【「伝道」とか「法話」とかということについて考えている】
(お坊さんとか仏教関係者向け。 一般的な内容投稿ではありません)
先日来、夕刻の勤行にあわせて解説と短いお話をしてyoutubeにアップしています。(シェア先にある、勤行のyoutube動画です)少しまじめな話をしますと、「法話」とか「伝道」とはなんだろうということを考えさせられながら、動画をアップしています。
こちらのチャンネルです
◆ こうやって「経典」を読誦して、それについて言葉を発していくこと(解説・法話すること)が、なかなかないような、心地よさや安定した感覚の中でさせていただけているのです。
このように思うのは、どちらかというと、自分は「トラディショナルなことを大事にしたい」という価値観をもっている(と自分が思っている)、そういうこともあるのかもしれません。また、文献を読む、研究するということが、これまでの自分のキャリアの中核な部分を占めていた、ということもあるかもしれません。
そもそも、仏教はこうですよ、と「自分の言葉」のみで語るのは、自分で語っていながら、「仏教を仏教として正しく言葉にできているのだろうか」と自問することがあります。
浄土真宗の御法話の定型には、「御讃題」として、経典、宗祖の書物から、そのお言葉を(読んで)頂くということがあります。それが、真宗のお説教では、非常に大事なことであると思っています。その意味で、「真宗のお説教」は、もともとが「自分の言葉」ではなく、「お聖教の言葉を語る」ものであるという形が重視されています。
しかしながら、実際にそれがどれほど意識されているだろうか?と考えると、やはり「形式的」であるケースがないともいえません。(形式が守られているということにも意味があると考えながら書いています)また「お聖教(経典・祖典)」に触れずにされる「法話」もあります。(私もそういう形でお話をすることがあります。決してその形式を否定するものではありません。)
一方で、勤行として、「ともに読誦するもの」であると(一定の方に)意識されているこの形式は、実感として、「御讃題」よりも、経典の言葉に触れながら、それを今聞いている(話している)という意識を持たせてもらえているように感じています。
それが安心感なのかもしれません。
◆ またすこし違う角度から考えを向けてみると、以下の様なことも思いました。
「語り手が語りたいことを語らせてもらえる形式の法話」も実際には多くあります。しかし、それは同時に、そこには教えを語りながら、どこか「自分の考えが仏典という名のもとに語っているにすぎないのではないか?」とか、単に「共感されること」だけを求めているのではないか?という疑念が残る場合があります。
仏教はどのようなものか、それが仏教であるのかということは、(過去に「仏教だとなのりながら、仏教でなかったもの」が実際にあったように、また現在進行形で今もあることが示すように)、語り手が検証可能な形で示す、ということも必要なことであるように思うのです。
それは、聞き手(語り手以外の人)が検証するためのものということももちろんありますが、いま感じていることは、語り手としての足場の、立脚点として、経典をもとに、言葉にさせてもらえる、という安心感のようなものでもあるように感じています。
もしかすると、この箇所のポイントは私はこう読んで、このようにおもったのだけれど、みなさんはどう思いますか?という違う味わい・調理方法をお尋ねしているような形で差し出せているという感覚なのかもしれません。
(あくまでも個人の主観です 笑)
※「考えさせられながら」というのは、もともとそういうことを考えていたわけではなく、こういう動画を作っていく中で、こういう形式で鼻意ているなかで、ふっと考えるようになってきたということを意図しています。
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追記
言葉を補足しておくと、
「安心感」というのは、「法話だけする」ということにくらべて、こうやって勤行にあわせて法話をするということに由来するものなのかもしれません。
そういう意味では、人によっては、「法話だけ聞きたい」と思われる人もいるかもしれませんが、この動画においては、実は勤行があるということに、配信主の私はとってもとても大きな意味を見ているという表明といったほうがいいかもしれません。
さらにいうと、浄土真宗のお寺で行われている法座・法要は、かならず勤行が行われて法話がなされるのですが、これが「法話」だけだと、その意味や味わいが、かなり変わってしまう、あるいはかなり減ってしまうのではないかと思っているクチです。
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