割と困る質問:「永代供養ってしてもらえますか?」(その1)からの続きです
「永代供養ってしてもらえますか?」という質問の悩ましさは、上に書いたその意味が多義的ということのほかにも、悩ましさがある。
◎ 「永代供養したから、お経をあげる」というわけではない。
永代供養したから、その方のご供養はお引き受けしましたよ、というように請け合えるかというとそうではないのだ。「永代供養しても、してもらえないのか?」というと、むしろ逆で、「永代供養されても、しなくても、お勤めはする」のである。
あくまでも、私の場合、今の西正寺の場合は、という前提がつくものではあるが、以下のような考えをしている。
西正寺の合同墓に納骨された方で、(仮にこの言葉を使うが)「永代供養」を依頼され、懇志を収められた方だけお勤めし、そうではない方はしない、みたいなことができるかというと、そのような器用なことはできないわけである。
あるいは、永代供養の懇志・お布施の額に見合ったことをそれぞれするかというと、またその金額に応じてどうこうということもできない。
要は、合同墓に納骨されると、永代供養したからどうこうということはなく、皆同じようにお参りされ、お勤めさせていただくことになるのだろうということである。
なので、特別に「永代供養」どうこうといわれると違和感が生じるというのは、永代供養したから、しなかったからというところに、なにか変な差があるようなニュアンスが生まれてしまうのではないかというところにもある。
◎「永代」(永遠)を保証するのもむずかしいよね、ということもある。
「それをいっちゃあおしまいよ」といわれるかもしれないが、正直「永代」「永遠」のお勤めを請け負い難いということもある。いつかはおわりがくるし、諸行無常の理(ことわり)を説き続けてきた仏教が、「永代」ってそんなに簡単に保証できるの?というような思いも正直している。
wikiペディア「永代供養」の項目は割と親切な記述だったりしていると思う。(「…言葉どおりの「永代」ではない。また、霊園の倒産、寺院の廃寺などにより墓が消滅に追い込まれることもあり、この「永代」も保証されるわけではない。」というあたり)
◎ 結局、どういうことかというと
・永代供養のお金を収めていただいたからと言って、特別にその方だけにお参りをするような器用なことはできない。納めていただいても、納めていただかなくても、西正寺の合同墓に納骨いただいたら同じように、お参りをさせてもらっている。
・じゃあ、なんのためにお金をお納めいただいているかというと、「お寺の護持・維持(ひいてはお墓の維持)」のために充てさせていただいている。 お寺を維持することによって、お墓とお参りを維持することができる。それは、だれか特定の故人のためではなく、納めていただいたみなさんのためになるともいえる。
・なので、「だれそれのために特別にお経をあげてください」という依頼にこたえることはできないが、「お寺を護持」していければ、ご縁の故人、ひいてはお墓に収められたほかの皆さんのご縁のお勤めを維持していくことができる。そういう意味でも、「お寺の護持のためのご懇志」ということで、ご理解いただき、納めていただければ、ありがたい。
というような説明をしている。
正直どこまで、わかっていただけているのかというと、100%じゃなかろうという感覚もあるが、それでも、うわすべりする「永代供養」という用語だけで事が進んで行くことよりは、このような「説明がさせてもらえる」というだけでも、なにかちがうことがあるんじゃないかと思っている。
まあ、結局できるかぎり「永代供養」という言葉には、のっかりたくはないのだが、それを説明すると、このような長々としたブログを書いても、まだ説明しきれないというもどかしさや、すっきりしなささが残るということだけは、共感いただけたらうれしいなぁ と思う次第。
共感します!! いつも私も永代供養と永代経、納骨の説明もごもごしてました。まとめていただきありがとうございます。
返信削除長文を読んで感想くださりありがとうございます!お言葉うれしいです。
削除重要なことは「先祖の菩提を弔う」ではなく仏教の護持なんですよね。そこが日本では不明瞭になってしまっているから、お寺が維持できなくなったりするのだろうなぁ…と思ったりしています。
返信削除コメントありがとうございます。 ご指摘の通りかとおもいます。 先祖に対する思いや、故人に対する思いというものは、それはそれで大事にされるべきだと思います。 一方で、お寺や僧侶の存在意義というは、それはそれでしっかりと保ち、伝えられるべきだとも思います。
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