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経済的合理性の説得力にもっとあらがう何かがないといけないのではないか。

ここ数か月くらい、つとにおもうことは、 自分の行動や意思決定に「経済的合理性」というものが、いやというほどにしみこんでいるということ。 そしてそれは社会の中にも。 それがあることが悪いことである、とまではいわないが、 本来それを適用するべきではないところ、 ひいては、行動や意思決定のすべてが、その経済的合理性に毒されてしまっているという部分があるのではないかと思わされることがしばしばある。 さらに、それは個人のレベルだけではなく、集団の意思決定もそうで、その説得力の強力さ、抵抗のしがたさは個人のそれの比ではないものになってしまう。 このようなことをより強く考えたのは、春先に聞いた、ある神父さまの講演で、「精霊の声をきく」「精霊が教会になにをいっているのかもっと聞きたい」という言葉にふれたことが契機になっているとおもう。 それは、裏返しに私たち(私)が、耳を傾けようとしているものが、いかに「お金の話」でしかないかと反省させるものだった。 この行為にどれだけのリターンがあるか。 どれだけの経済的合理性(コスパ)があるか。 そんなことばかりで、日常を過ごしていないだろうか。 むしろ、お金をかけてまでするべきこと。 経済的合理性に反する「損」をしてまで、したいことはなにか、するべきことはなにか。そういうものにもっと目を向けること、そういうものをもっと手に入れることが生きる意味や、生きる上での豊かさを手にするということではないかと考えている。

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