◎ 答えずらい質問
よく聞かれる質問に、「お布施はどれほどしたらいいですか?」と聞かれる。
この質問に具体的にこたえられるお寺・僧侶もいらっしゃる。あるいは、ホームページ等に明示的に書かれていることもある。
しかし、正直言って、なかなか具体的にどれだけしてくださいとは答えづらい質問である。
うちの場合はという限定付きであるが、月参り・法事・ご葬儀その他のお勤め(法務呼んでいる)で、上のように聞かれた場合は、「お布施は、ご寄付なので、決まった額はないので、いくらでも、無理のないところでお布施していただいたらいいですよ」と答えている。
さらに、言葉が足せそうなときは、
「おうちそれぞれで、ご事情が違いますし、ご無理のないところでしていただいたら結構なことなんです。お金がかかるから、お勤めできない、お弔いができないというのが、私たちにとって一番残念なことですから。こころよくお勤め(お送り)していただくのを大事にしてください云々」などと、言葉を足している。
◎過去のケース
過去に実際に残念というか無念さを感じたケースがあった。
ある老夫婦がお寺に相談にお越しになった。伺うとご兄弟がなくなって葬儀をしたが、葬儀会社からの見積もりと、僧侶へのお布施の相場を聞いて、「そんなにかかるのか!」と驚いて、「無宗教で、直葬でやります」と返事し、実際にそれでお葬儀をしてしまった。葬儀が終わって、そのことを後悔している、というご相談だった。
法名もなく、葬儀のみで、その後のお勤め、法事もない。お経・仏事をすることができなかったというところに、心残りがとてもあるので、お勤めをお願いできないかというようなことだった。
そのご夫婦の話を聞いたときに、そのご兄弟のお送りが望まれる形で、ちゃんと行われなかったことが残念であったし、無念であったし、申し訳なく思った。「お葬式」と「お金」に関する論理が逆になってしまっているんじゃないかと強く感じた。
「お金がかかるから、仏事ができない」というのは、サービスや消費経済の論理に宗教的行事・儀礼が引きずられ、引き落とされてしまっているようなものだ。「お金がないから葬儀ができない」ではなく、「お金などなくても、葬儀はできる(できなくてはならない)」ものなのではなかったか。
本来は、葬儀や法事というのは、信教の自由や、それらにまつわる「権利」として保障されているべきものだと考えている。「弔われない」というのは、ある意味で、人権や福祉が欠落した状態だといえる。
亡くなった方は弔われ、亡くなった形に対して弔いの気持ちを向けることは、お金があってもなくても、本質的な差はない形で実施されるべきものだろうと思っている。
ご相談に来られたご夫婦とはお話を進めて、49日のお勤め、法名の相談をした。それ以後もお盆や、年忌の法事もご相談されて、継続的にお勤めをされている。
その経験を通して、ご葬儀のお布施の相談には、「お金の有無ではなくて、大事にお送りのお勤め、ご葬儀をしていただくのが一番大事なことですからね。」という言葉を添えることもある。
結局、仏事をはじめとしたお寺へのお布施は「寄付」であり、「お気持ち」であって、本当にいくらでもいいのだ。
その2につづく 〈その2はこちら〉
https://ryogo1977.blogspot.com/2024/03/blog-post_45.html
→ その2では、もう少し具体的に額について考えています。
※補足1 おかげさまで、私のお預かりしているお寺は、いまのところ大きな工事や問題が生じない限りは、現状の維持については、なんとか行えるレベルで経営・運営ができているからそのように言えるのであるのだろうという、バックグラウンドも大事な部分でもある。
※補足2 こう書きながらも、お墓への納骨に関しては、ある程度の目安を提示している。これは、「行為」ではなく、物理的な容量という限界や維持のために必要なコストを共有いただくという性質でもある。本当は、そこにも「お金は気にせずに」といえたらいいのにと思わなくもない。
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