2009年9月28日月曜日

生きているのか、死んでいるのか(1)「生まれること」

 法事のお勤めのことなどを考えていたときのつれづれ。

 「生」とか「死」とか、考えてみると、実はその定義は、あたりまえのようで、実はかならずしも自明のことではないと思う。いや、むしろ定義自体は非常に明確でありながら、「かならずしも絶対的なものではない」というべきか。

 そもそも僕らはどこから「生まれた」といわれる状態になったのだろうか。
 法律的に「生まれた」のは、母親のおなかの中から出てきて、見かけ上、独立した個体と認識されるようになったときだろう。(これが明確な社会的な定義だろう)

 しかし、それ以前から心臓や脳は個人のものとして活動しているのだろうし、両親やまわりの人たちは、「新しい命」として認識している。もし、なにかしらの事情があって、無事に生まれなかったとしても「一つの失われた命」として扱うのではないだろうか。(これが、「絶対的なものではない」と思うこと)
 じゃあ、受精して着床してということころが、いのちのはじまりかというと、そうとばかりは言えないようにも思う。これは、生まれて事後的に感じることかもしれないが、両親の遺伝情報や、健康状態、薬物の影響あるいは根本的な体質自体など、妊娠以前の状態も生まれてくる子に影響があるんじゃないだろうか。
 明確に、ぶっつりと独立した個人として、まわりの何者にも影響されることなく誕生するのではなく、あくまでも「生まれる」といいつつも、諸条件のつながりのなかでうまれ、いつ「生まれた」といったとしても、その「生まれた」というよりも以前の条件をその身に引き受けている。

 そういった「つながり」を失うことができずに生まれてくるのであれば、全く独立した別箇の個人として「生まれた」と明確に線引きすることは、できないんじゃないかと思う。「生まれた」とは、非常にぼんやりとしたところでしかないのではないか。

 赤ちゃんが生まれたり、生まれると分ったときの感動は、想像だにできないし、「生まれる」「生まれた」と上と矛盾したかのような思いを持つんだろうと思う。
 でも、法律とか、社会的な通念で、「今生まれた」と固定的に線引きして、それでよしとすることには、何か耐え難い抵抗を覚える。それでよしとしてしまうと、つながり的なものもぷっつりと断ち切って、個人主義的な思想に与してしまうようにも思える。
 
 誤解の無いように言っておけば、社会的に「生まれた」と認識されることについては、何の問題ももっていない。でも、自分の生命の実相をどう見るかと考えたならば、その定義自体は常に、疑われざるを得ないんだろうということ。
「便宜上」どこかで限定的に考えてしまわざるを得ないとしても。

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