内田先生の言葉には、
いつも考えさせられる言葉、そうそうと漠然とした思いを言語化してもらえているような感覚になるものがたくさんある。
該当のブログ。
内田樹氏「言葉の生成について」
http://blog.tatsuru.com/2018/03/
まず一つ目。
読解力というのは目の前にある文章に一意的な解釈を下すことを自制する、解釈を手控えて、一時的に「宙吊りにできる」能力のことではないかと僕には思えるからです。
難解な文章を前にしている時、それが「難解である」と感じるのは、要するに、それがこちらの知的スケールを越えているからです。それなら、それを理解するためには自分を閉じ込めている知的な枠組みを壊さないといけない。これまでの枠組みをいったん捨てて、もっと汎用性の高い、包容力のある枠組みを採用しなければならない。
(中略)以前、ある精神科医の先生から「治療家として一番必要なことは、軽々しく診断を下さないことだ」という話を伺ったことがあります。それを、その先生は「中腰を保つ」と表現していました。この「中腰」です。立たず、座らず、「中腰」のままでいる。急いでシンプルな解を求めない。これはもちろんきついです。でも、それにある程度の時間耐えないと、適切な診断は下せない。適切な診断力を持った医療人になれない。
内田先生だったか、鷲田清一先生だったかが、答えのでない問題に向き合い続けることを、宙ぶらりんになりつづける体力、息を止めて潜水し続けるような感覚だといようなことを語られていたように思う。
すぐに答えを求めるのではなく、考え続けなければわからないこと、ずっと心に留めて保留し続けることで、あるときに「ふっ」とわかるようになったり、ちょっとずつ味わいがわかるようになってきたりする言葉や理解があるのだろう。
その意味で、次の文章も趣き深い。
そしてある日、久しぶりに出版社の担当編集者から連絡があって、翻訳はどうなったと聞いてきました。そこでしかたなく押し入れから原稿を取り出して読ん
でみた。そしたら、ちょっと分かるんですよ。驚きました。別にその年月の間に僕の哲学史的知識が増えたわけではない。でも、少しばかり人生の辛酸を経験した。愛したり、愛されたり、憎んだり、憎まれたり、恨んだり、恨まれたり、裏切ったり、裏切られたり、ということを年数分だけは経験した。その分だけ大人になった。だから少しだけ分かる箇所が増えた。例えば、親しい人を死者として送るという経験をすると、「霊的なレベルが存在する」ということが、皮膚感覚として分かるようになります。祈りというものが絶望的な状況に耐える力をもたらすということもわかる。共同体を統合するためにはある種の「強い物語」が必要だということもわかる。そういうことが40歳近くなってくると、少しずつ分かるようになってきたら、レヴィナスが書いていることも少しずつ分かってきた。
文章の読解、思想の意味の理解というのは、人生経験や体験を経て、初めて分かるというものがある。自分も年を経て、年を経ないと分からないことがある、というのが何となくわかるような感覚になってきた。
そういう意味では、「仏教をわかりやすく」というオーダーとそれに答えていくことは、ある意味本質を失わせるのかも知れない。 誰にでも分かるのではなく、分かる人にしか分からない(分からない人もいる)という性質のものかもしれない。
その意味で、梵天の勧請のエピソードにおける釈尊のためらい、というのも仏教というは、本来的に誰にも分かる教え、誰もが「真理」と承認しうるものではない、というのが性質としてあるのだろうとも思っている。
「困苦して私に得られたところのものを、/どうしていま説いて(人に理解させる)ことができようか。/貪欲や瞋りに負けた人々に、この真理は容易にさとり難い。/これは世の流れに逆らい、微妙であり、深遠で、見難く、微細であって、欲を貪り、暗闇に覆われた人々は、見るをえないのだ」
(『律蔵』1巻5頁、※前田恵学『仏教要説』15頁より)
「この真理は世間の流れに逆らい、微妙で奥深い。欲を貪り、無知の闇に覆われた人々が、この真理を見ることはできない」
(『マハーヴァッガ』1-1、※木村清孝『仏教の思想』16頁参照。)
講義に際して、この部分の意味を考えたときに、上に述べたように、釈尊自身、そもそもそのさとりが、「(真理でありながらも)「真理である」と万人が承認すべき真理」としては、考えていなかったということができるのではないかと思った。
自身の経験や好みでもあるが、仏教とは、すぐに理解できる部分があったり、であった瞬間に「ハッ」とさせられる衝撃をもってであうようなこともある一方で、どこかしら、わからなさ、理解のできなさとつきあうこともまた必要なのではないかと思っている。
そして、最後に
この経験からわかったのは、僕たちは意味が分からなくても読めるし、何を書きたいのかわからないままにでも書けるということでした。人間にはそういう生成的な言語能力が備わっている。読解力というのは、そのような潜在的能力を開発することによってもたらされるということです。(中略)そのうちにだんだん意味がわかってくる。でも、それは頭で理解しているわけじゃないんです。まず身体の中にしみ込んできて、その「体感」を言葉にする、そういうプロセスです。それは喩えて言えば、「忘れていた人の名前が喉元まで出かかっている」時の感じに似ています。「ああ、なんだっけ、なんだっけ。ここまで出かかっているのに、言葉にならない」というあれです。これはただ「わからない」というのとはもう質が違います。体はもうだいぶわかってきている。それを適切な言葉に置き換えられないだけなんです。
この文章を読んでいて、ずっと文献に向き合いながら読んでいた時代を思い出した。
読めば分かる、ではなくて、分からなくても読んでいく、ずっと読み返していく、そのなかで言葉が身体化していくようなところも起こってくる。文字を読み、思想に触れるというのは、そのような態度も要求されるのではないか、そのような読み方でないと、思想がわかったということにはならないのではないか、もし分かったとしてもその価値は半減以下になってしまうのではないか、なんとなくそんなことを思っていたなあと、ただ、格闘するように読んでいた時分もあったなぁと思い出した。
ああ、ちゃんと文献読まなければとも反省。
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