カリー寺では、本堂でトークやパフォーマンスをプログラムしているのだが、オープニングトークとして、企画・主催の二人でカリー寺について話しをした。
カリー寺が始まった経緯や、地域やお寺に対する思いや考え、あるいはお寺と地域の関係、お寺の可能性について話が及んだ。
そのなか、「お寺の使い方」や「お寺のもつ可能性」について話題にあがったときに、ふっと自分の意見を以下のように述べていた。漠然と考えていたことを、かなり明確にできたような思いがしているので、あらためて記しておきたいと思う。
(そのとき発した言葉とは、異なっていると思うが、内容はおおむね以下のようなことを述べたつもりである)
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しばしば、次のようにいわれる。
「お寺の使い方」、「お寺はもっと社会に役立つことができるはずである」「お寺の使い方の可能性はもっとあるはずである」と。たしかに、お寺がもつ社会的責任や、社会的な役割、社会的な意味を考えたときに、寺院はもっといろいろな可能性があり、もっといろいろな使われ方、開かれ方があってよいはずである。
しかし、一方で「お寺を使う」という言葉の中に含まれてしまいがちなニュアンスの中にあるものに、なにか注意すべきものがあるように思うのである。違和感を覚えるのである。(もちろん、その言葉自体がすべて否定されるべきとはおもってはいない。)
もうすこし踏み込んで言えば、(僧侶を含めた、誰か個人の思いや願いを叶えるために)「お寺を使う」ということであれば、(あるいは、そのような意味が含まれていることに)違和感を感じるのである。
お寺はどのように維持され、ここにあるのだろうか。そう考えたときに、お寺を支えてきてくださった檀家さんの思い、あるいはこれまでお寺を支えてきたであろう人たちの思いがあって今のお寺があるのではないだろうか。お寺は、ある面で「お寺のために」という思いで、人が関わり、人が力を合わせて維持され、運営されてきたという一面もあるのではなかろうか。「お寺を使う」のではなく、お寺を支えるために「自分たちの力を使う」人たちの力や思いによって支えられてきたという見方がたちあがってくるようにおもう。
現に、今のお寺も、お寺の行事に「参加せねば」と関わって下さったり、本堂や、お墓の掃除に協力的に参加して下さる門徒(檀家)さんたちによって維持されている。
そう考えると、住職をはじめとする僧侶も、「お寺をどう使おうか」という「お寺の使い方」ではなく、「本来的なお寺のあり方にするために、自分がなにをすべきか」という、自らの「使われ方」、あるいは自分自身の「使い方」を考えるべきではないかとおもう。使う主体と使われる主体が逆転するようなあり方が、ある種の信仰の場であるお寺と自身の関係性として、あるいは自身と対象のあり方として立ちあがってくるのではないかと思われた。
そこには、自分の願いや希望をいかにして(金銭等を用いた)等価交換によって得ていくかという経済や、消費、サービスのあり方とは一線を画す考え方を提示する場もたちあがってくるようにおもわれる。
自分たちの願いを基準にしてものとむきあうのではなく、逆にその「場」やそこにあるものを成り立たせている(込められた)願いや思いをいかに読み解いていくか、そのうえで自身にもとめられる振る舞いを考えていく、というアプローチが求められているようにも思うのであるが、どうだろうか。
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※ もちろん、上記の考えにもまた問題が含まれることもあるとおもっている。
宗教的なことがらに対して、「自身を使うべき」という文脈になると、そこには主体性の剥奪や、盲目的な信仰、ネガティブな意味での宗教が孕んでいる問題も充分に考えなければいけないことがらのように思っている。
そのあたりを含めて、またじっくりと考えてみたい問題でもある。
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