2018年の除夜会に際して
あっという間の一年だったように思います。
正直、まだ一年が終わるという感覚、今が「年末」という感覚さえもありません。
しかし、一年が終わろうとしています。振り返ると、今年もいろいろな事があった一年でした。また、いろいろな方にお世話になり、共に時間を過ごした一年でした。
振り返る中に、感謝や、お詫びや、さまざまな気持ちと一緒にここにいます
来年、元号が変わるということもあって、今年の後半は、特に「平成最後の」ということがよく言われました。そういう意味では、平成最後の年越しになります。
その「平成最後」ということに関して、実は先日西正寺、ちょっと変わった相談が持ち込まれました。それは、「平成の葬儀」つまり、平成のお葬式をやってくれないか?という話でした。
なんだそれは?と思われたかも知れません。
その話をもってきてくれたのは、北海道の曹洞宗のお坊さんでした。彼は、芸術家でもありこのたび出展した作品が、岡本太郎現代芸術賞という賞に入選したというのです。それが、平成の終わりということで、平成の葬儀を提示するというものでした。
当日会場で、その葬儀の様子も動画で流すのに、西正寺で一度葬儀をしてくれないか?という話でした。
最終的に、「アート」として平成の終わりをそのような形で表現するのもアリなのかなということもあって、お引き受けしました。けれども、最初それを聞いたときに感じたのは、違和感でした。
時代の終わりの表現が「葬儀」「葬式」でいいのだろうか?ということでした。そして、そういうことで葬儀を行ってもいいのだろうか、という違和感もありました。
しばらく、その彼とお話をしたのですが、話しているうちに、いくつかの気づきもありました。
私たちは、「時代の葬儀」ということをしないけれど、いろいろな時代や、時間やあるいは状況に、いろいろな仕方で区切りを付けたり、それを見えるように行ったりしているなぁということです。
態勢の終わりに、壁を壊したり、像を壊したり。
あるいは、入学式や卒業式というのも、一つの区切りだったりします。
この除夜会や、鐘を撞き、ゴーンという響きをきくことで、一年の終わりを感じたりする。
あるいは、一日の終わりを、お風呂に入ること、シンクをきれいに磨き上げること、寝酒にウイスキーを飲まないと一日がおわらない、という人もいるかもしれません。
一つ一つの行為は、体の行いでありながら、それを行うことで、「心」を納得させ、あるいは「心」を落ち着かせ、「心」に区切りをつけさせ、そして次の1歩へと進む、そんな風に、あまり意識を向けていない中でも、区切りをつけながら、私たちは生きているのかもしれない、そんなことを思いました。
いま、この除夜会でも、お経をお勤めし、お念仏し、手を合わせるなかで、みなさんそれぞれの心持ちがあったかとおもいます。この除夜会も、お念仏も、私たちにとっては、そういう心の区切りとなってくださっているのかもしれません。
「心」というと、次のような言葉を思い出します。
定水を凝らすといえども、識浪しきりにうごき、
心月を観ずといえども、妄雲なお覆う。
これは、比叡山での修行に挫折された親鸞聖人の心情を、子孫の存覚上人という方が表現されたものです。心を波一つ立たないような静かな状況にしようとしても、自分の心は常に波立つ。また、心に満月を観じようとしても、妄想の雲がまた動いてその月を覆い隠してしまう。理想の心の状態になれない、という心を表したものです。
いま、心の区切りといいましたが、私たちの心を見つめてみると、心というものは、自分ものでありながら、なかなか自分の思い通りにならないものでもあります。むしろ、心(欲求や憤り等)に、自分の方が振り回されてしまっているような時さえある。いや、私たちはずっと実は、自分の心の方に振り回されながら生きているということさえできるのかもしれません。
こういうお勤めや、除夜の鐘を聞く中で、自分のこころを沈めたり、落ち着けたり、あるいは見つめ直すことが、すこしできるようになるのかもしれません。
一年の最後、区切りの時間、お念仏で過ごしていただきました。
除夜の鐘はありませんが、また、この大きな鐘(大キン)の音にまた耳を傾けながら、この一年のこと、次の一年のこと、そして自身の心に目を向けていただく時間にして頂けたらと思います。
本年はありがとうございました。また明年もよろしくおねがいいたします。
正直、まだ一年が終わるという感覚、今が「年末」という感覚さえもありません。
しかし、一年が終わろうとしています。振り返ると、今年もいろいろな事があった一年でした。また、いろいろな方にお世話になり、共に時間を過ごした一年でした。
振り返る中に、感謝や、お詫びや、さまざまな気持ちと一緒にここにいます
来年、元号が変わるということもあって、今年の後半は、特に「平成最後の」ということがよく言われました。そういう意味では、平成最後の年越しになります。
その「平成最後」ということに関して、実は先日西正寺、ちょっと変わった相談が持ち込まれました。それは、「平成の葬儀」つまり、平成のお葬式をやってくれないか?という話でした。
なんだそれは?と思われたかも知れません。
その話をもってきてくれたのは、北海道の曹洞宗のお坊さんでした。彼は、芸術家でもありこのたび出展した作品が、岡本太郎現代芸術賞という賞に入選したというのです。それが、平成の終わりということで、平成の葬儀を提示するというものでした。
当日会場で、その葬儀の様子も動画で流すのに、西正寺で一度葬儀をしてくれないか?という話でした。
最終的に、「アート」として平成の終わりをそのような形で表現するのもアリなのかなということもあって、お引き受けしました。けれども、最初それを聞いたときに感じたのは、違和感でした。
時代の終わりの表現が「葬儀」「葬式」でいいのだろうか?ということでした。そして、そういうことで葬儀を行ってもいいのだろうか、という違和感もありました。
しばらく、その彼とお話をしたのですが、話しているうちに、いくつかの気づきもありました。
私たちは、「時代の葬儀」ということをしないけれど、いろいろな時代や、時間やあるいは状況に、いろいろな仕方で区切りを付けたり、それを見えるように行ったりしているなぁということです。
態勢の終わりに、壁を壊したり、像を壊したり。
あるいは、入学式や卒業式というのも、一つの区切りだったりします。
この除夜会や、鐘を撞き、ゴーンという響きをきくことで、一年の終わりを感じたりする。
あるいは、一日の終わりを、お風呂に入ること、シンクをきれいに磨き上げること、寝酒にウイスキーを飲まないと一日がおわらない、という人もいるかもしれません。
一つ一つの行為は、体の行いでありながら、それを行うことで、「心」を納得させ、あるいは「心」を落ち着かせ、「心」に区切りをつけさせ、そして次の1歩へと進む、そんな風に、あまり意識を向けていない中でも、区切りをつけながら、私たちは生きているのかもしれない、そんなことを思いました。
いま、この除夜会でも、お経をお勤めし、お念仏し、手を合わせるなかで、みなさんそれぞれの心持ちがあったかとおもいます。この除夜会も、お念仏も、私たちにとっては、そういう心の区切りとなってくださっているのかもしれません。
「心」というと、次のような言葉を思い出します。
定水を凝らすといえども、識浪しきりにうごき、
心月を観ずといえども、妄雲なお覆う。
これは、比叡山での修行に挫折された親鸞聖人の心情を、子孫の存覚上人という方が表現されたものです。心を波一つ立たないような静かな状況にしようとしても、自分の心は常に波立つ。また、心に満月を観じようとしても、妄想の雲がまた動いてその月を覆い隠してしまう。理想の心の状態になれない、という心を表したものです。
いま、心の区切りといいましたが、私たちの心を見つめてみると、心というものは、自分ものでありながら、なかなか自分の思い通りにならないものでもあります。むしろ、心(欲求や憤り等)に、自分の方が振り回されてしまっているような時さえある。いや、私たちはずっと実は、自分の心の方に振り回されながら生きているということさえできるのかもしれません。
こういうお勤めや、除夜の鐘を聞く中で、自分のこころを沈めたり、落ち着けたり、あるいは見つめ直すことが、すこしできるようになるのかもしれません。
一年の最後、区切りの時間、お念仏で過ごしていただきました。
除夜の鐘はありませんが、また、この大きな鐘(大キン)の音にまた耳を傾けながら、この一年のこと、次の一年のこと、そして自身の心に目を向けていただく時間にして頂けたらと思います。
本年はありがとうございました。また明年もよろしくおねがいいたします。
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