2022年8月1日月曜日

エッセイ:何気ないニュースでほっとした

 先日、お昼前にやっている短いニュースを見て、ほっとしたような気持ちになった。

 流れていたニュースは、”四国の地方で藍染めの原料を乾燥させる作業がはじまった”とか、”どこかの海でイカの漁がピークを迎えて漁港がにぎわっている”とか、”どこそこのお寺で毎年咲く花が今年も満開を迎えた”とか…。そんな季節の風物詩をつたえるような、あるいは地域の日常を伝えるニュース。だが、そういうニュースの価値・意味をどこかで忘れていたのではないか。いや忘れる以前に、これまで気も付かずにいたのではないかな。ふと、そんなふうに思った。

 去年も同じようなことが伝えられたニュース。毎日あたりまえに漁をしている漁師さんの繁忙期だがしかし「日常」を伝えるニュース。こういういったニュースは、子どもの頃は「つまらない」「なんの意味があるんだろう」とさえ思っていたような気がする。

 しかし、今、コロナの状況だからかもしれない。あるいは、相応の年齢になって、そういうものに意味を感じられるようになったという自分の変化かもしれない。でも、そういうものの中にこそ、普段見落としがちな価値があるような気がしている。

 コロナや国際状況の変化を顧みると、そういう「当たり前の日常」「普通の日常」をつみかさねていけるということが、決して当たり前のことでも、普通のことでもないということを改めて強く感じさせられてしまっている。

 そういう劇的な状況の変化だけではなく、じわじわと進んでいた社会の変化・合理化の名の下に、手早く便利になっていく中で失われている「味わい」みたいなものもそこにはあるのだろう。

 また、コロナ流行の状況下で、人にあえない。恒例の年中行事や人と会うこと自体に制限がかかり、たくさんの「当たり前」が失われている。きっと「中止」が続くなかで、技術や習慣が喪失し、再開が難しく断絶が生じてしまったことがらもたくさんあるはずだ。そんな中で、コロナ以前から続く「あたりまえ」に接することが、これまで以上にセンチメンタルな情感を呼び起こしてくれたのかもしれない。

 夜、人がたくさん見られるだろう時間帯のニュースは、「問題」とか「トラブル」といった非日常の話題に多くの時間がとられているが、こういう「なんということはない日常」を「報道」して、こんな気持ちを社会の中に膨らませていってくれたらいいのに、とも思ったり。



  このブログを書いていたのは、ここ伊丹のクロスロードカフェ。
  移動の合間、休憩中に立ち寄りましたが、今日もいつもどおりの雰囲気でした。



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