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2018(平成30)年2月14日(水)17:30~19:30
本願寺国際センター 恵範講座 第40回特別記念シンポジウム
「宗教と現代社会との関わりについて」
(会場:聞法会館 3階多目的ホール)
登壇者は、大谷光真・浄土真宗本願寺派前ご門主、小原克博・同志社大学教授、コーディネーターとして、釈徹宗・相愛大学教授。大変豪華な登壇者。
事前申し込みが必須と言うことだったが、すこし残席もあって当日でも入場はできたようだった。
前ご門主の講演、小原先生の講演があったのち、釈先生も加わられてディスカッションという流れ。
おおむね議論は、宗教者の実践と信仰は社会に対してどのように関わり、どのように距離を取るのかということについて、現実的な問題も視野に入れつつ、そのあり方について探る、というのが中心的な問題であっただろうかと思う。
単に教義的・抽象的な議論にとどまるのではなく、インターネットの功罪やそれによってもたらされている社会的な断絶・対立にも目配せがされていた。
実践や信仰を「正当化」したり、理論づけようとするのではなく、現実の中にあるジレンマや、問い自体に考えるための材料や手がかりを提供されたような対話の時間だったように感じる。
◆大地や、海に通じる宗教性
ディスカッションのなかで言及されたものの一つに、鈴木大拙が親鸞聖人の信心・念仏を「大地」に足を置き、生活することと結びつけたということがあった。それは、今日のシンポジウムの中では、石牟礼道子が『苦海浄土』の中で、自己と切り離されたものではない「海」を語り、また公害の被害を「部外者」としてではなく、自己のありようと深く結びつけて捉え、描いていることと、あるいはガンディーがヒンドゥーとムスリムの暴動の際にハンガーストライキをしたことによって、暴動を治めたエピソードと重ねて語られもした。
要は、信仰の世界、或いは信仰によって獲得された身体性は、自己の枠を超えて、大地や、海や、あるいは他者・世界とつながりなかで再認識され、また他者にもそれが認識されることによって新しい地平につながっていく、というようなことのように思われた。
宗教者による社会とのかかわり、実践というものは、単に「社会とどう関わるか」「信仰をどう社会に表出させるか」ということのみでで閉じてしまってよいものではなく、世界・宇宙を引き受けていくような壮大なつながりを、可能性としてでも、視野に含んでおくべきものという視野が提示されているように思われた。
◆「いいわけ」にしてはいけない。
印象深く、覚えておきたいとおもったものが、小原先生の資料で紹介されていた以下のもの。
「知識の探究に明け暮れたその生涯の終局に、ファウストが「われわれは何も知りえないのだということが、わたしには分かった」と言う時、それこそが結論なのであるが、しかしそれは、こういう言葉が自分の怠惰を正当化するために最初の学期に学生によって使われる場合とは全く違う(キルケゴール)。その言葉は結論としては真理であるが、前提としては自己欺瞞である。その意味は、一つの知識はそれが獲得された実存から切り離されることはありえないということである。」
(D・ボンヘッファー『キリストに従う』ボンヘッファー選集3、新教出版社、1996年、19-25頁)
経験や思想は、アプリオリにあるものではなく、実践や経験をともなってこそ、それそのものといえるだろうか。「愚者だから・・・」「凡夫だから・・・」とそれを前提に物語られるものではなく、思索や苦闘のはてに、「やはり愚者としかいいようのない自己」「やはり凡夫としかいいようの亡かった自己」と出あいなおし、言葉の意味を確認していくようなことだろうか。
その意味では、教義や思想は、そこから始まると言うよりも、始点であると同時に、やはりそうだったと、帰るところ、帰着・到着するべき言葉、再確認されるべきものとしてそこにあるというべきものといえるだろうか。
あるいは、実践のはてに行き着くべきものとしての思想をいいあらわしているようにも思う。
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