午前中のお参りを終えた後、午後の予定を確認していると、ちょうどレインボーフェスタ当日であったことを知る。
レインボーフェスタ(http://www.rainbowfesta.org/)とは、「性の多様性を訴えるイベント」あるいは「セクシュアル・マイノリティの存在や権利を訴えるイベント」ともいえるでしょうか。
毎年この時期に開催されるのですが、ほとんど出講や、他の行事、お寺のお仕事と重なっていて、参加できずにいたのだが、今年はなんとかはせ参じる事ができた。
会場に到着すると、さっそく目にはいったのが、龍谷大学のブース。
龍大では、今年は、レインボーフェスタにブース出店して、
学内のアンケートの結果や、作成した冊子の紹介等を行っていました。
中心になっていたのは、宗教部のA課長と、にじりゅうの学生さんたち。
久しぶりにH先生にお目にかかってご挨拶ができる。
会場内をうろうろとしていると、何人かの友人・知人と顔を合わせ挨拶をする。
意外と知人と出くわすことが多い。
帰りがけに
R大学のM先生が学生さんたちと一緒にいらっしゃるところに出くわし、ご挨拶すると、
思っても見ないほど光栄なご紹介をいただけた。「M先生とR大の学生さんの活動やとりくみをエンパワーしている」云々という。本人にその自覚はないが、結果としてそのようなことになっていたとするのならば、とてもうれしい。
初めてレインボーフェスタに参加したわけだけれど、実際に足を運んで気がつくこと、感じることはやはりあるものだった。
一つは、「フェス」が、当事者や、テーマに関心のある人に足を運ばせ、コミュニティやネットワークを作る大きな力となっていること。実際に、これまでの緩やかなつながりが、再会や紹介を通じてまたひとつ強められたような気がした。
もう一つは、イベント一般がもつテーマ。
今回参加して、フェス全体がある種の「内輪感」というものに、まとわれているようにも感じられた。ある意味イベントの性質上、それは当然のことかもしれない。「去年もいましたよね?」「今年は・・・」という会話をよく耳にしたが、それはそれだけ継続的に関わり、その中で関係性が作り続けられているということでもあるだろう。ある意味で自分たちの場を、自分たちの力で作り担保しているからこそ、そのような場や、関係性が作り上げられてくるのだろうと思われた。
しかし、一方で、そうであるからこそ参加者が「異質な他者」に出あう機会は、もしかすると、そう多くはなかったのかもしれない。そういう、異質な他者が多くくる必要があるのかどうかは、会の主催者や、作り手の思いに委ねられるものであるとおもう。一参加者がどうこういうスジの話ではない。
しかし、自分のテーマと関連させながら、「ここにいない人たちとどうつながるか、ここにいないにもこの場に関わってもらうためにはどうしたらいいのだろうか」という行事自体を拡がるためには?というイメージを膨らませながら、しかし、それと同時にもう一方で「そもそもそれ(外部とつながること)が必ずしも必要なことなのだろうか?」(もしかしたら内輪で完結すること自体に意味があるし、それでもいいのではないか)等、あれこれ考えながら帰途についた。
自分としては、「イベント自体がある種の関係者の内輪感をもって行われる意味」を考えてみないといけないのではないかと思った。
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