http://ryoshin.doshisha.ac.jp/jp/activity/20171023/
公開シンポジウム「仏教とキリスト教の対話──共通善を求めて」
日時: 2017年10月23日(月)16:40 - 18:40
場所:同志社大学 今出川キャンパス 同志社礼拝堂
講師 大谷光真(浄土真宗本願寺派・前門主)
コメンテーター 小原克博(同志社大学 神学部 教授、良心学研究センター長)
同志社大学設立以来、浄土真宗のご門主・前門さまが同志社大学の礼拝堂でお話になるというのは初めてのことで、ご挨拶にたたれた先生も「歴史的なこと」とおっしゃっていたのが印象的。
シンポジウムのなかで、江戸時代の仏教者による「廃耶論」(キリスト教批判)や、新島襄の同志社設立に対する仏教界の猛反発など、仏教・キリスト教の対立(というよりも仏教側、体制側からの抑圧というべきか)の歴史について触れられていた。それを聞くと、過去の時代においては想像すらできなかった状況(浄土真宗の門主という立場ある僧侶が、同志社の教会の真ん中で講演をするという状況)が、目の前にあることをあらためて考え、感じさせられるものがある。
テーマは「共通善」ということだったが、宗教間対話のような、異なる文化、価値、信仰を有した人といかに対話を成立させ、共通の「善」や「価値」を構築するかということが問われていたとでもいえるだろうか。あるいは、そもそも「対話」を成立させ、交流をする、ということ自体が、一種のこの時代の「善」とか「共通認識」の方向性ともいえるかも知れない等とも思う。
これはコメンテーターであった小原先生の発言のなかにあったものだが、「時代に生きるものとしての共通善を探す」のだとおっしゃりつつも、一方で「国民道徳」的なものに対して批判的なまなざしを持たなければならないという指摘もあった。
とするならば、共通善を探すとしつつも、宗教的な役割、価値は、それら世間的な規範を模索する一方で、それらからまた一定の距離を取りつつ、批判や疑問を呈するような関係性であることが求められるということだろうか。
あと「善」ということについてしばしば考えることだが、仏教の場合(今日のレジュメにも記載されていたが)積極的になにか善行を語る場合もあれば、「十善」のように、悪ではないこと、悪をなさないことを「善」とする場合もある。(ちなみに、仏教の十善とは、「不殺生」「不偸盗」「不邪淫」「不妄語」「不綺語」「不両舌」「不悪口」「不貪欲」「不瞋恚」「不邪見」)
つまり、積極的にある種の「善」を語るのではなく、悪の否定という「これをしない」というように否定的な形でかたる(あるいは、そうとしか語りえない)ということに、一つの示唆があるのではないかと考えたりしている。
すこし、飛躍するのだが、今日、人間の行う「善」や「正義」の限界、あるいはそれらが持つ弊害や暴力性、あるいは「規範」というものがもつ抑圧性や、暴力性を鑑みるとき、正しさとはむしろ、それを握りしめるのではなく、そこに対して、疑問や相対化のまなざしをつねに投げ掛けるものこそ「正義」とか「善」の行為なのではないかと思われるのだがどうだろうか。
その疑問や相対化のまなざしをもつことを善と呼ぶことを許されるのであれば、またそれは、先に提示されていた「国民道徳」への無批判な追従に対するブレーキにもなり得るし、対話や自己内省を促す「宗教的なはたらきがそこにある」ということもまた考えられるようにも思うのだが、どうだろうか。
以下情報転載。
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公開シンポジウム「仏教とキリスト教の対話──共通善を求めて」
日時: 2017年10月23日(月)16:40 - 18:40
場所:同志社大学 今出川キャンパス 同志社礼拝堂
講師 大谷光真(浄土真宗本願寺派・前門主)
コメンテーター 小原克博(同志社大学 神学部 教授、良心学研究センター長)
趣旨
仏教をはじめとする日本宗教とキリスト教がしばしば対立的な関係にあった戦前と比べれば、今日、宗教間の相互理解や対話が進んだだけでなく、それが積極的に求められる時代となりました。現代社会が抱える多様な問題の解決のために、異なる宗教伝統から知恵を出し合い、協力することの意義を、このシンポジウムでは模索します。そのために、様々な宗教間対話を経験してこられた大谷光真氏を講師として招き、仏教とキリスト教の対話がもたらす地平を、来場者と共に展望したいと思います。
※入場無料、事前申し込み不要
良心学研究センターは、現代世界における「良心」を考察し、その応用可能性・実践可能性を探求することを通じて、学際的な研究領域として「良心学」を構築し、さらにその成果を国内外に発信し、新たな学術コミュニティを形成することを目的としています。
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