーフサポートとしての葬儀式」 講師:橋爪(はしづめ) 謙一郎(けんいちろう) 氏 (株式会社ジーエスアイ代表取締役) ●日時 2010(平成22)年12月1日(水) 14:00~16:00(入場無料・申込不要) ●場所 西本願寺 聞法会館3階 研修室① 京都市下京区堀川花屋町上ル  Tel 075-342-1122 http://monbou.jp/ ●主催 浄土真宗本願寺派教学伝道研究センター http://crs.hongwanji.or.jp/ kyogaku/

応典院とグリーフのセミナー

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昨日7月18日(土)。 午前中、法務。 午後14時から、大阪・応典院で開催された エンディングセミナー「遺族サポートとお葬式~グリーフでつながる」 に参加。 http://www.outenin.com/modules/contents/index.php?content_id=279 講師は橋爪謙一郎氏。 お葬式などで、遺体に保存処置を施したりするなどの エンバーミングの第一人者で、グリーフサポートの取り組みをされている。 近著は 『お父さん、「葬式はいらない」って言わないで』 (小学館101新書) 橋爪氏の講演・応典院秋田住職の対談との二部構成。 全体として、葬儀をグリーフの観点からどのようにすべきかという内容。 ちょっとした気づきで、悲しみの中にある人たちの支えや、悲嘆を少なくできる実例を教えてもらったように思える。 セミナー後、希望者では橋爪先生を囲んだ座談会形式の勉強会。 葬祭業者さんや、NPO関係者など、いろいろな立場の人が参加。 葬儀業者の方も、グリーフのケア・サポートのため取り組み―DMの送付や、場の設定などをされていて、非常に興味深い話を多く聞くことができた。 ただ、いろいろな話を聞く中で明確になったのは、 自分のスタンス。 僧侶は僧侶であるということ。 仏教者というスタンスの上で、グリーフに取り組むということ。 話のなかで、「グリーフケアのために、規定の概念、宗教の教義をも捨てるべき」というスタンスがあることを提示されていたけれど、 宗教者が、自らのアイデンティティである「宗教」を捨てては、本末転倒であるように思う。 グリーフケアのために捨てるべきではく、 仮に「教義」や「仏教者」の立場を捨てることがあったとしても、それは「グリーフ」のためではなく、 そうすることが仏教であるからだろうと思う。 グリーフケアのために、仏教者の立場を捨てるならば、それは「グリーフケア」の専門家。 仏教者は、仏教者の立場を捨てるとしても、その「捨てる」という行為が、仏教にもとづくものであり、より仏教者であるというあり方の上ですべきじゃないか。 矛盾を抱えた内容だけど、そうなんじゃないか。

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