先に記事を上げた應典院の20周年シンポジウム。(https://ryogo1977.blogspot.jp/2018/03/20.html)
その最後に、秋田住職から「應典院ポスト20年プラン」の発表があった。
「葬式をしないお寺應典院が葬式をしたらどうなるのか」、「葬送に取り組みたい」ということだった。
秋田住職の言葉によれば、
・親寺の大蓮寺でのご葬儀などから貧困のご家庭と向き合われた経験があったということ。
・應典院で開催された、葬送をテーマにしたシンポジウム(https://www.facebook.com/events/136846966934224/)で、100名を超える参加者があったという、一般社会からの「強い関心」を感じられたこと。
・また、そのシンポジウムでは、近代の「助葬システム」が、福祉的な役割を果たしていたという指摘があったこと。
・「多死」、「貧困」、「孤立」の社会の中で、葬送は「福祉」の文脈で捉え直すことができるのではないか。
等が語られていた。「應典院が葬送に取り組んだら、こうなる」ということを考えたい。という強い言葉もあった。
20年、設立からのコピーに「葬式をしない寺 應典院」と示し、そのタイトルで本まで出していた應典院が、20年の節目を経て、「葬送」に取り組むという宣言。非常に重たい、ズシンとくるものがあった。自分の内面でなにかがふるえているような感覚があった。
伝統仏教教団、あるいは研究機関でもずっと「葬儀」をテーマに掲げた取り組みはあった。食傷気味になるくらい、「葬儀」というのは扱われてきたテーマだ。しかし、應典院として葬儀に取り組む(考える)という宣言は、これまでの伝統教団のそれとはまったく異質の感覚をもって聞こえてきてしまった。
個人的感覚だが、これまでの伝統仏教教団の葬儀は、寺院経営等の経済的な面、宗教儀礼や仏教的価値観の維持、布教伝道といった、仏教教団、あるいは寺院側のモチベーションとどうしても切り離すことができないでいた。それらが透けてみえていたことが、一般社会との乖離を生じさせたり、その主張に説得力を持たせ切れていなかったように思われる。
しかし、(それがテーマや題材として扱われるイベント・研修が行われることがあっても)あえて再建以来20年間「葬儀」という営みを行ってこなかった應典院が、寺院経営・維持、布教伝道等との文脈からまったく独立して、その色を排除して、葬儀を行うというのは、これまでの仏教側からの発信とは、まったく異質の取り組みとして受け止められるだろう。
おそらく、秋田住職の言葉にあった、「助葬」システムのようなコミュニティによる相互扶助、あるいは「貧困」「多死」「孤立」といった社会課題への応答として、「社会システム」とか装置としての葬儀のあり方を、純粋に突き詰めた答えが提示されるのではないだろうか。
また、それは應典院が積み重ねた20年の時間と営みが、仏教が抱えていたテーマに新たな地平を切り開くような思いがした。それは、これまでの20年の蓄積をもって、初めてなしえることが目の前に示されたような、それの重みと、それによってもたらされるものへ期待かもしれない。
そのような時間と営みの重みと、それがもたらすものへの強い期待が、自分のなかで「ズシン」と来て、ふるえるような何かを生じさせたのではないかと思う。
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