2018年12月31日月曜日

2018年の除夜会に際して

 あっという間の一年だったように思います。
 正直、まだ一年が終わるという感覚、今が「年末」という感覚さえもありません。
 しかし、一年が終わろうとしています。振り返ると、今年もいろいろな事があった一年でした。また、いろいろな方にお世話になり、共に時間を過ごした一年でした。
 振り返る中に、感謝や、お詫びや、さまざまな気持ちと一緒にここにいます

 来年、元号が変わるということもあって、今年の後半は、特に「平成最後の」ということがよく言われました。そういう意味では、平成最後の年越しになります。

 その「平成最後」ということに関して、実は先日西正寺、ちょっと変わった相談が持ち込まれました。それは、「平成の葬儀」つまり、平成のお葬式をやってくれないか?という話でした。
 なんだそれは?と思われたかも知れません。
 
 その話をもってきてくれたのは、北海道の曹洞宗のお坊さんでした。彼は、芸術家でもありこのたび出展した作品が、岡本太郎現代芸術賞という賞に入選したというのです。それが、平成の終わりということで、平成の葬儀を提示するというものでした。
 当日会場で、その葬儀の様子も動画で流すのに、西正寺で一度葬儀をしてくれないか?という話でした。

 最終的に、「アート」として平成の終わりをそのような形で表現するのもアリなのかなということもあって、お引き受けしました。けれども、最初それを聞いたときに感じたのは、違和感でした。
 時代の終わりの表現が「葬儀」「葬式」でいいのだろうか?ということでした。そして、そういうことで葬儀を行ってもいいのだろうか、という違和感もありました。
 しばらく、その彼とお話をしたのですが、話しているうちに、いくつかの気づきもありました。

 私たちは、「時代の葬儀」ということをしないけれど、いろいろな時代や、時間やあるいは状況に、いろいろな仕方で区切りを付けたり、それを見えるように行ったりしているなぁということです。
 態勢の終わりに、壁を壊したり、像を壊したり。
 あるいは、入学式や卒業式というのも、一つの区切りだったりします。
 この除夜会や、鐘を撞き、ゴーンという響きをきくことで、一年の終わりを感じたりする。
 あるいは、一日の終わりを、お風呂に入ること、シンクをきれいに磨き上げること、寝酒にウイスキーを飲まないと一日がおわらない、という人もいるかもしれません。

 一つ一つの行為は、体の行いでありながら、それを行うことで、「心」を納得させ、あるいは「心」を落ち着かせ、「心」に区切りをつけさせ、そして次の1歩へと進む、そんな風に、あまり意識を向けていない中でも、区切りをつけながら、私たちは生きているのかもしれない、そんなことを思いました。

 いま、この除夜会でも、お経をお勤めし、お念仏し、手を合わせるなかで、みなさんそれぞれの心持ちがあったかとおもいます。この除夜会も、お念仏も、私たちにとっては、そういう心の区切りとなってくださっているのかもしれません。

 
 「心」というと、次のような言葉を思い出します。

 定水を凝らすといえども、識浪しきりにうごき、
 心月を観ずといえども、妄雲なお覆う。

 これは、比叡山での修行に挫折された親鸞聖人の心情を、子孫の存覚上人という方が表現されたものです。心を波一つ立たないような静かな状況にしようとしても、自分の心は常に波立つ。また、心に満月を観じようとしても、妄想の雲がまた動いてその月を覆い隠してしまう。理想の心の状態になれない、という心を表したものです。

 いま、心の区切りといいましたが、私たちの心を見つめてみると、心というものは、自分ものでありながら、なかなか自分の思い通りにならないものでもあります。むしろ、心(欲求や憤り等)に、自分の方が振り回されてしまっているような時さえある。いや、私たちはずっと実は、自分の心の方に振り回されながら生きているということさえできるのかもしれません。

 こういうお勤めや、除夜の鐘を聞く中で、自分のこころを沈めたり、落ち着けたり、あるいは見つめ直すことが、すこしできるようになるのかもしれません。
 
 一年の最後、区切りの時間、お念仏で過ごしていただきました。
 除夜の鐘はありませんが、また、この大きな鐘(大キン)の音にまた耳を傾けながら、この一年のこと、次の一年のこと、そして自身の心に目を向けていただく時間にして頂けたらと思います。

 本年はありがとうございました。また明年もよろしくおねがいいたします。




 
 

 

2018年12月25日火曜日

「お寺を掃除したい!」



 今年あったうれしいことの一つ。
地域での活動のなかからつながった若い友人から、「お寺を掃除させてもらえませんか?」という打診をもらったこと。

非常に近所の、元門徒さんのおうちだったところが、若いNPOワーカー等数人で暮らすシェアハウスになった。そこに住んでいるお一人(20代女性)からの提案。

 彼女は、小学校の頃の同級生に「お寺のお嬢さん」がいて、彼女の家でもある「お寺」を掃除したあとに、そこでカレーをごちそうになる、というのが経験としてあったそうだ。それで、その思い出もあって、「お寺を掃除したいんです、させてもらえませんか?」という相談をもらった。

こちらとしては、「え?掃除をしてくれるの、そんなこといいの!?」という感じの、願ったり叶ったりの提案。1も2もなく、お引き受け(?)をした。

 当日までは、フェイスブックでイベントページ(「おてらのそうじ」https://www.facebook.com/events/257019921633567/)も立てて、彼女とは別に以前からお寺の掃除を望んで下さっていた人も加えて、主催者チームを結成した。


果たして当日、12月23日(日)。寝坊してはいかんと緊張しながら朝を迎えた。
大まかなタイムスケジュールは以下の通り。

6:00 準備開始
   炊飯用意、開門、本堂点灯等

7:00 集合 (主催含めて参加者7名)
   勤行(重誓偈)
   体操・柔軟
   自己紹介
7:30 掃除開始
   1)トイレ (トイレ掃除)
   2)側溝 (どぶさらい)
   3)本堂外陣 (掃除機・ぞうきんがけ)
8:30 朝食用意・朝食 
9:45頃 解散

6:00。作務衣に着替え、開門、本堂に明かりをつける。まだ外は暗い。凛とした空気で、一人ご本尊の前で勤行(お経)。
 炊飯器や朝食のための用意、掃除をして頂く場所などの想定をしておく。

7:00集合時間。主催者も含めて7名(も)集まってくださった。
集合したあと、勤行(重誓偈)、柔軟体操、自己紹介。

7:30掃除開始(この時点で30分経っていた。笑)
 掃除して欲しい場所として、
 ・トイレ
 ・側溝
 ・本堂の畳
を上げておいた。 まずは、境内の屋外のトイレと、側溝の掃除を手分けして行う。 
トイレは日常的に掃除をしなければいけないが、
側溝のドロさらいは、年末の大掃除の一つで、結構な時間を掛けて行うのが、この機会に人手を借りて30分で終わった。これは、本当に助かった。

 溝の掃除をしている間に、お墓参りにくる門徒さんも。
 若い人達が朝からお寺の掃除をしている姿に驚かれるも大変感謝された。

8:00~8:30 本堂の畳の掃除。
 外陣の畳を、掃除機をかけたあと、水拭きとから拭きを雑巾で拭く。
 全員参加で30分。拭き掃除をした雑巾をみれば、大変汚れが落ちた手応えがある。
 



8:30頃 掃除終了。それぞれに片付け・手洗いをして、朝食の用意。
 炊きあがっているご飯で、それぞれがもちよった具でおにぎりを。
 主催のYさんが、もってきてくれたお味噌汁とで、立派な朝食会に。

9:00すぎに、お参りのために、中座するも、参加者のみなさんは、10時ごろまで、ご飯をたべながらのんびりとすごしてくださった様子。

定期的に開催したい、という声もあり、月一程度で続けていく予定です。
「掃除したい」「やってみたい」という人、「ご飯食べたい」という方のご参加もお待ちしてます。(日程は、その都度フェイスブックでのアップになります。)

   
   

 























2018年12月21日金曜日

また変わった話がやってきた~終わりについて考えを及ぼす。

日記のように振り返る。

昨日(2018年12月21日(水))午後に、ジャーマン・スープレックス・エアライン(http://germansuplexairline.com/)のMさんから連絡。電話に気がつかずに折り返しに連絡すると、Mさんの知人が相談したいことがあるから、今からお寺に行ってよいか?と。

 ちょうど、のんびりと過ごしていた時間帯。
 ほどなく、Mさんとその知人Kさんのお二人がいらっしゃる。

 まあ、Mさんがもってくるということで、普通の相談ではないなと思ってはいた。(
笑)。それで、Kさんの相談の内容は以下のようなことだった。

 ・Kさんは、北海道の曹洞宗の僧侶であり、現代アートのアーチスト。
 ・来年1月に開催される「岡本太郎 現代芸術賞」TARO賞に入選して、それに出展する。(http://www.taro-okamoto.or.jp/info/taroaward.html
 ・出展するのは、「平成の葬儀」。「平成」のお葬式をするそうだ。
  終わりを迎える「平成」の終わりを、「葬儀」という形で表現するという。
  
 その展示でながす動画を撮りたい。
 ついては、西正寺で「平成の葬儀をしないか?」というご相談。

 聞いた第一印象は、僕には、「平成」の終わりにお葬式をする、ということがいまひとつ正直しっくりこない。平成がおわるから「葬儀」で、果たしていいのだろうか?

 たしかに人の人生の終わり、そして終わった命と向き合いを、われわれは葬儀という儀式で行ってきた。でも、時間や、体制、さまざまな終わりもいろいろな「儀式」的な関わりや締めくくりをしてきている。

 たとえば、一年の終わりに「除夜の鐘」をつくこと。
 あるいは、政治の体制の終わりに「壁をこわす」「権力者の像を引き倒し壊す」ことも。
 「お風呂に入る」ことや、「台所のシンクを徹底的に磨く」ことで、一日の終わりとする人もいるかもしれない。あるいは、寝所で本を読んでサイドスタンドの電気をパチンとけす、ということ、あるいは寝る前の一杯のウイスキーということもあるかもしれない。
 それなりに、「時」についての区切りをいろんな形でしているという中で、果たして時代や時間の区切りを「葬儀」という形で行うことが適当だろうか?

 もしかすると、ある一区切りをつける作業、終わりや、結びを意味づける行為や、儀礼について、面白いテーマ・視座になるのではないか。

 そんな話をしながらも、さまざまな作品が並ぶ展覧会で、「平成」の終わりを葬儀という儀式のビジュアルをみせることで表現することは、一つのアートとしてアリなのかもしれない。僕自身が僧侶としてするべきかどうかという問い(上に提示したような疑問)は、ひとまず横においておいて、 Kさんのプロジェクトにできる形で協力をさせてもらうことにした。

 というわけで、1月18日金曜の夜19:00から、西正寺でかわったことが行われます。
 きまっていることは、
 ・「平成」という年号・時代の葬儀をやってみるということ
 ・「終わり」「結び」、「区切りを付ける」という行為や、セレモニー、イニシエーション的なことがら、振る舞いについて、参加者のみなさんと考えてみようということ。
 
 もちこまれた企画に協力しつつ、非日常にも、日常にも、意識的にも、無意識にも行っている、私たちの終わり方や結び方、ものごとのとじ方、そういったあれこれに考えを及ぼす時間をもってみたいと思います。

 詳細は、続報をおまちください。


「宗教的な救い」とはなにか?

・先週は宮崎先生と対談でした  先週の土曜日 4月13日の午後は、相愛大学の企画で、宮崎哲弥先生の講義にゲストスピーカー・対談相手として、登壇させていただく機会を得ました。  以前このブログでもご案内していたこちらです。  【登壇情報】宮崎哲弥先生と対談します。 https://...