教育委員会(臨時会)に出席 人権や教育について考える機会

※途中まで書いていたのですが、書ききれずに止まっていたものを書き改めてアップします。

先週の月曜日、2月3日は、午後から教育委員会の会議(臨時会)に出席しました。

会議をしたよ、ということ

教育委員会の会議自体は公開で行われるが、非公開の議案も多くその場合は、傍聴者に退出していただいて会議を行います。(そもそも傍聴者がいないことも多く、今回もその例。複数人いるということも珍しいケースでもあるが)

会議は長時間に及ぶことも多く、今回も15:30開始、非公開と平場の協議も含めてすべての日程を終えて会議室を出たのは20:00頃。

会議の内容は

・市議会に出す補正予算関連の議案

・人事異動に関する定数の変更に関する議案

・国の人事院勧告にあわせて給与制度の見直しをする議案

等でした。

議案は非公開のものもあるので、具体には触れませんが、委員からは種々の方面から質問し、答弁をもらいました。私個人は4年目(一期目)なので知らないことも多く、いただいた答弁の1つ1つが勉強になりました。(ほかにどこで使えるのかわかりませんが)

 今回は、国の年度内予算の補正(市に対する補助が発生するタイミング)と、市の翌年度予算のタイミング(ちょうどこの時期)の兼ね合いから、今年度予算で組んでいたものが前年度の予算で計上されているという二重計上(ある意味でテクニカルといえる予算の処置と思いました)という複雑なスキームがあることが理解できました。
 ※ 本当にどこでこの理解が使えるのかを考えると…ですが。笑

会議の中、委員や事務局のみなさんと話す中で起こった、「人権」に関するディスカッションが個人的には大切なことではないかと思っているので備忘のためも含めて、こちらに書き出そうと思います。(ディスカッションといいながら、書き記すのは自論になりました)

「人権」(差別)の問題はどこからおこるのか

 会議の中で「人権」について関わる話題がありました。

 具体に立ち入ることは、非公開の審議に関わる差しさわりがあろうかと思われますので、問題と思ったことに焦点を当てて紹介したいと思います。

 しばしば、人権にまつわる取り組みが、「心」の問題だけに焦点を当てて語られてしまことがあります。たとえば「思いやり」とか「やさしさ」とか。

 しかし、人権はそういったあいまいな「やさしさ」とか「おもいやり」などで守ることができるか、理解が深まるかというと、答えはNOと言わざるを得ません。

 むしろ、人権やさまざまな権利は、「正義感」とか「やさしさ」とかによって侵害されるケースがままある。むしろそういった場合の方が圧倒的多数ではないかとさえ思われます。

 たとえば、「みんなに教えてあげよう、たくさんの人に知ってほしい」と新聞記事データや報道の映像をSNSなどでシェアすることは、善意からくるものであっても「著作権の侵害」にほかなりません。

 悪を懲らしめるという思いが、暴走すると「なにをしてもいいんだ」ということになりかねません。私刑が禁じられているのに、ネットリンチやSNSでの暴露が何の躊躇もなく行われているのは、ある意味で正義感や可罰感情がもたらす暴走状態(権利の侵害)といえるのではないかと思います。

 以前、尼崎市の「生涯学習審議会」でレクチャーをしてくださった上智大学の出口真紀子先生のお話のなかで、「人権は、具体的で、数え上げられるもの」(英語が Human rights と複数形なのは、具体的に数え上げることができるものという観念である)という言葉がありました。これが印象的に耳に残っています。そして、これが自分の中で大きな手掛かりになっている感覚があります。

 「権利」は具体的なものなのです。例えば、尼崎市が「じんけんをまなぶ本」(尼崎市人権文化いきづくまちづくり計画)というのを作っていましたが、ここに世界人権宣言の30の項目を以下のようにまとめられていました。

・自由平等  ・差別待遇の禁止  ・生存、自由、身体の安全  ・奴隷の禁止  ・非人道的な待遇または刑罰の禁止  ・法の下に人としての承認  ・法の下における平等  ・逮捕、拘禁または追放の制限  ・裁判所の公正な審理  ・無罪の推定、罪刑法定主義  ・私生活、名誉、信用の保護  ・移転と居住の自由  ・迫害からの避難  ・国籍の権利  ・基本的権利の侵害に対する救済  ・思想、良心、宗教の自由  ・意見、発表の自由  ・集会、結社の自由  ・参政権  ・社会保障  ・労働の権利  ・婚姻と家庭  ・財産の権利  ・休息、余暇  ・生活の保障  ・教育の権利  ・文化権  ・人権を守る社会的国際的秩序の確保  ・社会に対する義務  ・権利と自由に対する破壊的活動の禁止

 権利の侵害はなぜ起こるのか?そう考えると こういった「権利」が人には保証されているということ、そしてその権利にはどういったものがあるのか、 なぜそれが守られなければならないのかという、「知識」や「理解」の問題が決定的に欠如しているからそれが起こるといわなければいけないのではないかと思うのです。 
 
 そういった意味で、人権の侵害は、子どもたちの「健やかなココロ」「健やかなカラダ」を育成すれば起こらなくなるといった類のものではありません。
 正しい知識と情報とそれに基づいて考える力といった「知識」と「理解」を提示すること、そして正しい、人を傷つけない「コトバ(言葉)」を用いる力を手に入れることではないかと考えています。
  
 私はここに至って、仏教の身・口・意の三業を語る意味について考えずにはいられませんでした。 私たちの社会は、「心」と「体」(心身)の二元論でものを語り、さらに「心」に、時に問題を集約して考えてしまいがちになることがあります。しかし、仏教は、「身(カラダ)」「口(コトバ)」「意(ココロ)」の三つの要素を大切にするいわば三元論の立場です。(身・口・意の三業(三つの行為)といいます)差別や人権の侵害は、時に「言葉」によって引き起こされます。知識や理解もある意味で「言葉」によってもたらされるものです。
 公の文書にするにはハードルが高いのだろうと思います。しかし、理解として仏教が「心・身二元論」ではなく、「身口意の三業」で物事を考え、言葉を大事にする立場にあるということを知っていただくことが、なにかものを考える手掛かりになるのではないかと思ったのでした。



 



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