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自由と束縛/ブレイクスルーが起こるには

 もし、あなたが科学的創造性を最大化させたいならば、図抜けた頭脳を探し出し、その頭のなかにあるアイデアを追求するのに必要な資源を与え、それからしばらく放っておく、というのが常識の命ずるところだ。大方、たぶん、なにも成果があがらないだろう。だが、一つか二つ、なにかまったく予想されなかった発見があがるということもある。もし、あなたが予期せざるブレイクスルーの可能性をほとんど壊滅させたい[最小化させたい]と望むなら、このおなじ人間たちに、次のようにいえばよい。たがいに競争しながら、きみたちが達成するであろう発見あることを、わたしに説得したまえ。そのための時間をおしむな、さもなくば資金の獲得は望めまい、と。およそこれがいまのシステムである。 デヴィット・グレーバー著、酒井隆史訳『官僚制のユートピア―テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則』、以文社、二〇一七年。一九四頁。 (※福井一喜『無理しない観光』、ミネルヴァ書房、二〇二二年、二一八頁より孫引き)

古書の相場が暴落している。(20年くらい前と比べて)

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 宗教学会(@上智大学)を最終日の午前の部までで後にして、帰り道、神田神保町の古書街に足を運んだ。  思い返せば、20代の院生の頃は、東京にくると、必ずと言っていいほど足を運んでいた。安く本が買えるかもしれない、貴重な研究書や資料が、売りに出ているかもしれないと。 今は、ネットで古書を検索し、居間にいながらにして入手することができるし、なんならPDFで入手できるものもある。  しかし、今回は自分の研究リハビリ期間と言いつのっている時期でもあるので、若かりし思いをとり戻すべく、足を運んだ。  もちろん、楽しい時間だった。  古地図で、尼崎に関するもの、江戸期の摂津に関するものなどを店主の許可をもらって広げたりしていると、あっという間に時間が過ぎていた。  専門(仏教・真宗)関連の書店にも足を運んだ。刺激もたくさんあったが、古書店に積み上げられた、近年のものはもちろん、大正や昭和初期、あるいは明治からの仏教研究や、人文学関連の研究書の量と、あらためてまったく未知、想像をおよぼしたことのない書名の数々に学問の見えない底の深さにあらためて愕然とさせられもした。  この年になって、あらためて自分には扱う能力のない資料や、影印の資料の数々を見て、言うまでもないが、研究から離れてしまっていたブランクと無力感を痛感する。  さて、それで表題の件だけれど、古書の相場が暴落している。    今日見たもので、   ・野上俊静『中国浄土三祖伝』8800円   ・望月信亨『中国浄土教理史』5500円  であった。(他にも、驚く値段になっているものはたくさんあったが)  おそらく、一般の方は、「何が安いねん」と思われるかもしれないが、2000年代、私が修士課程になったばかりのころは、古書でこれらを買おうとすると、5万円以上、お店によると10万を超える値段がついていたように記憶している。  先日も、梅田の古書店で、   ・牧田諦亮『疑経研究』が6000円だったので、即買いしてしまった。  店主さんも、レジで、「これ、昔、もっと高かったですよね?… 間違いかもしれないので、確認していいですか?」としばらく待たされるようなことだった。(そして、値段は間違っていなかった)  研究状況の変化かもしれない、研究人口の変化かもしれない、あるいは、物理的な書物ではなく、取り込んでデータにしてしまったりすると、...

【ご恵贈いただきました】 大正大学地域構想研究所・BSR推進センター編『地域と寺院~まちに開き、まちを拓く』(1)、(2)

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本日、大正大学地域構想研究所さまから、以下の大部なご著書2冊をご恵贈いただきました。  表題の通り、地域に開かれた寺院91か寺の事例を取材し、記事にされたものがまとめられたものです。  もともとは、同研究所が編集されていた『地域寺院』という雑誌に連載・掲載されていたものです。西正寺も取り上げていただいたことがあり、本書の2巻に収録していただいていました。  連載時から、寺院の地域活動に関するとても貴重な情報を提供いただいているものと思っていました。先年、刊行が終了し、大変残念に思っていたところでした。  現在、業界紙的な新聞、『中外日報』や『文化時報』といった紙面でも、活躍する宗教者の活動が取り上げられています。すべて拝見することはできていないのですが、これらも大変貴重な情報であるように思っています。  個別・具体的に行われている寺院・僧侶たちの活動がたくさんあるのですが、それらは個別・具体的であるが故に、なかなか集約して知ることがむずかしいように思っています。  現在は、これらのように、個別の事例を集める、という形で書籍や連載記事にまとめられ、積み重ねられているように思います。  みなさんのまわりのお寺も、もしかするとそのような大事な活動をされているかもしれません。ぜひ、門をくぐってみる機会・ご縁を持っていただけたらと思います。 (もちろん、そうでないこともあるかもしれせんが) (同封いただいていたご案内)

欠如・不安によって開かれてくる地平 磯前順一著『居場所のなさを旅しよう』とシェル・シルヴァシュタイン『ぼくを探しに』

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先日来読んでいる本。 磯前順一著『居場所のなさを旅しよう』 がとてもよかった。 「はじめに」の一文を引用します。 「居場所をなさを感じている者同士が出会い、勇気をもって心を相手に開くとき、その居場所のなさの感覚こそが新たな絆をもたらしてくれるからです。この本は、居場所のない私があちこち旅をした記録であり、心の軌跡でもあります。今自分が居る場所がなんだかしっくりこない人が、これを読んで「ああ、自分もう生きていくことができる」「道はある」と思ってくれたらうれしいです」(5ページ) この言葉にたがわず、欠如や不安、傷や苦悩・悲嘆の経験が開いていくもの、見つめさせるもの、それによってつながっていくものが、丁寧に、切実に描かれています。  アメリカに留学中に著者は、酒井さんという先輩から、このような助言をもらったといいます。 「 白人じゃないきみはきっといじめられるだろう。きみが何を言っても、「日本人だから」で片づけられてしまう。君の声を聴こうとする人は少ないだろう。でも、それが学問にとって大切なんだよ。白人という居場所をもらえないきみは、「居場所のなさ」が本当の意味でわかるようになる。日本人として日本で育った君にはわからない、日本にいるマイノリティの気持ちがわかるようになる 」   ズシンとくる言葉でした。  また、本書の中で紹介されていた一冊が、 シェル・シルヴァシュタイン『ぼくを探しに』 ( https://amzn.to/3sVxHu2 )という本。 これは、家庭用と、授業やお話の資料・提示用に2冊買ってしまった。 シンプル・単純な線で描かれた絵本ですが、ぐっとくるものがあります。 主人公は、表紙にもあるように、三角形の欠け目がある丸なのです。昔のゲームの パックマン ような。 彼は、自分の足りない「かけら」を探して旅をしています。 「ぼくはかけらを探してる 足りないかけらを探してる ラッタッタ さあ行くぞ 足りないかけらを探しにね」 彼は欠如があって、完全な〇(マル)ではないので、あまりはやくは移動できないのです。歌いながら、晴れや雨・雪の天気を楽しみながら、虫や花と戯れたり会話しながら、旅をしています。 ついに彼は、かけらを見つけるのです。ぴったりとはまり、〇になった彼は、それまでよりもスムーズに移動することができるようになります。 ところが...

仕掛けとナッジの違いが興味深い ~ 

  松村真宏『仕掛学~人を動かすアイデアのつくり方』 松村真宏『人を動かす「仕掛け」~あなたはもうシカケにかかっている』  同一の著者の本。結構前に(多分2016年くらい)読んで、本棚に並んでいた本。別の本を探している際に、ふとまた手にとった。 この二つの本は、『仕掛学』は文章で少し硬めに、『人を動かす「仕掛け」』の方はマンガでとても柔らかに書かれているが、紹介されている「仕掛け」にはかなり重なるものがあった印象。  両書とも、ついつい「やってみたくなる」仕掛けがふんだんに紹介されていて、それを眺めているだけでも十分刺激的で楽しい。 ◎仕掛けとは…  そもそも、仕掛けとは、もともとは人工知能の研究者であった筆者が2005年ごろから新しく取り組み研究分野とされる。筆者によれば、仕掛けとは、「問題解決につながる行動を誘うきっかけとなるもの」であり、 (1)公平性:誰も不利益を被らない。 (2)誘因性:行動が誘われる。 (3)目的の二重性:仕掛ける側と仕掛けられる側の目的が異なる。 という3つの要件を満たすものと定義されている。(『仕掛学』36頁。)(その意味で、一般的な意味で用いられる「仕掛け」よりも限定されているものとされる)  今では、仕掛学研究会なるものも開催されているようだ。(仕掛学研究会: https://www.shikakeology.org/ ) ◎ナッジとの違い  近年、尼崎でも「ナッジ」という名前で仕掛け的な取り組みを耳にしていた。(例えば、こんな報道: https://amagasaki.keizai.biz/headline/1156/ )。また、各地の行政でも積極的に「ナッジ」を取り入れようという動きがあるらしい(ネットで検索するとたくさん出てくる)。今回、すこしネットで両者の同異について気になり検索してみた。  すると、本書の著者・松村真宏氏のホームページ’(シカケラボ  https://mtmr.jp/ja/ )には、仕掛けとナッジを「違うもの」として、その比較した表が提示されている。それによると、両者の相違は以下の通り。

中島岳志『親鸞と日本主義』新潮選書、2017年。

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中島岳志『親鸞と日本主義』。 2017年に刊行されて、話題となった書物。もともとは季刊『考える人』で連載されていたものに加筆・修正と書きおろしを加えて刊行されたもの。 連載の段階から、戦前・戦中の国家主義(超国家主義)と親鸞思想との接続・関係を論じるものとして大変注目させていただいていた。  三井甲之、蓑田胸喜、倉田百三、教戒師と転向した共産主義者たち、亀井勝一郎、吉川英治、暁烏敏等といった国家主義思想を唱えた人物・グループがいかに親鸞思想をベースに自説を唱えていたのかを明らかにした書物。  もともと、戦前・戦中の国家主義と仏教との関係でいえば、日蓮主義との関係がよくしられていた。石原莞爾、田中智学、北一輝等の日蓮主義者と国家主義・国体思想との関わりがよく知られていた。一方で、親鸞思想はいずれかというと、今日の状況から「リベラル」的なものとして理解されることが多かったのではないだろうか。  しかし、現実には、戦前・戦中には浄土真宗本願寺派でも「真俗二諦」という戦時教学を構築し、積極的に戦争協力・国家主義体制に荷担をしたという事実がある。  本書では、次のような指摘がなされている。  幕末に拡大した国体論は、国学を土台として確立された。そのため、国体論は国学を通じて法然・親鸞の浄土教の思想構造を継承していると言える。「自力」を捨て、「他力」にすがるという基本姿勢は、「漢意」を捨て、神の意志に随順する精神として受け継がれている。  ここに親鸞思想が国体論へと接続しやすい構造が浮上する。浄土教が国体論に影響をうけているのではない。国体論が浄土教の影響をうけているのである。法然・親鸞の思想が国体論の思想構造を規定しているのである。  そのため親鸞の思想を探求し、その思想構造を身につけた人間は、国体論へと接続することが容易になる。多くの親鸞主義者たちが、阿弥陀如来の「他力」を天皇の「大御心」に読み替えることで国体論を受容して行った背景には、浄土教の構造が国学を介して国体論へと継承されたという思想構造の問題があった。浄土真宗の信仰については、この危うい構造に対して繊細な注意を払わねばならない。(本書・終章282ページ)   国学(本居宣長)と浄土教思想との接点があるという思想史的な視点と、実際の国家主義者たちの主張・思想をひもときながら、上記...

松本創『軌道― 福知山線脱線事故 JR西日本を変えた闘い』

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  松本創『軌道― 福知山線脱線事故 JR西日本を変えた闘い』。  この本を手にした理由は二つ。一つは、人のつながり。この本の主役・浅野弥三一氏が、尼崎のまちづくり関係の事務所の創設者であり、かつその事務所と今現在、地域の関わりで大変親しくしていただいていること。かつ、その事務所の社長でもある若狭氏から紹介、おすすめをいただいたということ。  そして、もう一つはこの本自体のテーマ。尼崎のJR福知山線脱線事故を扱っているといこと。脱線事故については、昨年にそれをテーマに「テラハ。」を実施して以来、頭の中にありつづけている。地域に住む者として、また地域の寺院の僧侶として、どのように向き合い、関わっていくのかということが、一つの課題・テーマとなっている。    本書は、浅野弥三一氏という一人の人物を通して、事故とその後のJR西日本との対峙・対話の経緯を主として綴られている。合わせて、JR西日本の関係者のインタビューから事故とその後の対応についてせまるものだ。350ページを超える分量があるが、飽きや苦労を覚えずに、一気に2日で読み切ることができた。それは、単に読みやすいということだけではなく、本書の登場人物と文章の持つ熱量、本書にこめられている「願い」のようなものが、そうさせてくれたのではないかとも思う。  まず、感じずにいられなかったことは、事故のもたらした影響の大きさ、「負傷者」「遺族」の抱えた傷や、人生にもたらしたものの大きさ。その不条理。地域に住む者として、その立場から言葉を紡ぐ場をもちたいと 「テラハ。」 で企画した。しかし、地域に住む者と事故によって大きく人生を変えられた方たちとはその影響が比べものにならない。異なりすぎているとあらためて感じざるをえない。果たして、われわれが、事故について考え、言葉を発することなど、許されるのだろうか、果たして「地域に住む者」として、あの場を開き、語ったことは軽々なことではなかったのだろうかと思いを巡らさざるを得なかった。  本書は、事故後、遺族である浅野氏が4・25ネットワークの活動を通じて、JR西日本に対して、事故の本当の原因究明や、今後の対策、組織の変革をもとめつづけて、それを方向付けた経緯が軸になっている。浅野氏のことばでいえば、「事故を社会化する」闘いの内実がドキュメントされたもの。 ...

大崎善生『聖の青春』

大崎善生『聖の青春』(角川文庫) 映画『聖の青春』を元旦に見て以来 、一連の本を読んでいた。 ・山本おさむ マンガ・『聖(さとし) 天才・羽生が恐れた男』 ・大崎善生『角川つばさ文庫版 聖の青春 病気と戦いながら将棋日本一をめざした少年』 ただ映画も含めやはり、一連の本の原点・原作がこの大崎善生『聖の青春』。 映画や漫画ではカットされていたエピソードも含まれていて、それがまた村山棋士の実像と、生きる姿を思わせられる。 3才で腎ネフローゼを発症し、死を意識しながら、「将棋を指す」という人生を生きた棋士・村山聖の生涯。 映画では、7段昇格からが物語りの中心だったが、本書では、3才のネフローゼ発症から、将棋との出あい、奨励会入会も含め、その人生通して描かれている。

RYOJI+砂川秀樹 編『カミングアウト・レターズ -子供と親、生徒と教師の往復書簡』

http://amzn.to/2gD8w92 RYOJI+砂川秀樹 編『カミングアウト・レターズ -子供と親、生徒と教師の往復書簡』  LGBT関連。特に、ゲイ・レズビアンの同性愛の当事者が身近な親・教師にカミングアウトして、その時のことを振り返る往復書簡で編集されている。また、後半には同性愛の当事者の子どもを持つ親(家族)による「座談会」の記録も。    当事者だけでなく、カミングアウトされた「身近な人」の思いに触れることのできる一冊。  カミングアウトする当事者も、された相手も、一様ではなく、また対応に答えがあるわけではない。  すっとうけとめられた人もいれば、長い年月が経っても受け入れられず、葛藤を抱える母親もいる。  本を読むうちに「葛藤」という言葉が、澱のように、すっと胸の中に沈殿していく感覚があった。  しばらく、このことばと向き合う必要があるのではないか、という感覚。 【葛藤について】  葛藤など、ないほうが楽だろう。   でも、現実にはさまざまな葛藤がある。  人と人の間に生じる「葛藤」。親子関係、友人関係、恋人関係、師弟関係。  受け入れがたいことや、納得できないことを抱えつつ、人と向き合うことが、少なからずあるだろう。思い通りではない、目の前の人。「あなた」。   「あるはずではない(あるべきではない)、消すべき葛藤」というよりも、  「葛藤が生じても、向きあわなければならない相手との関係」っていう見方もできるのではないか、  人と人との間に生じる「葛藤」ともう少し真摯に向き合わないといけないのではないか。  うまく言葉にできないけれど、「葛藤」ともう少しお付き合いしなければいけないような気付きがあった。  思えば、自分の人間関係にもさまざまな葛藤がある。  家族関係にも、友人関係にも、職場にも、それぞれ大小はあるけれど、葛藤があって、その中で身じろぎしながら、自分は生きているのだなぁと。 【一部抜粋】 ・「たいていカミングアウトは、そんな社会のあり方や、かってに自分のことを異性愛者と見る人に対して抗議をするといった気持ちでおこなわれるわけではない(もちろん、そのような意味を持っておこなわれることもなくはない)。むしろ、誰かにカミングアウトするときに...

矢野久美子『ハンナ・アーレント 「戦争の世紀」を生きた政治哲学者』(中公新書、2014年)

矢野久美子『ハンナ・アーレント 「戦争の世紀」を生きた政治哲学者』(中公新書、2014年) 目次 まえがき 第1章 哲学と詩への目覚め 一九〇六-三三年  Ⅰ 子ども時代  Ⅱ マールブルクとハイデルベルクでの学生生活  Ⅲ ナチ前夜 第2章 亡命の時代 一九三三-四一年  Ⅰ パリ  Ⅱ 収容所体験とベンヤミンとの別れ 第3章 ニューヨークのユダヤ人難民 一九四一-五一年  Ⅰ 難民として  Ⅱ 人類たいする犯罪  Ⅲ 『全体主義の起源』 第4章一九五〇年代の日々  Ⅰ ヨーロッパ再訪  Ⅱ アメリカでの友人たち  Ⅲ 『人間の条件』 第5章 世界への義務  Ⅰ アメリカ社会  Ⅱ レッシングをとおして  Ⅲ アイヒマン論争 第6章 思考と政治  Ⅰ「論争」以後  Ⅱ 暗い時代  Ⅲ「はじまり」を残して あとがき  本書は、ハンナ・アーレントについて、その誕生から逝去までの生涯と、思想について取り上げている。  ドイツでユダヤ人の両親のもとで生まれたアーレントは、幼くして父を亡くすも、母を初めとしたユダヤ人親族のもとで育てられる。大学では、ハイデッガーとヤスパースに師事。その才能を伸ばし、多くの友人たちとの交流を持つ。やがて、ナチスによるユダヤ人の虐待・弾圧が始まると彼女自身も収容所に入れられるという経験をしつつ、アメリカへ亡命。終戦・ナチスの敗北後もアメリカを拠点としつつ、欧州との間を行き来しつつ、『全体主義の起源』『人間の条件』、「アイヒマン論争」を引き起こす『イェルサレムのアイヒマン』等の執筆、発言をしつづけた。  アーレントの視点は興味深い。彼女の思索、視点はその生涯、ユダヤ人というアイデンティティ、そして彼女とユダヤ人がおかれていた政治状況とまったく無関係には成立していない。しかし、その言及は単なる「ユダヤ人」の権利や、地位向上を訴えるものにとどまらない。「ユダヤ人」という立場を前提にしつつも、普遍的な人間としての価値や、正義にコミットとしていくような深み、奥行きがつねに内包されているように思われる。  たとえば『全体主義の起源』については、単に全体主義の歴史的事実、あるいはナチスドイツの全体主義批判をするのではなく、それを生み出した歴史、要素を分析、記述しようと努めているとい...

毎日新聞「境界を生きる」取材班『境界を生きる 性と生のはざまで』

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とある依頼で、LGBT関連の資料と情報をまとめる機会をもらった。 そんなわけで、あらためてこの問題について関する本を一冊。 というか、そういう状況で手にとってしまって、また感情がゆさぶられたので。 ・毎日新聞「境界を生きる」取材班『境界を生きる 性と生のはざまで』  LGBTのことに関心を向けた数年前にまとめて買った本の中の一冊。すこし読んだだけで、切なさと、それぞれの決断で感情が大きく揺さぶられる。    人間には、一定の割合で「男性」と「女性」のいずれでもないか、あるいはいずれの特徴ももって生まれてくるということが起こりうる。性分化疾患(DSD)や、インターセックス等とも名称される。その当事者と家族をはじめとする周りの人たちの姿をとりあげたルポ。    生まれてきた子どもの性別を決める、という覚悟と決断を迫られる親、明確な性別のアイデンティティをもつことが許されず、つねに「居場所」がないという苦しさを抱えて生きて行かざるを得ないい当事者。  恥ずかしながら、「性別」は誰もが当然のように自覚でき、公表しうると思っていたが、現実には、非常にあいまいな状況におかれ、公表することもできず、ひとりで息を潜めて生きて行かざるを得ない状況があること、また、重すぎる覚悟と決断を無理矢理に背負わされていた人がいたということに対して、想像が及んでいなかったことをまざまざと知らされた一冊。  しかし、その苦しみに責任を負うべき悪い人がいるのか、というとだれのせいでもない。誰のせいでもない苦しみを共有したり、公言したりできない社会の方が、変わっていかなければいけないのではないかという思いを強くした一冊でもある。  僕が、LGBTのイシューについて、発言したり、関与したりすることにいぶかしがっている人もいる人もいるかもしれないけれど、一人の社会人としても、そしてなにより「宗教者」としても、この苦しみは知った以上に無視できないという思いがつよくなったからです。  なにもできなくても、そういう人がいる、ということを知るだけでも、その人が抱えている苦しみに変化をあたえることができる、ただ知ること、それが大きな意味を持つことだと思っています。 そんなわけで、ずっと頭の中にあった想い、 LGBTについて活動されている当事者の方に来ていただいて、 学び、語り...

井上理津子『葬送の仕事師たち』(新潮社、2015年4月)

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井上理津子『葬送の仕事師たち』(新潮社、2015年)  本屋で見かけたことをきっかけに、軽く読んでおこうと買った本。  取材を元に書かれたルポ。ただ、やや「外」からの視点で書かれた印象。  書かれたモチベーションとしては、葬儀の要不や意義についての議論の中で、 「だが私は、ちょっと待ってよ、と思った。議論以前に、葬送の仕事をする人たちが、どのような思いで、どのような働きをしているのか。私たちは知らなさすぎやしないか、と。」(あとがき、249頁) と感じたところにあるのだろうと思われる。  6章構成の中で、「葬儀の専門学校」に通い学ぶ学生たち、葬儀社、納棺・湯灌の業務に携わる人たち、エンバーマー、火葬場の職員さんたち、等に取材し、それらの声と思いが集められている。いずれも、真摯に遺体や遺族に向き合い、使命感や意義をちゃんと見いだしてその仕事に携わっている姿が描かれている。  熱い思いをもって、葬送業界に関わっている人は多様だ。身近な葬儀で感動を覚えた人、人生の変遷の中で関わった人。それぞれの人生、生活の背景と共にその業務や志か語られている。  葬儀というものが、どんな人に担われているのか、どんな思いで仕事が為されていたのかを、想像を及ぼすにはいい一冊。    個人的には、評価についてはペンディングしておきたい印象。  本書の表現の方法は、取材対象が直接立ち上がってくるのではなく、著者の「取材現場」に、読者が直接居合わせている印象。取材対象が語る言葉や、行為に対して、著者の思いやリアクションも含めて描写される。そのためか、取材対象の方の言葉が集められているのだけれど、ところどころに著者のフィルターがかかっているようにも感じる。そういう意味では、どこかしら、著者のこうあって欲しい、こういう人たちであって欲しいという期待も感じられなくもないのかも・・・。   追記:  アマゾンのレビューは今日(2015/08/16)現在、のきなみ高評価だった。

中山順司『お父さんがキモい理由を説明するね―父と娘がガチでトークしました 』(Linda BOOKS!、2014年)

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中山順司『お父さんがキモい理由を説明するね―父と娘がガチでトークしました 』(Linda BOOKS!、2014年) 2015/08/10(月) ふらっと入ったJR尼崎の駅ナカの本屋で見かける。 ぱらぱらとめくって、雰囲気と内容から購入を決定。 ほぼジャケ買い。 もともとはwebの連載から展開した書籍。 父と娘の週末トーク ▼ http://www.itmedia.co.jp/keywords/holiday_talk.html 100万プレビュー以上を記録した有名なコンテンツだったそうだけど、本を見るまで知らなかった。 一気に読了。内容は、とても良かった。いろいろと考えた。 サブカル系としては、個人的には、 『中の人 ネット界のトップスター26人の素顔<中の人 ネット界のトップスター26人の素顔>』<中の人 ネット界のトップスター26人の素顔> 以来、胸を張っていろんな人に勧めたい。  表紙・タイトルはポップだけれど内容は、「父と娘がガチでトークしました」という表紙に書かれている言葉に嘘はない。父と娘のガチトーク。  恋愛について、「父がキモい」ことについて、「人生」について、死について、いじめについて、ディープなテーマが親子でしっかりと、本当にしっかりと語り合われています。  読み終えて、あらためてすごいなぁと感じたのが、タイトル『お父さんがキモい理由を説明するね』の妙。  お父さんがなぜ「キモい」のかがしっかりと語られて、お父さんが撃沈するわけだけれど、一貫して流れているのは、ちゃんと成立している親子の「対話」。  父は、自分の経験や知識を語ると同時に、娘に対して投げかけを行い、またなにより娘の考えや思いを受け取って驚きを得ている。娘は、自分の思いや感情をちゃんと言葉にして、13歳の世界と考えを提示して、全力で語っている。  「お父さんがキモイ理由を説明する」というタイトルに象徴されるように、娘の方がその世界を開陳して、父親に衝撃を与えるという構図は、父親にとっての不可解きわまりなく、受け入れがたい感情が、まさに13歳の中学生の娘のあり方そのものであって、それと向き合ったことで、はじめて「対話」(はもちろんのこと、そ...

鵜飼秀徳『寺院消滅~失われる「地方」と「宗教」』

鵜飼秀徳『寺院消滅~失われる「地方」と「宗教」』 2015/8/6(木) 鵜飼秀徳『寺院消滅~失われる「地方」と「宗教」』(日経BP社、2015年5月25日刊行) 寺院・住職に対するインタビュー、取材を元にしたルポタージュといった性格の本。 全体で4章構成  第1章は時代・社会変化、災害などの事象によって、運営・経営の危機に瀕する(瀕しながらも奮闘する)寺院の実状、  第2章は、時代に適応しようとし、新たな試みをしたりするなどしている僧侶、寺院の姿を、  第3章は、廃仏毀釈や、農地改革などで劇的な影響を受けた歴史的な背景から寺院の実状に近づこうとし、  第4章には、各教団がおこなった実態調査の報告が(付録的に)置かれている。  こういう性格の本を書こうとすると、やはり「事例紹介的」にならざるを得ないのは、寺院寺院で、規模や実状がまったく異なるからだろう。隣同士のお寺でも抱えている問題や、状況はまったく違ったりする。  そういう意味では、一般化できる問題と、個別的な問題が、併置されるように語られていて、それを見分けることがむずかしい(見分けることというより、分類することがほぼ困難)なのではないだろうか。人によって、「一般的な問題」と思われることと「個別的な事例だな」と思うことの境界があいまいだったりする。 共感するしかないということも、一般化して語る事を許さずに「ルポ」的に、こういう手法で語っていくしかないのかな、といつも思う。  寺院や宗教が果たすべき役割、求められること、というのも同様で、地域や立場によってそれぞれ考えていることが違うので、これまた一般化できない。  これはもう、コミュニケーション能力でその場、その地域で発掘していくしかないのではないかと思っている。  時間を掛けずにざっくりと書くので乱暴になるけれど、こういう個別的な事例を、無理矢理に一般化するのではなくて(する場合は慎重にしつつ)、 読み人個人の課題や思いとすりあわせながら、自分のなかに落とし込んでいくまで、というのがこういう性格の書の向き合い方かな~等と思った次第。十把一絡げにしてはいけない。   関連記事 ・ http://www.nikkeibp.co.jp/atcl/matome/15/326116/0604...

小林正弥監修、藤丸智雄編 『本願寺白熱教室』

2015/8/5(水) 小林正弥監修、藤丸智雄編 『本願寺白熱教室』 いまさらながらに、読みました。遅くなりまして、ごめんなさい。 前職の研究所が、法蔵館から出した一冊。 身内を褒める、手前味噌のような感じになるのもアレですが、 それを差し引いても、伝統教団の中ではかなり進んだ議論が公開の場で行われたのではないかと思う。あらためて見直しても刺激的な議論。 僧侶同士であっても、意見の割れる問題が設定される。そこでの意見や判断から、どういう価値がわれわれの中にあるのか、何を優先して行動しようとしているのか、が自覚的になってくる。 頭の中で結論を出すのではなくて、現実の具体的な問題のなかに身を置く。その場で身を引き裂かれるような判断が迫られる中で、「えいっ」と決断をする。そんな中でしか、社会的な実践なんてできようのないのだろう。そんな中でしかちゃんと社会的に意味ある行動なんてできないのだろう。そんな風に思うのだが、どうだろうか。  現実の社会の中で向き合おうとするならば、かならず突き当たる「ジレンマ」をちゃんと正面から見据えていること。  「本願寺」という宗教教団(団体・お寺)の名称を冠しながらも、「宗教」と「宗教教団」が抱える「長所」と「短所」(問題)を忌憚なく、遠慮なく書いている。 けっして「布教」(ましてや一般が思われる「洗脳」とか)目的の内容ではなく、ちゃんと「宗教」とはなにか、「公共」とはなにか、「公共の場で宗教がある、ということにどんな意味があるのか、ということについて考えられる内容になっている。

池内恵『イスラーム国の衝撃』(文春新書)

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池内恵『イスラーム国の衝撃』(文春新書) ふらっと立ち寄った本屋さんで発見。  昨今の事件を自分なりにも消化したい思いが、ふっとでてきた買った。  集中して、1泊2日で読了。  イスラーム国の成り立ちや、特徴、思想、  それから中東のこれまでの政治情勢がわかりやすくまとめられていた印象。    新聞やニュースを読んで、なんとなくしか触れていなかった言葉に (まだ漠然としているけれど)意味と、背景を与えられていった感のある読後感。  ばらばらと放り込まれていた中東情勢が、なんとなくまとまりと流れをもって 自分のなかにつなぎ合わされていったような感覚も。  「宗教」と「国家」(政治)との関係、  それから、現実の状況(政治状況・経済状況・生存状況)に対する不満や鬱屈を 回収する機能としての宗教のあり方など、 考えるべきことは多々。  もうすこし時間をおいて考えてみたいとも・・・。  

對馬路人「鉄道と霊場―宗教コーディネーターとしての関西私鉄」

山中弘『宗教とツーリズム-聖なるものの変容と持続』(2012年7月)に載っている論文。 身近なところで、後輩が宗教ツーリズム研究を始めました。 自分も興味がなかったわけではないけれど、長らく買ったままで、なかなか読めなかった本をやっと開いた次第。 掲載されている論文を3本ほど読んだところですが、視座のとてもおもしろい研究分野だと思いました。とくに面白かったのが、對馬路人「鉄道と霊場―宗教コーディネーターとしての関西私鉄」。 関西人にとって身近な、阪神・阪急・京阪・近鉄・南海、さらには阪堺電車に至るまで、実は電鉄の敷設や経営が宗教施設と深く、密接に結びつきながら行われていたことが指摘されています。 これは近隣の人は、各電車の路線や駅名、ロケーションを思い返せば、はたと気がつくのではないでしょうか。 たとえば、阪急電車では、宝塚線には、有名な中山寺・勝尾寺・清荒神などはすぐに思いつくし、京阪も、稲荷大社や八坂神社、宇治線には平等院、京津線には石山寺、三井寺、比叡山、日吉大社。近鉄も、石切、瓢箪山稲荷、等々。 かの阪堺電車は、住吉大社に接続しています。 もちろんも、挙げればもっともっとあります。 この論文では、そもそも鉄道会社の歴史を追えば、その初期段階で、鉄道会社自身が、設立初期の段階で、その主要な乗客としてそれら宗教施設への「参拝客」を想定していたこと、参拝の手段・ルートとして鉄道の敷設を行っていたことも指摘されています。 宗教施設と鉄道会社の結びつきは、その宗教施設の賑わい、人気と鉄道会社の経営、戦略と無関係ではなかったという事実。 また、開設後、鉄道会社が、それら宗教施設の盛り上げやイメージ戦略に積極的に関わっていたこと。 このことは、いろいろなことを考えさせてくれます。 「鉄道」という乗り物は、歴史的にはとても「宗教」と深く結びついていたこと。 鉄道会社の経営戦略が、われわれの宗教に対する観念や、「宗教行事」のイメージにも影響を与えていったということ。 「鉄道」という要素と宗教的なことがらを結びつけて考える視点をもらいました。 電車の路線図を見るときに、また違った角度から見る視点を与えられたような読後感でした。

人の流れが面白く見えた

 昨日、大学内の本屋でふと見かけて、買ってしまった本。   三浦しをん『舟を編む』 。 予想以上におもしろく、感慨深かった。感想やレビューはまた改めて書きたい。  主人公の「まじめ」さんは、とても変わった人で、「エスカレーターに乗る人を見ること」が趣味だという。  「電車からホームに降りたら、俺はわざとゆっくり歩くんです。乗客は俺を追い越して、エスカレーターに殺到していく。けれど、乱闘や混乱は生じません。まるでだれかが操っているかのように、二列になって順番にエスカレーターに乗る。しかも左側は立ち止まって運ばれていく列、右がわは歩いて上っていく列と、ちゃんとわかれて。ラッシュも気にならないほど、うつくしい情景です」  (中略)…そこに美と喜びを見いだす馬締は、やはり辞書づくりに向いている。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  朝、職場に向かう道中。京都駅。  中央の改札を出て、左に進む。  その流れに乗ってすこしすすむと、左の階段から下りてた人の流れがそこに加わる。  流れの先に目をやると、ちょうどあふれかえった人の流れが、二つに分かれていくように、徐々に開いていくところだった。  人の波がハッキリと2つに分かれると、歩道沿いに左側へと進む流れ、横断歩道を渡るために右へと進む流れに分かれた。    多くの人は、流れの真ん中辺りに固まって進む。  何人かの人たちは、その人混みを避けるようにやや外側を歩く。人混みを避けながら、でも流れに沿いながら、同じ方向に向かう。  水が平地を流れながら、川の流れを形作っていくような過程を見たような気がした。  そんな光景がおもしろいと思ったのも、昨夜に「まじめ」さんの言葉に触れたからだ。  今まで毎日歩きながら、人の流れを「面白いもの」と思って見ることもなかったし、そこに美を見いだすことはなかった。  けれど、そこに美があると、語ることばに触れて、改めてみると確かにそのようにも見ることができた。  言葉は、見たものを表現し、あるいは心を表現する手段のように思われる場合もある。  しかし一方で、言葉によって物を見て、言葉によってそのような感情が立ち上がってくるという面もある。  言葉がなければ、なにも「見ることはできない」し、言葉がなければ、何かを感じたり、思ったりす...

台風通過中

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台風17号が接近中。 昼前から、風と雨が強まりだした。境内の木々が風で大きく揺れている。 外の暗さとともに「嵐の日」を感じさせる。 明日までには、近畿を通過するようで、この様子だと明日の講義も休講になることはない。 準備もしなければと思いつつ、他の作業や、読みたい本に頭が移る。 今から少々、勉強モードと宣言して、作業に入ります。 【気になる本】  『2015年の電子書籍 現状と未来を読む』  担当している業務に関連して、書籍の電子化・アーカイブ関連の本を読んでいて、その一冊。  関連書籍を読むほどに、「電子化」とか、クラウド利用の意味を考え、興味がます。  ちょっと手を伸ばせばいろいろとできることがあるのに、と思いつつ個人として動き始めるのは、だいぶん先になりそうではあるが・・・。  ※ アマゾンの法人税問題を考慮して、最近は、「セブンネット」を積極的に使っています。そのため、リンクもセブンネット。  ※といいつつ、アマゾンも利用しているのですが・・・。

釈徹宗『親鸞の教えと歎異抄 図解でやさしくわかる』

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釈徹宗『親鸞の教えと歎異抄 図解でやさしくわかる』 こんなの出ていたのを知りませんでした。 広告で知りました。 でもって、注文しました。 到着を待ちます。

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