阪神東組・連研にて「幸せ」をテーマに考える
2018年4月21日(土)午後は、阪神東組(地域の浄土真宗寺院のグループ)で開催されている連続研修会(連研)の講師を担当した。
あらかじめ決められたテーマがある研修会。今回は、「自分だけで幸せでいいのでしょうか?」という問いが設定されていた。けれど、講師に応じた変更は認られるということであったので、そもそも的な点を問い直したいと思い、「そもそも幸せとはなんだろうか」というようなことを問い、参加者のみなさんの話し合いを見守った。
(講師が10分問題提起をした後、60分参加者による話し合い、その後講師によるまとめという構成)
話し合いの冒頭、5分程時間をとり、ブレスト感覚で、「幸せ」を感じる時を書いてもらった。出てきた幸せの一部(かつ若干一般化して)を挙げると。
・友人と会うこと。孫や親族と会うこと。
・おいしいものを食べること
・趣味の時間
・新しいことを知ったとき、何かを達成したとき、
いろいろな「幸せ」が出てきた。多くの人に共感されるものもあれば、そんなところに幸せを感じるのかと意外だったものもあったりもする。
先日、この講座の内容をいきつけのカフェでしていた。そのマスターに「○○さんの幸せって何ですか?」って聞いたら、「猫と戯れるときっすね」という返事。その後、いくつか幸せと願望を聞かせてもらった。それをきいていながら、人それぞれの幸せがあっていいのだなぁと思った。
もしかすると、人それぞれの幸せがあって、一般化するのではなく「多様な幸せのかたち」に触れることでなにか気づきがあるのではないかと思った。実際に、話し合いの場における「幸せ」についての語りは、興味深かかった。
それから場は、幸せと不幸せの境目、またそれがそれぞれ何によってもたらされているのかという話になった。参加者による議論は、「自分のこころもち」「自分がどのように振る舞うのか」という人間の営みや理性によってそれを求めようというような議論になっていった。
しかし、流れを聞きながら、自分にとっては、そこでこそ仏教的な視点が投影される部分ではないかと思われた。
幸せはなにによってもたらされるのか、不幸せはなにによってもたらされるのか。そのような根っこになるのが、僕にとっては宗教的な部分ではないかと思われた。
想像を絶するような災いや、自分自身が生きる意味や、生きている価値を見失うような状況。そのような場面において、「宗教」(僕にとっては仏教)が最も力を発揮する、あるいはその人の中にある宗教的なものの蓄積や、あるいは宗教的なものがもつ力がもっとも立ちあがるのではないだろうか。
人をして立たせる力、あるいは転倒していつか再び立ちあがらせるような力を与えるもの、あるいは、そのまま倒れ力尽きたとしてもそれを無意味で終わらせないようなものそれが何かを問うたり、あるいは想像を働かせてみること、またそうすることで、いまここにある「幸せ」がなにによってもたらされているのか、違った見え方が立ちあがり、異なる「幸せ」の味わい、見えていなかった「幸せ」ももたらされるものなのかもいれない、等と考えたりしていた。
ただ、それが無条件に宗教的なものに結びつくわけではなく、何か(宗教的なチャンネルを開く)「回路」のようなもの、あるいは何らかのきっかけがないと、そのような思考にはならないのかなぁということも、議論が宗教的なものにアクセスしないまま進んでいくような(印象をもつ)状況であることを見ながら考えていた。 (未完・雑感)
あらかじめ決められたテーマがある研修会。今回は、「自分だけで幸せでいいのでしょうか?」という問いが設定されていた。けれど、講師に応じた変更は認られるということであったので、そもそも的な点を問い直したいと思い、「そもそも幸せとはなんだろうか」というようなことを問い、参加者のみなさんの話し合いを見守った。
(講師が10分問題提起をした後、60分参加者による話し合い、その後講師によるまとめという構成)
話し合いの冒頭、5分程時間をとり、ブレスト感覚で、「幸せ」を感じる時を書いてもらった。出てきた幸せの一部(かつ若干一般化して)を挙げると。
・友人と会うこと。孫や親族と会うこと。
・おいしいものを食べること
・趣味の時間
・新しいことを知ったとき、何かを達成したとき、
いろいろな「幸せ」が出てきた。多くの人に共感されるものもあれば、そんなところに幸せを感じるのかと意外だったものもあったりもする。
先日、この講座の内容をいきつけのカフェでしていた。そのマスターに「○○さんの幸せって何ですか?」って聞いたら、「猫と戯れるときっすね」という返事。その後、いくつか幸せと願望を聞かせてもらった。それをきいていながら、人それぞれの幸せがあっていいのだなぁと思った。
もしかすると、人それぞれの幸せがあって、一般化するのではなく「多様な幸せのかたち」に触れることでなにか気づきがあるのではないかと思った。実際に、話し合いの場における「幸せ」についての語りは、興味深かかった。
それから場は、幸せと不幸せの境目、またそれがそれぞれ何によってもたらされているのかという話になった。参加者による議論は、「自分のこころもち」「自分がどのように振る舞うのか」という人間の営みや理性によってそれを求めようというような議論になっていった。
しかし、流れを聞きながら、自分にとっては、そこでこそ仏教的な視点が投影される部分ではないかと思われた。
幸せはなにによってもたらされるのか、不幸せはなにによってもたらされるのか。そのような根っこになるのが、僕にとっては宗教的な部分ではないかと思われた。
想像を絶するような災いや、自分自身が生きる意味や、生きている価値を見失うような状況。そのような場面において、「宗教」(僕にとっては仏教)が最も力を発揮する、あるいはその人の中にある宗教的なものの蓄積や、あるいは宗教的なものがもつ力がもっとも立ちあがるのではないだろうか。
人をして立たせる力、あるいは転倒していつか再び立ちあがらせるような力を与えるもの、あるいは、そのまま倒れ力尽きたとしてもそれを無意味で終わらせないようなものそれが何かを問うたり、あるいは想像を働かせてみること、またそうすることで、いまここにある「幸せ」がなにによってもたらされているのか、違った見え方が立ちあがり、異なる「幸せ」の味わい、見えていなかった「幸せ」ももたらされるものなのかもいれない、等と考えたりしていた。
ただ、それが無条件に宗教的なものに結びつくわけではなく、何か(宗教的なチャンネルを開く)「回路」のようなもの、あるいは何らかのきっかけがないと、そのような思考にはならないのかなぁということも、議論が宗教的なものにアクセスしないまま進んでいくような(印象をもつ)状況であることを見ながら考えていた。 (未完・雑感)
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