2018年12月21日金曜日

また変わった話がやってきた~終わりについて考えを及ぼす。

日記のように振り返る。

昨日(2018年12月21日(水))午後に、ジャーマン・スープレックス・エアライン(http://germansuplexairline.com/)のMさんから連絡。電話に気がつかずに折り返しに連絡すると、Mさんの知人が相談したいことがあるから、今からお寺に行ってよいか?と。

 ちょうど、のんびりと過ごしていた時間帯。
 ほどなく、Mさんとその知人Kさんのお二人がいらっしゃる。

 まあ、Mさんがもってくるということで、普通の相談ではないなと思ってはいた。(
笑)。それで、Kさんの相談の内容は以下のようなことだった。

 ・Kさんは、北海道の曹洞宗の僧侶であり、現代アートのアーチスト。
 ・来年1月に開催される「岡本太郎 現代芸術賞」TARO賞に入選して、それに出展する。(http://www.taro-okamoto.or.jp/info/taroaward.html
 ・出展するのは、「平成の葬儀」。「平成」のお葬式をするそうだ。
  終わりを迎える「平成」の終わりを、「葬儀」という形で表現するという。
  
 その展示でながす動画を撮りたい。
 ついては、西正寺で「平成の葬儀をしないか?」というご相談。

 聞いた第一印象は、僕には、「平成」の終わりにお葬式をする、ということがいまひとつ正直しっくりこない。平成がおわるから「葬儀」で、果たしていいのだろうか?

 たしかに人の人生の終わり、そして終わった命と向き合いを、われわれは葬儀という儀式で行ってきた。でも、時間や、体制、さまざまな終わりもいろいろな「儀式」的な関わりや締めくくりをしてきている。

 たとえば、一年の終わりに「除夜の鐘」をつくこと。
 あるいは、政治の体制の終わりに「壁をこわす」「権力者の像を引き倒し壊す」ことも。
 「お風呂に入る」ことや、「台所のシンクを徹底的に磨く」ことで、一日の終わりとする人もいるかもしれない。あるいは、寝所で本を読んでサイドスタンドの電気をパチンとけす、ということ、あるいは寝る前の一杯のウイスキーということもあるかもしれない。
 それなりに、「時」についての区切りをいろんな形でしているという中で、果たして時代や時間の区切りを「葬儀」という形で行うことが適当だろうか?

 もしかすると、ある一区切りをつける作業、終わりや、結びを意味づける行為や、儀礼について、面白いテーマ・視座になるのではないか。

 そんな話をしながらも、さまざまな作品が並ぶ展覧会で、「平成」の終わりを葬儀という儀式のビジュアルをみせることで表現することは、一つのアートとしてアリなのかもしれない。僕自身が僧侶としてするべきかどうかという問い(上に提示したような疑問)は、ひとまず横においておいて、 Kさんのプロジェクトにできる形で協力をさせてもらうことにした。

 というわけで、1月18日金曜の夜19:00から、西正寺でかわったことが行われます。
 きまっていることは、
 ・「平成」という年号・時代の葬儀をやってみるということ
 ・「終わり」「結び」、「区切りを付ける」という行為や、セレモニー、イニシエーション的なことがら、振る舞いについて、参加者のみなさんと考えてみようということ。
 
 もちこまれた企画に協力しつつ、非日常にも、日常にも、意識的にも、無意識にも行っている、私たちの終わり方や結び方、ものごとのとじ方、そういったあれこれに考えを及ぼす時間をもってみたいと思います。

 詳細は、続報をおまちください。


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