2006年8月30日水曜日

阿弥陀如来

 阿弥陀如来という仏さまは、全ての衆生を見捨てずにすくい取ろうという願いを立てられた仏さまです。

 阿弥陀如来という仏さまの放つ、慈悲の光明は、いつでも、どこでも、全ての衆生を照らしているのです。煩悩によって見ることが出来ないけれども、常に、照らし続けているのです。





 

 知っている人にとっては、なんだそんなことか、ということかもしれません。

 けれども、その「当たり前」のことが、一番大事なことではなかろうかと。



 その如来のすばらしさは、「知っている」という世界にいる人たちにとっては当たり前のことでありながら、それを聞いたことのない人には、素晴らしい魅力を持っているのではないだろうか。

 その素晴らしい魅力があるのに、もしかしたら、「さもありがたそうな、大したことのない魅力」を一生懸命探していたのかもしれない。





 自分たちが当たり前に感じて見落としているなかにある「すばらしさ」を、もう一度見直すことも大事ではないかと、最近ちょっと思うのです。

死者と生者





「身近な人の死を経験したことのある人ならば、死者は死によっていなくなってしまうのではなく、というか、むしろいなくなってしまうことを通じて、生者以上に強力にはたらきかけ、私を放っておいてはくれないことをしっているだろう」

��末木文美士 『仏教VS倫理』より)





 「死」は、「別れ」である。しかし、「別れ」とはそれで終わりということではなく、あたらしい関係の始まりなのだろう。

2006年8月28日月曜日

帰宅。

うちに帰ってきました。





とある社会で評価される人が、違う場面にいくとまったく評価されていなかったり。あるいはその逆だったり。

具体的に誰がというわけではないですが、そんな場面によくでくわします。



そして、よい評価は自分の耳に入ってくるけれども、悪い評価はなかなか耳にすることはなく。

結局、自分がどこで批判されているか気がつかないまま。





評価され、人前に立つということは、それだけその反面の影の部分も強くなるということをことあるごとに思います。



昼書いた、どうなりたいか、ということは、ある面では、どこで評価をされ、どこで批判されるかということを、ある意味求め、ある意味あきらめるというか。

そんな意味もあるわけで・・・。





思いつくまま。





もう寝ます。

2006年8月27日日曜日

リセット

発表を終えて



いろんな意味で、一段落。





とりあえず、気持ちも、生活も、仕事も、





リセット。





明日から、またがんばります。

札幌空港

13時。現在地札幌空港。人、多し。

これからすること=まだ買ってない分のおみやげ探し。搭乗時間待ち。



こんな感じの現在です。



ほぼ二年ぶりの学会での発表。

したからこそ見えてきた反省点も多々。研究の内容うんぬんというよりも姿勢の問題かもしれない。いや、資質の問題かもしれない。



だとすれば、根本的な問題だ・・・。





「研究」という名詞に対峙して、



なにをすべきか。

なにがしたいか。

どうなりたいのか。



この三つの間にある微妙なバランスにたえずふらふらするような。



すべきこと、したいこと、なりたいもの。







とりあえず、16時の飛行機で帰ります。









2006年8月25日金曜日

北海道印度哲学仏教学会

すっかりご無沙汰してしまい失礼しました。



更新していない間、いろいろありました。



・祖父なくなる。7月10日

・顔に帯状疱疹ができる。8月初旬

・お盆参りをしている。 8月中旬

・高校野球で盛り上がる 8月中旬



そのたもろもろ。



いろいろありましたが、今日から、北海道に行ってきます。

毎年恒例となりました、北海道印度哲学仏教学会。

今年度は、発表してきます。





いってきます~。

「宗教的な救い」とはなにか?

・先週は宮崎先生と対談でした  先週の土曜日 4月13日の午後は、相愛大学の企画で、宮崎哲弥先生の講義にゲストスピーカー・対談相手として、登壇させていただく機会を得ました。  以前このブログでもご案内していたこちらです。  【登壇情報】宮崎哲弥先生と対談します。 https://...