2020年3月18日水曜日

クラウドファンディングをして考えていたこと

 カリー寺基金というクラウドファンディングにチャレンジをしています。
https://camp-fire.jp/projects/view/211382

 カリー寺基金を企画した理由について、その一つは、以前、活動報告でも書かせていただいたことがあります。なぜ地域に助成するという企画を立てたのかということについて、その意味について書きました。
https://camp-fire.jp/projects/211382/activities/115644#main

 このカリー寺基金には、もう一つの側面があります。それはファンドレイジング―協賛の募集および、クラウドファンディングによる資金集めをしているということです。前者は、お金を地域に「渡す」というチャレンジ。後者は、地域や多くの人からお金を「渡される」「預かる」「寄付される」というチャレンジです。今回は、この後者の点について、少し言葉を重ねてみたいと思います。


●僧侶は「ファンドレイザー」でもあった。

このクラウドファンディングは、私(住職)にとっては、ある意味で「僧侶としてお金集めをする意味を問う」というチャレンジでもありました。古来より、日本では僧侶が寄進を集めてまわる「勧進」などが知られています。勧進については、このキャンプファイヤーのページでも紹介されていました。


  •  “ちなみに、「クラウドファンディング」という言葉自体は比較的新しいものですが、不特定多数の人から資金を募り何かを実現させるという手法自体は古くから存在していました。海外では美術品などのアート分野で寄付を募る取り組みや、日本では寺院や仏像などを造営・修復するために個人から寄付を求める「勧進(かんじん)」などがその例です。”

https://camp-fire.jp/crowdfunding より)
 
 古代・中世には寺院や仏像の建立・再建の他、道路や橋等の公共事業なども「勧進」によって行われることがありました。弁慶の勧進帳等の逸話等でも知られています。
そういった意味では、そもそもの僧侶の活動とこのクラウドファンディングということは、一定の親和性があるものという言い方もできるのかもしれません。現在でも、お寺の運営・維持も多くのケースが「お布施」(寄付)によって成り立っています。また大きな工事や、事業になるとそのたびにお寺は「寄進」を募ったりします。
 つまり、僧侶の仕事とは、ある面で「ファンドレイザー」という一面をもってみることもできるのではないかと思っています。

●寄付のわからなさ ― 幼いころから触れていた「お寺へのお布施」についての問い

上述のように僧侶は古来よりいただいたお布施によって生活をさせていただくとともに、お寺の運営や維持のための寄付を募り、預かるという、いまでいう「ファンドレイザー」の役割を担っていました。
 しかし、お寺に寄せられる「布施」や「寄付」について、私自身は以前から抱えている疑問がありました。お寺に生まれ育って、子供のころから、法要や日常においてお寺に寄せられるお布施や、ご寄付の様子を見ながら、受け取り手側(お寺側の人間)である私にとっては、「どうして檀家さんはお布施をされるのだろうか?」「なぜこの寄付をしてもらえるのだろうか?」という疑問が頭のどこかにありました。
 いま、あえてその疑問や感覚を言葉にすると、次のような言い方もできるかもしれません。

 対価や金額設定がないにもかかわらずなぜお布施・寄付がなされるのだろうか。そこに納得や意味が見出されていればよいが、時にお寺に寄せられる「お布施」は、すべてではないにしても、「問い」や「納得」を経て行われたものではなく、むしろそういった「問い」や「納得」が放棄された慣習的な行為であるかもしれないという可能性があるのでないかという疑問を感じており、それへの違和感を持っていたのかもしれない。

もちろん、布施や寄付ということ自体を否定しようというものではありません。それぞれの信仰や価値観に基づいた寄付、納得や意味をもった寄付であれば、もちろんそれはすばらしいことだと思います。しかし、一方で場合によっては、「そういうものだから」とか、「ずっとやってきたことだから」と、問いや納得もなく、あるいは説明されることすらもなく、形式的のみに「布施」「寄付」という行動が採用されているのだとしたら、それは(ひどい言い方をすると)構造的搾取とも言いえてしまうような集金行為である可能性がある。その可能性がないとはいえない。そんな怖さをそこに感じていたのかも知れません。

もっとシンプルにいってしまうと、わが身に引き寄せて考えたときに、「自分ならばそのお布施(寄付)をするだろうか?」とか、「自分がそのお布施(寄付)を受ける意味・理由をちゃんと見いだせているのか?」と考えるときに、幼かった自分にとって(小学生・中学生のころですが)ちゃんとYESといえるだけのものを持ち合わせていなかった、そういう言い方もできるかもしれません。

 誤解のないように言っておくと、いま自分のお寺では、お寺と支えてくださる門徒さん信徒さん(いわゆる檀家さん)たちとの関係は良好だと感じています。お寺に好意的に関わってくださる方、積極的に協力や支援をしてくださる方がたくさんいます。「搾取」しているわけではないと思っていますし、納得や説明をして、向けてくださったご期待に添えるようにありたいと思っています。しかし、やはりどこか歴史的な文脈や慣習の上に成り立って、いまのお寺が存続しているという現実はあることは否めません。だからこそ、それに胡坐をかき続けるのではなく、問い直しや、説明をしていく責任があるのだ、という思いもまた抱えています。(それが現在において十分に果たせているかというと、そうではなく、まだまだ見直し、考えるべきことがあるとも思っています。)
「お布施」(寄付)をお預かりする側として、お寺・僧侶として、どういう心持ちで、それらと向き合うべきなのか、そういう問いや言葉を自分のなかで繰り返し、醸成し続けることが意味あることなのではないかと思っています。

●「布施」・「寄付」の意味や納得を考え直す機会として


 今回のカリー寺基金のクラウドファンディングは、上に書いた二つの面から、僧侶としての自分自身の「寄付集め」ということについての問い直しという意味を持つチャレンジでもありました。

(1) 古来、あったはずである僧侶の「ファンドレイザー」としての一面(言うなれば、地域の「寄付集め係」の在り方)を、現代的に問い直してみること。

(2) お寺へ寄付するという行為、お寺としての寄付の呼びかけを、「問い」や「意味」が問われる文脈に置きなおして行うことで、見えてくるものを考えたいということ。

(1)については、今回のクラウドファンディングは、「基金の構築」という、いわば「ファンドレイズのための、ファンドレイズ」「助成のためのファンドレイズ」であり、よりその問いを顕在化させるように思っています。 
また、先にも述べたような「歴史的」「文化的」に寄付される存在であった、「お寺」(を名乗る「カリー寺」)や僧侶(住職)へのファンドレイズは、そういった歴史的・文化的蓄積の肯定的(ポジティブ)な活用たりえるのか、という問いでもあるように思っています。
(2)については、クラウドファンディングを行うという行為自体がその問い直しの作業でもあると思っています。そういう意味では、成功できるならば、もちろんうれしいことですが、仮にそうでなかったとしても、そこから読み取るべき、考えるべき意味は、十分にあるように思っていました。

 そういった意味で、(当然のことといわれるかもしれませんが)今回のクラウドファンディングは、単に金額を積み上げるだけの時間ではありませんでした。どういう関係性をカリー寺の他、西正寺で行ってきた活動のなかで紡いでいたのか、自分や自分たちの思いやビジョンはちゃんと伝える作業をして、共感・共有は行われていたのだろうか、そういった足元をいちいち見つめなおす機会でもありました。暫定的な「答え」として見えてきたものも、いくつかありました。
 おかげさまで、現在今回のチャレンジは、3月17日の23時現在で、95%を超えるところまで到達することができました。みなさんのご協力あってのことですが、金額のみならず、カリー寺住職の内面的な問い、チャレンジとしても大変得るものが多い期間を過ごさせていただいているという思いが強くあります。(ありがとうございます)

またやると思います。

クラウドファンディングや、あるいは違った形かもしれませんが、「寄付のお願い」とう行為はまた行うだろうとおもいます。そもそも「お寺」「僧侶」の在り方が「お布施」「寄付」と不可分には成り立ちません。だとするならば、それに慣習的に依存するのではなく、社会の中で「寄付」「贈与」ということについて、問いかけやそのより良い形を問うてみるということがテーマとして立ち上がっているように思われるからでもあります。
 
 そのようなわけで、お布施や寄付について思うところの一端をこの機会に言葉にさせてもらうことにしました。また、いろいろなご意見や感想があれば、いただければありがたいです。
 また、寄付やクラファンのお願いをさせていただきましたら、また温かく見守っていただけたら幸いです。
 
追伸:
今回は書けませんでしたが、その「寄付」はもちろんもらう側としての視点のみではなく、これまでに私自身が行ってきた「寄付する側」になって見えてくるものもたくさんありました。(NPOやいくつかの団体に最近では寄付や継続的な関係を作るような活動をしています。そのあたりは、また別の機会があれば。)
 寄付・お布施に支えられながら動いている身としては、寄付は受け取りつつまた、様々なところにお返しもしていけたらと思っています。
 

https://camp-fire.jp/projects/view/211382



2020年3月13日金曜日

おてらびらき(6)やりました

 午後からのんびりとお寺のお座敷をひらいておりました。
 てらびらき(https://www.facebook.com/events/192693955497352/

 12時30分から座敷のお掃除、片づけ、手を付けたいと思っていた作業をいくつかしました。一人だとできないことが、だれかいらっしゃるかも、という可能性が絶妙な緊張感をもたらして整理や掃除をはかどらせてくれました。



 だれもいらっしゃらない可能性も十分考えていたのですが、

 ・企画の相談行っていいですか?というアポ
 ・お寺にいるなら、「………いいですか?」というご相談。

がありました。
ということで、ある程度「予定や時間があいてますよ」という宣言的なものも意味があるなぁという手ごたえもありました。その他、15時過ぎに、フェイスブック見てきましたとお越しくださる京都からお越しの方も。

 ちょうどその京都の方がこられてほどなく「企画の相談」が始まったのですが、ここでかなり驚きの展開がありました。
 相談された企画の中で、「田んぼでラグビーをやってみたい」という話も出たのですが、そのたまたま来られていた京都の方が、「田んぼでラグビーやっているのに関わっています」と!!!!

 いらっしゃるのはその2人で、たまたま居合わせたところでこんなマッチングが!って笑ってしまうような遭遇でした。

 そういう結びつきや出あいが自然に起こる場になったというのが、なかなか面白くうれしいことでした。

 そういうわけで、明日もコロナで予定があいていますので、午後はのんびりとオープンしております。

 3月14日もてらひらき(明日は、6.2)
 https://www.facebook.com/events/563107851217449/
 


 

2020年3月10日火曜日

「よいかなよいかな」をオンライン(zoom)で行いました。

 3月9日(月)。19:00から、仏教を学ぶイベント「よいかなよいかな」を予定していましたが、コロナウィルスの影響を鑑みて中止しました。その代替として、オンラインzoomを利用した仏教談義というか、談話会を呼びかけたところ、主催者含めて5名で開催しました。いずれも継続的に「よいかなよいかな」に参加してくださっていた人たちです。。

 まずは、自己紹介と最近のトピックをチェックインとして、一言ずつ話してまわりました。
 
 次に、今回の趣旨をアナウンスして、参加者それぞれがこれまでの「よいかなよいかな」での感想や、印象的だったこと、期待ややってみたいことなどがあれば、話してもらい、その出してもらった意見や思いを掘り下げていったり、広げていくような形で進めていきました。

 ・「仏さま」の説明とても印象に残って、日常生活にも影響がある。
 ・エピソード(たとえ話)がおもしろい。
 ・参加者の考えや、感想・反応が興味深い。
 
 等、それぞれの視点があるなぁと感じました。

 そこから展開していった話題は、大きく二つあったようにおもいます。
 一つは、「宗派」の違いについてのもの。
 浄土真宗だけではなく、他の宗派ではどうなのか? 他の宗派のお寺やお坊さんとの接点でこんなことがあったけど?というような話が共有され、このよいかなよいかなの参加者のみなさんの「宗派のちがいって?」というような関心に触れるころができました。

 もう一つは、「ご朱印」とか「占い」といった世間的に流行しているものや期待にどうしてお寺や浄土真宗は乗っかっていかないのか、距離があるのかという問い。
 実際に、僕自身も、先日東京に行った際に、新宿の街を歩いたとき、かなりの「占い」のお店があり、またどこも盛況だったことを目にしたこと。あるいは身近な人が占いに対して関心を寄せていること、心理的なハードルがあまり感じられないことを、どのように考えたらいいのかというような疑問をもっていたこともありました。

 あれこれ聞いた後、すこし私の立場から「占い」に対してどうして距離をとっているのか、という話をしたのですが、こういった話題をあつかってみるのも面白いなぁと思いました。
(抽象的なレビューですみません)

 意見交換できたことで、「よいかなよいかな」の展開もいろいろと見えてきたものがあります。また次回以降の開催をどうぞお楽しみにしてください。


2020年3月6日金曜日

西正寺の永代経法要を中止しないのは(規模縮小でやります)

 コロナウィルスで大変な状況ですが、自坊西正寺の永代経法要(3月25日・26日)は、コロナウィルス対応・対策を取りつつ、規模を縮小しながらお勤めさせていただく予定です。
 法要の案内・詳細については、以下のリンクの記事に投稿しておりますので、ご覧ください。
  http://saishoji.net/archives/317

 この投稿では、なぜ現在において(中止ではなく)上記の対応に至ったのかという思いをすこし書きたいと思いました。

【とるべき対応の候補と選択について】

実際に2月末からの急展開で状況が追い付かなかったところが多々あります。全国の小中学校の休校や、諸行事の自粛の様子が報道を通してうかがわれ、どのように対応すべきか正直迷いが生じていました。また、全国のお寺にとっては、3月にはお彼岸を迎える時期ですが、お彼岸の法要や、永代経といった法要の動向も「中止する」という判断をされたことを多数うかがっていました。この判断は、苦渋の決断・断腸の思いであろうとお察ししますし、感染対策として最善の判断をされたということだと思います。

 自坊の状況を考えたとき、お寺にお参りに来られる方は、いわゆる高齢者が大変多くいらっしゃいます。今回の新型コロナウィルス、肺炎の高リスク層です。この状況でなんらかの対応をとらないという選択はまずありえませんでした。
 では、どうするか。可能性として考えられる候補をリストアップすると、以下の案があると考えました。(選択しないものも含めてリストアップしています)

1、平常通りに実施する。
2、感染対策(消毒・マスク等)を行いつつ実施する。
3、規模を縮小し、感染対策を行いつつて実施する。
4、参拝者なしで、お勤めのみを実施する。
5、中止する。一切何もしない。

もしかすると、この他にもあるかもしれませんが、
素人判断で、思いついたのはこのレベルでした。

上記のように、現状において1はもう無理だと思われました。学校や3月中の行事が自粛・中止をしているなかで、なにも対応を取らずに実施するというのはあり得ません。2の対応をとったとしても、本堂という空間に数十人の人がいるのは、感染対策として今回の場合は十分な対応ではないと思われました。また「都合をつけてご参拝ください」と呼びかけられるレベルでもありません。そうすると3以下になります。

 3月の下旬には状況がもしかしたら少し改善している可能性があります。感染が減ることはありませんが、平常の活動に戻ろうという機運がでてくる時期かもしれません。とするならば、現状では、3の判断が可能だろうと判断したわけです。数十人規模ですので、今後の変更・案内も不可能なレベルではありません。そういった規模感もこの選択の背景にはあります。
 もちろん状況次第で、4(無参拝者)に進む可能性は念頭にあります。その場合は、再度ご案内をして回ることが必要だと思っています。
 一方で、私(住職)がコロナウィルスに感染したという状況にもならない限りは、今回の場合5(中止)という選択肢は取らなくてもよいだろうという思いもしています。それは、最小規模が寺族のみという、生活以上にリスクが上がる状況ではないということもあります。

【どうして中止しないのか】

 どうして、高リスク層の高齢者の行事にも関わらず「中止」と判断しないのか。もちろん、実際に法要の中止を判断されたお寺がたくさんあることを伺っています。しかし、西正寺は、お招きした御講師に今回は見合わせいただくこと、参拝者はそれぞれの判断(お参りしないということも含めて)をしていただくという形でご案内をしました。

 その判断の根底には、これまで継続して行われてきた法要を(形を変えても可能な限り)継続してお勤めし続けることに意味があると考えているということがあります。
 
 春(3月)・秋(9月)の永代経、そして11月の報恩講は、西正寺でもっとも大切にお勤めしている法要です。御門徒のみなさんと一緒に法要をお勤めしてきました。 
 浄土真宗の法要の柱は、「勤行(儀礼)」と「法話(お聴聞)」です。参拝のみなさんと一緒にお勤めをしてこそ法要である、という考えももちろんあるとおもいます。参拝のみなさんに御法話を聞いていただく(お聴聞していただく)ことこそがもっとも大切だという考えもあるとおもいます。だからこそ、普段の法要においては、参拝のご案内・呼びかけをし、できるだけたくさんの方にお参りいただくように努めるということをしています。

 一方で、次のようにも思います。「無参拝者で法要を実施したら、無意味なことだろうか?」と。それに対する答えは「否」でした。参拝者がいなかったとしても、お寺で法要が行われている、継続されたということは、(今回のケースでも)人それぞれにいろいろな意味をもって受け取られるだろう(これまでにも、受け取ってくださっている人がいただろう)と思っています。
  
 実際に、普段の永代経でも、「参拝できないのですが」と懇志を持ってきてくださる方がいらっしゃいます。お参りできなくても、「お寺でお参りされている」ということに、感謝のお言葉をいただくこともあります。お参りがなくても、「法要がお寺で行われている」ということ、そしてそれが、ずっと絶やさずに継続されている法要である、という意味は自分の中で決して小さくありませんでした。私自身がそれを感じているからこそ、このような判断になったのかもしれません。(もしかしたら、やむを得ず中止の決断をするケースもあるかもしれませんが、それが今回ではなかったという話です)

 もちろん、浄土真宗の法要の一番のかなめは、仏縁に遇うこと、お聴聞の場としてあることです。実際にお参りをいただいて、仏前に座っていただく、「南無阿弥陀仏」とお念仏を称えていただく、浄土真宗の教えを直接に聞いていただくこと、それがもっとも大事なことで、法要をする最大の意味だとおもいます。
 しかし、そこに至るまでに、あるいは、その座っている瞬間においても、おそらくそれの場が、その法要が絶えず継続されることに努力がはらわれてきたという時間的なつながりをもっているということ、それを感じ、実際に実践されつづけているということに触れること。決してその意味は小さくないと思っています。
 
今回については、自身の身を守ること、感染を拡大しないということを最優先に行動いただけたらと思います。
 永代経法要は、(少なくとも今回は)中止することなく、西正寺として責任をもって実施したいと思っています。


 
 

2020年3月3日火曜日

中島岳志『親鸞と日本主義』新潮選書、2017年。


中島岳志『親鸞と日本主義』。

2017年に刊行されて、話題となった書物。もともとは季刊『考える人』で連載されていたものに加筆・修正と書きおろしを加えて刊行されたもの。

連載の段階から、戦前・戦中の国家主義(超国家主義)と親鸞思想との接続・関係を論じるものとして大変注目させていただいていた。
 三井甲之、蓑田胸喜、倉田百三、教戒師と転向した共産主義者たち、亀井勝一郎、吉川英治、暁烏敏等といった国家主義思想を唱えた人物・グループがいかに親鸞思想をベースに自説を唱えていたのかを明らかにした書物。

 もともと、戦前・戦中の国家主義と仏教との関係でいえば、日蓮主義との関係がよくしられていた。石原莞爾、田中智学、北一輝等の日蓮主義者と国家主義・国体思想との関わりがよく知られていた。一方で、親鸞思想はいずれかというと、今日の状況から「リベラル」的なものとして理解されることが多かったのではないだろうか。

 しかし、現実には、戦前・戦中には浄土真宗本願寺派でも「真俗二諦」という戦時教学を構築し、積極的に戦争協力・国家主義体制に荷担をしたという事実がある。

 本書では、次のような指摘がなされている。

 幕末に拡大した国体論は、国学を土台として確立された。そのため、国体論は国学を通じて法然・親鸞の浄土教の思想構造を継承していると言える。「自力」を捨て、「他力」にすがるという基本姿勢は、「漢意」を捨て、神の意志に随順する精神として受け継がれている。
 ここに親鸞思想が国体論へと接続しやすい構造が浮上する。浄土教が国体論に影響をうけているのではない。国体論が浄土教の影響をうけているのである。法然・親鸞の思想が国体論の思想構造を規定しているのである。
 そのため親鸞の思想を探求し、その思想構造を身につけた人間は、国体論へと接続することが容易になる。多くの親鸞主義者たちが、阿弥陀如来の「他力」を天皇の「大御心」に読み替えることで国体論を受容して行った背景には、浄土教の構造が国学を介して国体論へと継承されたという思想構造の問題があった。浄土真宗の信仰については、この危うい構造に対して繊細な注意を払わねばならない。(本書・終章282ページ)

 国学(本居宣長)と浄土教思想との接点があるという思想史的な視点と、実際の国家主義者たちの主張・思想をひもときながら、上記のように指摘されたことは傾聴に値する。親鸞思想の特に阿弥陀如来の「他力」に関わる思想が、天皇の「大御心」と同一視され、国家主義と接続していったというのである。
 
 一方で、より一般化すると思想一般がもつ危険性があるということにも個人的には注意と関心をむけておきたいと思う。安全な思想などあるのかという問いに対しては、「否」と答えるべきではないかと思っている。

 経典や教義をいかに解釈するか、いかに現実的な実践やあり方に落とし込んでいくか。そこには社会的・歴史的にさまざまな制限や条件が存在する。絶対的な「正解」などだしようもなく、いずれもその時代時代の正義や価値観を離れて語りえない。
 
 だとすると、特定の思想的語りが、危険思想と結びついたという問題に十分注意をはらいながらも、思想一般がもつ危険性があるということにも十分注意がひつようなのではないだろうか。自身の思想・信仰をわれわれは何と結びつけ、何に投影しているのか、自身の語りや思想を相対化し、確認をするという作業が重要なことなのではないだろうかと思うのである。


コロナ騒動の中で。

 先月以来のコロナウィルス感染対策。いたるところでのイベントの中止・延期。ご多分にもれず、3月のほとんどの行事や出講がキャンセルになった。
 仕事がなくなってしまうと、逆になにをしていいのかわからなくなる。するべきことはたくさんあるはずなのだが。

 午前中はデスクワーク、昼下がりから市内某所へお届け物とチラシの配布に。
 3月末~4月の行事として

 ・永代経法要(3・25水~26木)
 ・大江戸ブギウギ(3・29日)
 ・第17回はなまつり(4・4土)
 ・第17回西正寺寄席(4・18土)

が予定されている。どれも、実施できるかどうか、実施した場合は、コロナウィルス感染予防対策をどのようにしようか戸惑いつつ準備をしている。

 できることを一つずつしていくしかない。
 リスクは極力減らすように。「後悔」が起こらないように。
 丁寧に丁寧に。


「宗教的な救い」とはなにか?

・先週は宮崎先生と対談でした  先週の土曜日 4月13日の午後は、相愛大学の企画で、宮崎哲弥先生の講義にゲストスピーカー・対談相手として、登壇させていただく機会を得ました。  以前このブログでもご案内していたこちらです。  【登壇情報】宮崎哲弥先生と対談します。 https://...