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講義でもらったツボる感想

9月中頃から大学の後期の講義が始まり、お彼岸や法要もあり、種々の予定もあり、あっという間に時間が流れていっている感覚で、日々過ごしています。 一息ついている間に、「もう1週間たっていた」みたいな。 今日は、相愛大学で仏教の講義でした。 仏教の「縁起」について、幾つかの角度から講義・お話をした。 ここでは詳細にいえないけれど、 基本的には、仏教は、「物事には、因(原因)・縁(種々の条件)がある」とすること。あらゆる事象に因・縁を認めるということは、「絶対的な始まり」みたいなものはないということになるし、仏教は世界の”絶対的な始まり”や世界の創造みたいなことはいわないということになる。例えば、ビッグバンから世界がはじまったというのならば、さらに「ビッグバンはなぜおこったのか(ビッグバンという事象(結果)には、因・縁があるはず…」というような、どこまでも遡及しつづけるような視点を提示している。 また、原因と結果というつながりのほかにも、関係性や条件によって種々に見方を変えていくということもある。「私」はひとりではなにものにもなりえず、子どもの前に立つことで「親」となったり、親の前に立つことで「子」になったり、妻の前で「夫」となり、生徒の前では「センセイ」となるが、師の前では「弟子」となるような…。 まあ、そんな、ややこしいことをあれこれとやって、学生さんからリアクションペーパ(感想)を書いて提出してもらったものを、眺めているとみなさんいろいろと考えてくれていたのだろう様子をうかがうことができたのだが、特に今日は個人的にツボる感想があった。 それは、こんな感想。 (前略)前回、仏教(釈迦)の考えはポジティブで良いなとおもったけれど、今回の授業を受けて物事には因と縁があるよね、とか生と死の考え方とか、 めんどくさい人に詰められている感覚になった …(以下略) 仏教は、「Aだ」とか、「Bだ」とかハッキリとこれというものを示すよりも、むしろ「非A、非B」みたいに、「Aでもなく、Bでもない」とか、「 仮に ◎◎と名付けるような」はっきりしない、宙ぶらりんに置かれるような立場を示すんですよねーみたいな話をしていたので、「ややこしいことをいいますけど」みたいなことを何回か口にしていたような気がしている。  そのなかで、上のような感想は、むしろ「しっかりと聞いてくれていた」ということでも...

「宗教的な救い」とはなにか?

・先週は宮崎先生と対談でした  先週の土曜日 4月13日の午後は、相愛大学の企画で、宮崎哲弥先生の講義にゲストスピーカー・対談相手として、登壇させていただく機会を得ました。  以前このブログでもご案内していたこちらです。  【登壇情報】宮崎哲弥先生と対談します。 https://ryogo1977.blogspot.com/2024/04/blog-post_4.html  こちらの講義は、相愛大学の講義として学生の単位となりつつ、また一般にも有料で公開されているものとのことでした。 宮崎先生の講義を受けに来られた一般の方の他に、相愛大学の学生さん、関係者・先生方が出席されていました。私のブログの投稿で、興味を持ってくださった友人・私の講座の受講生の方も何名かお越しくださっていました。(ありがとうございました) ・講座、対談の内容は…  宮崎先生の仏教理解や講義スタイルの独自性に、いろいろと考えさせられるところもありました。 しかしながら、登壇させていただいた後半部分は、宗教と社会の関係性から、宗教者の社会活動というような部分に話題が広がっていきました。  お寺の活動、臨床宗教師や災害支援、ビハーラ活動、貧困支援など。チャプレンの活動から、軍隊へのコミットや、教誨活動等についても話題は及びました。  いろいろと多岐にわたりましたが、聞かれたことにこたえつつ、話題を広げていくという時間で、大変楽しく過ごさせてもらいました。(受講された学生さんたちの感想も、なかなか良かったようで、うれしく頂戴しました) ・教誨活動にふれて  話題が「教誨活動」に及んだとき、「宗教的な救い」とはなにかということに触れる場面がありました。 宮崎先生の講義でも「救い」ということに注目されている発言があったので、そこに触れていく必要を感じたからです。  この「教誨活動」とは、教誨師という、刑務所などで活動する宗教者の活動のことで、浄土真宗の僧侶も多くこの活動にかかっています。先年、大杉連さん主演で「教誨師」という映画も公開されました。  Wikipediaのリンクを参考に置いておきます。 Wikipedia「教誨」  教誨師の活動は、刑務所に足を運び、受刑者に宗教的かかわりをすることをその勤めとしています。一番シリアスな場面では、「死刑」になる直前に、その受刑者の要望によっては面会し、...

繁昌する、ということ。

 浄土真宗を日本有数の仏教教団にした、本願寺第八代蓮如上人の言葉として、次のようなものが伝わっています。    一、一宗の繁昌と申すは、人のおほくあつまり、威のおほきなることにてはなく候ふ。一人なりとも、人の信をとるが、一宗の繁昌に候ふ。しかれば「専修正行の繁昌は遺弟の念力より成ず」(報恩講私記)とあそばされおかれ候ふ。 『蓮如上人御一代記聞書 』 (※ 大まかな意訳:仏教の繁昌というのは、人がたくさんあつまったり、勢いが大きく盛んになることではありません。一人であっても、信心を獲た人がいることが、繁昌というものなのです。そうであるから「浄土真宗の教え、専修念仏の教えが繁昌するということは、親鸞聖人が亡くなられた後の門弟たちの信心の力によって成就するものである」と(本願寺第三代の覚如上人の『報恩講私記』には)述べられているのです。)     仏教/お寺とはなにか、なにをすべきかということに、しばしば思い返し、考えさせられることばです。 たくさんの人に知られる、たくさんの人がやってくる、ということは、決してお寺の本来的/本質的な意味ではないのだと知らされる言葉です。  それらは、お寺のあるいは僧侶である私の行っていることの意味を測る軸にはなりえない(してはいけない)のだというのです。  では、「一人なりとも、人の信をとる」ということは、どういうことか。これもまた具体的に理解していくことが難しいことです。このことさえも、つかんだと思ったところに落とし穴や、過ちが潜んでいるようなことでもあるかもしれません。  仏教徒として、お寺とはどうあるべきか、僧侶のなすべきことはなにか。  簡単に答えが得られないし、また「見えやすいもの」「わかりやすいもの」に対してそれではないよ、という警句がちゃんと示されています。  また、そういった言葉を通して、常に問わざるを得ないし、なにかに安住することもできない。常に、自分がつかもうとするものを相対化させられる中でしか、なすべきことはみえないのではないだろうか?とも思ったりしています。

オンライン講義 「ふたりの僧侶と読み解く「正信偈」 ~やさしく学ぶ浄土真宗~」

表題の講義を10月からオンラインで担当することになりました。  https://www.nhk-cul.co.jp/programs/program_1214087.html  講義の詳細は上のリンクをご覧ください。  NHK文化センターさんから、オンライン講義の企画を相談され、親しくしている赤井先生を巻き込んで、講師2人で「正信偈」の講座を担当するという形で実施させてもらうことになりました。  先日、9月11日に、10月からの本番にさきがけて、単発のプレ講義を実施しました。  オンラインならではというか、東京や九州といった全国各地から10数名の受講があり、ほとんどが面識のない初めての方でした。物理的な距離を超えてかかわれるオンラインならではの長所を感じました。  講師2人で実施したのは、リアルな講義でも、一人が一方的に話す形式よりも、対話やフィードバックを織り込みながら話をしていた方が、聞く人の聞きやすさや理解しやすさがあること、また内容も深めていきやすいのではないか?と思ったからでした。  実際にやってみると、2人でやり取りしながら進める面白さや、深まりが感じられて、この形式に可能性を感じました。  それぞれが話す分量のバランスや、いくつかの改善点もありますが、新しいチャレンジでもあり、大変楽しい時間でした。  10月からは、本格的な連続講義となります。  講師2人も、当日までに打合せを重ねて準備をしていきます。  ・浄土真宗の教えの基本的なことを知りたい。  ・「正信偈」に書かれていることは?  ・親鸞聖人が好きだ  ・なんとなく勉強してみたい  興味をもっていただけたら幸いです。(有償なのが恐縮でもありますが)

インターネットラジオ よいかなよいかな はじめてみました。

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 インターネットラジオ よいかな よいかな はじめました。 (youtube URL) https://youtu.be/qZe60B6N_oQ  西正寺で不定期にこれまで3回、オンラインで1回開催したイベント「よいかな よいかな」。そもそもが、大学4年生だった”あーりー”が、仏教を教えてほしいと相談してきてくれたことから始まったイベント「よいかなよいかな」。このコロナウィルスの影響もあって、どうしようか、こうしようかという相談から、ネットラジオへ展開しました。  とりあえず、やってみようかと収録した第一回がこちら。  あれこれと企画を考えている中で、ふとしたことで舞い込んだ素敵なエンディングテーマにその気にさせられ、やりはじめてしまいました。  やってみると、もうちょっと練ったほうがよかったなぁとか、なんでこんな風に言うてしまったんだろうという反省もありつつ、結構面白かったというのが大きかった感じでした。  次回以降は、お坊さんをはじめとしたゲストをお招きして、いろんな角度から仏教を考えていけたらとおもっています。聞いていただけたらうれしいです。  どうぞよろしくお願いします。

クラウドファンディングをして考えていたこと

 カリー寺基金というクラウドファンディングにチャレンジをしています。 https://camp-fire.jp/projects/view/211382  カリー寺基金を企画した理由について、その一つは、以前、活動報告でも書かせていただいたことがあります。なぜ地域に助成するという企画を立てたのかということについて、その意味について書きました。 https://camp-fire.jp/projects/211382/activities/115644#main  このカリー寺基金には、もう一つの側面があります。それはファンドレイジング―協賛の募集および、クラウドファンディングによる資金集めをしているということです。前者は、お金を地域に「渡す」というチャレンジ。後者は、地域や多くの人からお金を「渡される」「預かる」「寄付される」というチャレンジです。今回は、この後者の点について、少し言葉を重ねてみたいと思います。 ●僧侶は「ファンドレイザー」でもあった。 このクラウドファンディングは、私(住職)にとっては、ある意味で「僧侶としてお金集めをする意味を問う」というチャレンジでもありました。古来より、日本では僧侶が寄進を集めてまわる「勧進」などが知られています。勧進については、このキャンプファイヤーのページでも紹介されていました。  “ちなみに、「クラウドファンディング」という言葉自体は比較的新しいものですが、不特定多数の人から資金を募り何かを実現させるという手法自体は古くから存在していました。海外では美術品などのアート分野で寄付を募る取り組みや、日本では寺院や仏像などを造営・修復するために個人から寄付を求める「勧進(かんじん)」などがその例です。” ( https://camp-fire.jp/crowdfunding  より)    古代・中世には寺院や仏像の建立・再建の他、道路や橋等の公共事業なども「勧進」によって行われることがありました。弁慶の勧進帳等の逸話等でも知られています。 そういった意味では、そもそもの僧侶の活動とこのクラウドファンディングということは、一定の親和性があるものという言い方もできるのかもしれません。現在でも、お寺の運営・維持も多くのケースが「お布施」(寄付)によって成り立っています。また大きな工事や、事...

「よいかなよいかな」をオンライン(zoom)で行いました。

 3月9日(月)。19:00から、仏教を学ぶイベント「よいかなよいかな」を予定していましたが、コロナウィルスの影響を鑑みて中止しました。その代替として、オンラインzoomを利用した仏教談義というか、談話会を呼びかけたところ、主催者含めて5名で開催しました。いずれも継続的に「よいかなよいかな」に参加してくださっていた人たちです。。  まずは、自己紹介と最近のトピックをチェックインとして、一言ずつ話してまわりました。    次に、今回の趣旨をアナウンスして、参加者それぞれがこれまでの「よいかなよいかな」での感想や、印象的だったこと、期待ややってみたいことなどがあれば、話してもらい、その出してもらった意見や思いを掘り下げていったり、広げていくような形で進めていきました。  ・「仏さま」の説明とても印象に残って、日常生活にも影響がある。  ・エピソード(たとえ話)がおもしろい。  ・参加者の考えや、感想・反応が興味深い。    等、それぞれの視点があるなぁと感じました。  そこから展開していった話題は、大きく二つあったようにおもいます。  一つは、「宗派」の違いについてのもの。  浄土真宗だけではなく、他の宗派ではどうなのか? 他の宗派のお寺やお坊さんとの接点でこんなことがあったけど?というような話が共有され、このよいかなよいかなの参加者のみなさんの「宗派のちがいって?」というような関心に触れるころができました。  もう一つは、「ご朱印」とか「占い」といった世間的に流行しているものや期待にどうしてお寺や浄土真宗は乗っかっていかないのか、距離があるのかという問い。  実際に、僕自身も、先日東京に行った際に、新宿の街を歩いたとき、かなりの「占い」のお店があり、またどこも盛況だったことを目にしたこと。あるいは身近な人が占いに対して関心を寄せていること、心理的なハードルがあまり感じられないことを、どのように考えたらいいのかというような疑問をもっていたこともありました。  あれこれ聞いた後、すこし私の立場から「占い」に対してどうして距離をとっているのか、という話をしたのですが、こういった話題をあつかってみるのも面白いなぁと思いました。 (抽象的なレビューですみません)  意見交換できたことで、「よいかなよいかな」の展開もいろいろと見えてきた...

西正寺の永代経法要を中止しないのは(規模縮小でやります)

 コロナウィルスで大変な状況ですが、自坊西正寺の永代経法要(3月25日・26日)は、コロナウィルス対応・対策を取りつつ、規模を縮小しながらお勤めさせていただく予定です。  法要の案内・詳細については、以下のリンクの記事に投稿しておりますので、ご覧ください。    http://saishoji.net/archives/317  この投稿では、なぜ現在において(中止ではなく)上記の対応に至ったのかという思いをすこし書きたいと思いました。 【とるべき対応の候補と選択について】 実際に2月末からの急展開で状況が追い付かなかったところが多々あります。全国の小中学校の休校や、諸行事の自粛の様子が報道を通してうかがわれ、どのように対応すべきか正直迷いが生じていました。また、全国のお寺にとっては、3月にはお彼岸を迎える時期ですが、お彼岸の法要や、永代経といった法要の動向も「中止する」という判断をされたことを多数うかがっていました。この判断は、苦渋の決断・断腸の思いであろうとお察ししますし、感染対策として最善の判断をされたということだと思います。  自坊の状況を考えたとき、お寺にお参りに来られる方は、いわゆる高齢者が大変多くいらっしゃいます。今回の新型コロナウィルス、肺炎の高リスク層です。この状況でなんらかの対応をとらないという選択はまずありえませんでした。  では、どうするか。可能性として考えられる候補をリストアップすると、以下の案があると考えました。(選択しないものも含めてリストアップしています) 1、平常通りに実施する。 2、感染対策(消毒・マスク等)を行いつつ実施する。 3、規模を縮小し、感染対策を行いつつて実施する。 4、参拝者なしで、お勤めのみを実施する。 5、中止する。一切何もしない。 もしかすると、この他にもあるかもしれませんが、 素人判断で、思いついたのはこのレベルでした。 上記のように、現状において1はもう無理だと思われました。学校や3月中の行事が自粛・中止をしているなかで、なにも対応を取らずに実施するというのはあり得ません。2の対応をとったとしても、本堂という空間に数十人の人がいるのは、感染対策として今回の場合は十分な対応ではないと思われました。また「都合をつけてご参拝ください」と呼びかけられるレベルでもありません...

2020年1月23日 よいかなよいかな(3)

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2020年1月23日 よいかなよいかなの3回目。 大学生がいいだしっぺで、みんなで仏教を学ぶイベント、「よいかなよいかな」の3回目が開催されました。 ■進行について タイムスケジュールは、以下の通り。 19:00 スタート、勤行「十二礼」 19:10 イントロダクション、自己紹介 19:30 テーマの「愛」についてみんなで考える      ・各自でふせんに イメージ、疑問、好きなものを書き出す      ・紹介しながら、模造紙に張り付ける。       → 「愛」についての イメージや、語感、意味等が幅広く出ました。       → 40代男性が2名が「愛は勝つ」「勝つ」と書いたので世代を感じました。 19:50 住職が「仏教」の「愛」について 紹介。 20:20頃から、ふたたび参加者みんなでなんやかんやと話し合いました。   ■内容、語りあいについて 前2回が教科書的に、固い感じでアプローチをしてしまったところの反省もあり、身近に考えたり、語ったりできればということ、友人が「仏教は失恋に効くのか?」というテーマを設けて考えていた会があったこと、それから大学生が「恋人必要・不必要?問題」が関心にあったようなので、それらを総合して、今回のテーマになったように思います。 結果として、仏教の「愛」についてのとらえ方について触れてもらったものの、「哲学カフェ」的な語りあいの雰囲気もあったのではないかと思いました。 もうすこし、そっちの方で、みなさんのアレコレ考えていること、漠然としていることを言語化していくような時間があってもよかったのかな?と終わった後に思いました。それでも、試行錯誤しながら、今回一つの形を試しながら、みなさんと話せたように思いました。 ■仏教の「愛」について  仏教の愛については、大まかに以下の様に紹介しました。  ・四苦八苦の一つに、「愛別離苦」などが挙げられているように、愛するものとの別離、愛着のあるものから発生する「苦」や「悲しさ」は仏教のテーマ、解決すべきことがらのひとつだったとおもわれる。  ・しかし、「愛」は多くの場合、肯定的にとらえらてはいない。「煩悩」「とらわれ」「執着」として、苦を発生させる原因として語られる場合が多い。古い経典...

200111_大学生と仏教について学ぶイベントの打合せ

1月10日(土)。 昨年から開催している「よいかなよいかな」の3回目に向けての打合せ。 学生さんが卒論の提出だったため、近くなってから相談しましょうね、ということでこの日でした。  結果からいいますと、次回の「よいかなよいかな」は1月23日(木)の19:00から予定していますので、どうぞよろしくおねがいいたします。 よいかなよいかな(3回目)フェイスブックイベントページ https://www.facebook.com/events/2562339763880487/ どうして「愛」になったかというと、  1回目、2回目と「仏」「経」と、ベーシックな形でやってきたので、すこしフランクに参加者のみなさんと語り合えるテーマがいいですよね、という思いがしてきたこと。  現代的な悩みや感情と、仏教との接点やギャップみたいなことも考えてみたいね、といことで「愛」になりました。  当日はどうなるかまだわかりません。仏教が「愛」ということについて、決してポジティブなものとしてとらえているわけではないこともお話できたらな、とおもっています。  うちあわせにあたって、いいだしっぺでもある大学生のうつみさんに、ブレスト的に「質問・問い」を考えてきてもらいました。その問いに対して、瞬発力だけで、即興的にインスピレーションでレスポンスしてみたものがありまして、それをおまけに下につけてみます。  よく仏教では、「これっていいんですか?」とか、「これはどう考えるんですか?」という問いが向けられるのですが、そういうものに対してほとんどの場合、白黒はっきりとした答え方ができるわけではありません。むしろ、本来的な形はこうだけれども、現実は・・・というように、もともとの形や、教義から変質したり、逸脱したりしている現実という状況もままあるわけです。  それを、どう受け止めるのか。むしろ、白黒はっきりしない、「齟齬」や「矛盾」との向き合いのなかに仏教の本質もあるようにおもわれるのですが、どうでしょうか。    ◎生活シリーズ ‐寝坊することは怠けていると考えられがちですが、仏教ではどう考えるのですか   ・戒律の生活はきっちりと決まっています。   午前中に起きて、托鉢にいって、午前中に食事をすまさないといけません。   午後からの食事は、戒律違反。...

190520_西正寺 親鸞聖人降誕会法要

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2019年5月20日(月) 自坊西正寺で、宗祖・親鸞聖人の降誕会法要をお勤めしました。 親鸞聖人は、承安3年(1173年)5月21日(旧暦 4月1日)に誕生されたとされ、浄土真宗本願寺派では、5月21日を親鸞聖人降誕会としてお祝いの行事を開催しています。  西正寺では、今年は5月20日に、門信徒のみなさんとお経と法話を中心としたお祝いの法要をお勤めしました。    勤行は正信念仏偈、御法話は、京都市から大塚茜先生にお越しいただき「苦しみが和らぐとき」というお題でお話をいただきました。  大塚先生が取り組まれている東日本大震災の被災地(被災者)支援の取り組みから、被災された人の悲歎、苦しみの現場、そして支援している支援者側が抱える苦しみやつらさをご紹介いただきながらのお話を頂きました。  印象的であったのは、現実的な状況が変わることよりも、家族や、周りの人がその人の抱えている思い、あるいは人知れずがんばっていることを、受け止め、受けいれ、理解することで、苦しみが和らぎ、心が救われ、行動や関係が変わっていくことがある、ということをご紹介いただいたことでした。  親鸞聖人の生涯を大学等で講義するのですが、親鸞聖人という方も決して「思い通り」の人生を歩んだ方ではないのだなぁと思っていて、そのような側面を紹介しています。  9歳から20年間修行に明け暮れた日々は、達成されて悟りにいたったのではなく、むしろ逆に、挫折の経験として比叡山を下りることになります。この人こそと慕った師匠の法然上人とは、国からの弾圧によって還俗・流罪されることによって別離を余儀なくされます。42歳から関東で伝えた教えをつたえたけれども、誤った理解や風説によって混乱が生じ、更に門弟を混乱させる結果を招いた息子・善鸞さんとは晩年に親子の縁を切るというできごともあります。  90歳という長寿を得たということはうらやましく思われることかもしれませんが、平穏や、幸せということがらはあまり語られない、波瀾万丈な生涯ということのほうがふさわしい人かも知れません。  そういう意味では、親鸞聖人は人生を念仏によって、仏教によって「思い通りに」「平穏に」生きたのではなく、むしろ、思い通りに生きられない、苦しみや悲歎の多い人生を、つねにざわつく心を抱えた自分自身のあり方を引き受けながら、念仏とと...

190518_浄土宗應典院さまの「ともいき堂」竣工記念法要

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2019年5月18日土曜。  午前中のお寺の法務(お参り)を終えてから、大阪・下寺町の浄土宗應典院さまへ。お招きいただいていた「ともいき堂」の竣工記念法要に参加しました。  遅参したため法要自体には間に合いませんでしたが、法要後のご挨拶と記念撮影には立ち会うことができました。 その後、行事は会場を大蓮寺客殿に移して、大蓮寺/應典院・秋田光彦ご住職と、桃山学院大学の白波瀬達也先生の対談がありました。  秋田住職の「ともいき堂」や一連の葬送/終活関連の取り組みや思いについては、何度か拝聴する機会をいただいていましたが、そのたびに刺激をいただくお話です。葬送をしっかりと、福祉・コミュニティ・社会保障・宗教の枠内で捉えて、デザイン/仕組みもふくめて行う。今回の講演が実施されたようにそれらをきちんとアカデミックな文脈に載せて理論的にも語ることばをしっかりと持ちながら実施されていく。それを含めた、應典院流というか、秋田光彦住職一流のスタンスがしっかりと根っこにあってのプロジェクトなのだということをひしひしと感じました。語られる言葉にも、何度聞いてもブレがなく、信念に裏付けられた力強さがあります。  秋田住職と白波瀬先生のクロストークでは、近年の寺院・僧侶における社会活動について語られました。社会やコミュニティの変化、寺と檀家の関係性や意識の変化による、寺・僧侶の危機感、あるいは世代による感覚や危機感に基づくもの、またインターネット、SNSの活用によっておこされるブレイクスルー的なあり方といった説明は、非常に明解で示唆に富むものでした。  会の終盤、秋田住職からご指名いただき、コメントする機会をいただきましたが、とっさのことでもあったので、果たして場に対してどれだけ適切だったのかは心許なくおもいます。ただ、そのなかで言及した「お寺を使う/お寺に使われる」ということについて、白波瀬先生からは、「お寺を気軽に使うことが、お寺との関わりの糸口、接点としては重要である」というフィードバックをいただきました。  お寺に対して「気軽に使える・日常的に関われる」ということが、お寺との接点や、関係性の入口になることは、実はとても自分自身が意識していることでもあります。それが無条件ではなく、なにがその先にあるのかといったときに「お寺を使う」私が、「お寺によって動かされる...

190503_タイのおぼうさまと看取りについてのお話

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2019年5月3日(金) 13:00~16:00 「逝き方から生き方を創るwithおぼうさん」( https://peatix.com/event/655938/view )というイベントが西正寺で開催されました。 こちらは、タイで活動をされている古山裕基さん、浦崎雅代さんのお二人が企画・持ち込みをくださった企画です。普段お住まいのタイから3名の僧侶と2名のメーチーさん、それから数名の同行の方とお越しになり、お話をくださいました。 第一部は古山さんからご自身のお母様の看取りの経験とタイでの散骨のについて 第二部はゲストのお二人のタイのおぼうさまからお話。  それぞれ、ご自身のおばあさまの看取り、それからお二人共通の師匠の看取りの様子についてお話いただきました。 休憩をはさんで第三部。 そこでは、私が聞き手になって、お二人のお坊さまに質問をしました。 ・日本の僧侶についてどのように思いますか? ・「死」、「死苦」をどのように超えていくのか。 ・病院や、その他の場所で「死の恐怖」や「死苦」を抱えている人にどのように接するのか、関わるのか、をお尋ねしました。  会場からの質問をいただいたなかには、ご自身の看取りの経験と後悔にどのようにむきあえばいいか?というものなどがありました。 そののち、参加者同士のみなさんで、小グループになって20分ほど話しあい、 最後に共有と、登壇者から一言ずつをいただき、散会となりました。  会場には、40名を超える参加者があり、主催者とタイからのメンバーを含めると、60名近くの人たちと時間をすごしました。    印象的だったことは、やはり僧院で修行されているお坊さまが持つ雰囲気と、言葉の力。はずかしながら、同じ僧侶とは思えないような、雰囲気と言葉の力がありました。  イベント時、それからその前後でお話のなかで、タイのお坊さまたちと「人に接すること」「人の苦しみに接すること」についてお話をする時間がありました。そこでは日本では、「ケア」や「傾聴」といわれるような姿勢と共通するものが多くあったことも印象的でした。  僧院で説き、修行を重ねていく上で語られるような「死を恐れてはいけない、恐くないよ」とか、「とらわれを手放しなさい」ということは決して言ってはいけない。そうではなく、その人の気持ちや、感...

『茉莉花』113号、2018秋号(法話・わろてら)

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『茉莉花』113号、2018秋号 に「法話」ということで、原稿を書かせて頂きました。 NHK文化センターの受講生の方に聞かせていただいたお話から、 私としては大変感銘をうけたことを取り上げさせて頂きました。 あと、まったくの奇遇なのですが、 同号には「わろてら」さんの記事も特集されていました。 こちらも、「テラハ。」でのつながりをきっかけにはじまったということで、 大変うれしくおもっています。

講義_「宗教実践特殊研究」5回目の講義の発表とディスカッション

 龍谷大学大学院実践真宗学研究科で担当している講義「宗教実践特殊研究」。 (なかなか、いかつい名前である)  昨年企画・実施した研究科主催のシンポジウムを受ける形で、「ソーシャルインクルージョンと宗教」と題して、宗教者による社会課題に対する実践をテーマにしている。  自身が宗教者(僧侶)でもある若い大学院生のみなさんが、それぞれ関心をもった「社会課題」について調べて発表してもらい、その発表とその後のディスカッションを通して、宗教、あるいは宗教者が関われる可能性―そのフィールドの設定や、具体的な方法―について、考えを及ぼしていくことができたらと、目論んでいる。  これまでは、それぞれの自己紹介を通して、身の回りにある課題や、関心を掘り下げる作業、それから、現在の社会の動きとして(講義のテーマでもある)「ソーシャル・インクルージョン」という考え方、宗教と社会の関係性―「世俗主義」とその捉え直しという―変遷について、レクチャーを行った。 それを踏まえて、今回から、大学院生による発表という回。  一番目の院生さんが選択してきたテーマが、自身がある業界でアルバイトしていることもあって、「悪質クレーマー問題」。  問題の詳細については、ググったり、以下のリンクをみていただけたらと思う。   ■労働組合UAゼンセンによる悪質クレームの定義と対策の文書■    正直、宗教者のフィールドに結びつくのだろうかと、不安がなかった訳ではない。  しかし、受講している院生の積極的な発言や、視点の提示によって、予想以上の視野の広がりと、興味深いディスカッションの展開になった。  悪質クレームという問題を、社会的な病理という面からアプローチする視点、  社会心理や、文化的な背景もあるのではないかという、外国での状況と比較した意見。  また、宗教者のフィールドとしては、「企業チャプレン」というアプローチについても言及があった。  (そして、企業チャプレンの話題については、本日、以下の記事があることが、臨床宗教師会のMLでも配信されて、なんとタイムリーなことかと驚く。  ※「クリスチャントゥディ」 「米国で雇用広がる企業チャプレン 充実しない日本の「心のケア」 http://www.christiantoday.co.jp/articles/1358...

失敗百物語 第五夜 「これも芸の肥やしになる」

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2018年5月10日(木)  夜19時から西正寺を会場に失敗百物語・第五夜というイベントが開催された。 「失敗百物語 第五夜」   https://www.facebook.com/events/906875656160348/ (図:会場で丸川氏が作成したファシグラ) こちらは、友人の藤本氏、丸川氏が主催して開催している100人の失敗を聞くことを目指すイベントでこれまで4回開催されてきたもの。今回、西正寺を場として開催された。これまでの気づきで、「失敗を語ることが、ケアや癒しにつながる」という気づきがあったそうで、その関連から、お寺での開催を依頼された。これはうれしいことだ。  今回は二人の女性の「失敗」にまつわる話が提供された。  そのお一人、演劇をされている女性の言葉のなかに、失敗を消化していく言葉に「これも芸の肥やしになる」と思って、悲しくはなかった。 というものがあった。 「芸の肥やし」という一言。 とても力強い言葉に聞こえた。人生のあらゆることがらが、「芸の肥やし」になりえる。どのような失敗も、躓きも、あるいは喜怒哀楽の感情とそれに関わる出来事のすべても、「芸のこやし」たりえる。言い換えると、自身の人生におこるすべてのできごとが「芸」によって、意味を与えられるのではないだろうか。 会の後、彼女と話をする中で、「演劇がなくなると生きていけない」と思っているという言葉もあった。演劇に支えられ、演じるということが、もしかすると、彼女の人生を根っこから支えて意味づけているものなのかもしれない。  自分にとって、念仏や仏教もそういう面がある。  大きな悲しみや、苦しみも、自分にとっては、「これも仏教の味わい」、「これも仏教を理解する糧になるはず」、「これも念仏の道」と、仏教にことよせることで、意味づけようとし、立っていられるようなことがあった。  自身の歩むべき「道」、つきつめたいと思う「道」を持つということは、もしかするとそういうことなのかもしれないと思った。人生のできごと、身に起こる感情の全てが、その道のを歩むための糧となり、実をつける肥やしとして、意味づけられ、消化されていく。    これも「芸の肥やし」になる。いい言葉だ。  失敗や悲歎をささえ、消化させるといった、その言葉はぐっと突き刺さるような、自分へ...

西正寺「はすの会」2018・第二回

2018年4月28日  13:30から、自坊で定期的に開催している「はすの会」。今年度2回目。  今年のテーマは、「蓮如上人と御文章」。  テキストとして、『書いて味わう御文章』を使用している。 ・本願寺出版社リンク https://hongwanji-shuppan.com/item/detail.html?icd=978-4-89416-434-5 ・アマゾン https://amzn.to/2HD7BTI 今回は、テキストの概説的な記述を扱いながら、 ご文章についてのあらましを解説。途中、吉崎での伝説的な逸話―肉付きの面、腹籠もり―についても触れる。 参加者は、いつもメンバーの他、新規で2名の方がいらっしゃってくださった。 西正寺での法要で、情報を知り、 インターネットで、僕の投稿等から関心を持ってきて下さったという。  はすの会は、 平成27年(2015年)から、オープンな会として、1回ことの会費を設定して、出入りしやすくなるように意識してきた。おかげで1回のみでの参加や、ご門徒以外の方のメンバー化も増えてきている。これは大変うれしいこと。  期待に応えられるように、準備や工夫を怠らないようにしなければいけないと思う。  次回は、5月21日に、西正寺として宗祖降誕会法要がつとまるので、そちらに振替のような形となる。

関西臨床宗教師会の会議をしてきました。

4月26日 夕刻 日中、商店街のご挨拶まわり( https://ryogo1977.blogspot.jp/2018/04/blog-post_27.html )をして、夕刻からは、会議のため大阪梅田のサクラファミリアに向かいました。 事務局長を仰せつかっている、「関西臨床宗教師会」の会議のためです。 臨床宗教師とは、 医療・福祉など公共空間で、スピリチュアルケア・宗教的ケアを提供するなど、活動することのできるトレーニングを行った宗教者、あるいはすでにそのような場で活躍している宗教者を称する名称の一つとして使われています。  特に「臨床宗教師」は、そのようなトレーニングを積み、守るべき倫理綱領を遵守することが求められていることが特徴といえます。  日本臨床宗教師会 ホームページ  http://sicj.or.jp/ 2012年に東北大学で「臨床宗教師研修」が始まり、 勤務していた龍谷大学でも実践真宗学研究科が日本で2番目にその研修をスタートさせました。そのもろもろの関わりもあり、昨年から関西の臨床宗教師のグループ、「関西臨床宗教師会」で事務局長をすることになりました。 とはいえ、昨年8月にリスタートして、通年の行事や研修体制などを作っているところ、 積極的に活動に協力して下さっている役員や会員のみなさんで意見交換しながら、活動の方向をつめている段階です。 今回も、いつも来て下さっている役員会員の他に、新しく加わって下さった方も参加して下さり、活動の方針について、あれこれ意見交換することができました。 個人的には、社会一般に提供できる講座や研究会活動を展開していければいいなーとおもっています。 18:30から21:00に及ぶ長丁場でしたが、いい意見交換ができたとおもいます。 今後の活動も可能であれば、ご紹介していきたいと思っています。 どうぞよろしくおねがいいたします。

阪神東組・連研にて「幸せ」をテーマに考える

 2018年4月21日(土)午後は、阪神東組(地域の浄土真宗寺院のグループ)で開催されている連続研修会(連研)の講師を担当した。  あらかじめ決められたテーマがある研修会。今回は、「自分だけで幸せでいいのでしょうか?」という問いが設定されていた。けれど、講師に応じた変更は認られるということであったので、そもそも的な点を問い直したいと思い、「そもそも幸せとはなんだろうか」というようなことを問い、参加者のみなさんの話し合いを見守った。 (講師が10分問題提起をした後、60分参加者による話し合い、その後講師によるまとめという構成)  話し合いの冒頭、5分程時間をとり、ブレスト感覚で、「幸せ」を感じる時を書いてもらった。出てきた幸せの一部(かつ若干一般化して)を挙げると。  ・友人と会うこと。孫や親族と会うこと。  ・おいしいものを食べること  ・趣味の時間  ・新しいことを知ったとき、何かを達成したとき、  いろいろな「幸せ」が出てきた。多くの人に共感されるものもあれば、そんなところに幸せを感じるのかと意外だったものもあったりもする。  先日、この講座の内容をいきつけのカフェでしていた。そのマスターに「○○さんの幸せって何ですか?」って聞いたら、「猫と戯れるときっすね」という返事。その後、いくつか幸せと願望を聞かせてもらった。それをきいていながら、人それぞれの幸せがあっていいのだなぁと思った。  もしかすると、人それぞれの幸せがあって、一般化するのではなく「多様な幸せのかたち」に触れることでなにか気づきがあるのではないかと思った。実際に、話し合いの場における「幸せ」についての語りは、興味深かかった。  それから場は、幸せと不幸せの境目、またそれがそれぞれ何によってもたらされているのかという話になった。参加者による議論は、「自分のこころもち」「自分がどのように振る舞うのか」という人間の営みや理性によってそれを求めようというような議論になっていった。    しかし、流れを聞きながら、自分にとっては、そこでこそ仏教的な視点が投影される部分ではないかと思われた。  幸せはなにによってもたらされるのか、不幸せはなにによってもたらされるのか。そのような根っこになるのが、僕にとっては宗教的な部分ではないかと思われた。  想像を絶するような災...

NHK文化センター出講(歎異抄9条)「よろこぶべきことをよろこばぬにて」

2018/04/14(土)  午前に、法務(月参りと法事)、午後からは、月一のNHK文化センターへの出講。  4月は新年度。  NHK文化センターは、2009年から担当させていただいているので、10年目になろうかというところ。前任の先生が20数年続けられたというところを引き継いで、規模を縮小しながらも、細々と継続できている。これも、受講者のみなさんの気の長い、寛大なお付き合いのおかげ。ありがとうございます。  20年は無理と思っていたけれど、とりあえず半分。もう半分なのか、まだ半分なのか。  新年度でも、内容は前期からの継続で、歎異抄の9条から。  親鸞聖人と唯円の対話が印象的な一段。  念仏しても喜べない、浄土に往生したいとも思えない、と悩み尋ねる唯円房とそれに対する親鸞聖人の対話。  ここで出てくる「よろこぶべきことをよろこばぬにて・・・」という、本来の正しい、あるべきようだとされていることから、どうしても外れてしまっている自己の気づき、立ち上がりというのが、僕にとっては、真宗を理解し、考える上でも、また自分が味わう上でも肝要になっているポイントの一つだと思っている。  受講者のみなさんにも、なんらかの思いがおこっていたようで、その点はすこしうれしい。  とはいえ、まだ、「むずかしいなぁ」という言葉もあった。難しく難解にしているのは、講師の責任。申し訳ない思いと常に、講義をしている。  大学院生時代に、某カルチャーセンターに出講し続けていた恩師が、 「大学で学生が分からないのは、学生の努力不足、  カルチャーセンターやお寺で、伝わらないのは、講師の力不足」 ということばを おっしゃっていたのが、ずっと胸に残っている。  また新年度、これからまた自分の勉強としても継続していきたい。

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