8月28日 こちら(「おてらのそうじ(34)」と公開講演会「戒律とはなにか?」(1))の続き
8月28日の午後は、公開講演会「戒律とはなにか?」。こちらは、先月に第一回(第一回の記録はこちら)を開催したものの2回目。前回は、そもそもの「戒律とはなにか」についてお話いただいたが、今回は、仏教における「自死」の問題。
講師の大谷由香先生は、「不殺生と自死」という論文で、中外日報社の第18回「涙骨賞」という賞を受賞されている。受賞論文は全文こちら(https://www.chugainippoh.co.jp/info/ruikotu/ruikotu018-01-001.html)から閲覧できる。
本堂には約30人の参加者。西正寺の門徒さんや、恒例の勉強会(はすの会)に参加してくださっている人の他、大谷先生や講演内容に関心を持ってきてくださった方、園田学園の担当している講義の実習として参加してくれた学生さんなど、多様な顔ぶれ。
・(前回のおさらい)戒律とはなんだったか
・ 殺戒(不殺生戒)の成立とはどんな経緯があったのか。
→ 不浄観を修行した比丘たちの希死念慮と、大量殺戮事件(恐ろし)。
・ 自死は殺戒に抵触するのか?
・ 自死に対してお釈迦さまはどのように接せられたのか?
・ なぜ「自死」は罪であるというような観念が生じてきたのか?
→ 近代以降に発生した比較的新しい観念。芥川龍之介の遺書等を引きつつ、近代以前は「自死」は忌避されるものと考えられていなかったのではないか?というお話も紹介された。
休憩をはさんでクロストークでは、
・釈尊以来、仏教は自死ということに向き合ってきた歴史がある。
・その中で、自死を推奨していくのでも、また自死を断罪するのでもなく、非常にあいまいな態度をとっている。しかし、その「あいまいさ」「許容する姿勢」が希死念慮を抱く人にも、居場所を作ることになっていたのではなかったか。
・修行者、比丘が、生きていくことに苦しみを抱えて、希死念慮を抱くということは、「苦しみを離れる」ということをテーマにしている仏教でどのように理解すべきか?
→ 仏教が「苦しみ」を問題としていく中には、、泰然自若とした、苦しみを超克した境地を揺るがない境地を獲得していくということもあるが、より現実的には、苦しみを抱え続けて生きるということをそのままに引き受けていくという姿もあるようにおもう。 その意味で、比丘が「自死したいほどの苦しみ」を抱えていることは、彼(比丘)が仏道修行に失敗していた姿ではなく、彼が仏道そのものを歩んでいる姿であったと見ることもできるのでないだろうか。
事実、史料には、おしゃかさまは、その自死した仏弟子を批判するのではなく、彼は悟ったのだと、たたえていることもそのような見方も支持されうることを示しているように思う。
会場からも、自身の研究テーマが自死という学生さん、上座部や他の戒律との関連から質問をされる方等、多岐にわたった。16:00過ぎに終了した後も、ゆるゆると延長のエクストラタイムを持たせていただくなど、総じて楽しく、前向きに大谷先生のお話くださったテーマ問題と向き合う時間を持たせて頂けた。
改めて、今回ご多用の中に、時間を割いて準備し、尼崎まで足を運んでご登壇くださった大谷先生にはお礼を申し上げたい。(ありがとうございました)
そして、ご参加くださったみなさん、関心を持って見守ってくださったみなさんにも、ありがとうございました。
◎今回の講演会企画について
人文学の知見は、多様な価値観(さまざまな社会の価値観や、歴史的に変遷をたどって形成された価値観等)にふれ、今・ここにいる自分を相対化するまなざし、絶対的だと思っていたものがそうではないと気づかされる視点を得させてくれるものであると思う。
また、仏教・浄土真宗の知見にふれることで、人生の問いや苦しみに処していくうえでのヒント・手がかり(答えではなく)のようなものが得られることがある。そういった学問的空気、(健全な)宗教的空気が当たり前のようにある地域は、きっと物質的ではない豊かさがあるのだろうと思っている。
大学という専門機関ではなく、地域にあるお寺でこのような講演会を開催することは、そういった地域を精神的に豊かにしていくことにつながっていくのではないかと思っている。また、それは、すこし人よりながく人文学と呼ばれる領域で学問をさせてもらった自分にとって、今までのキャリアから得たものを、お寺に、地域にお返しできるものの一つであるように思っている。
今後も継続して、いろいろなお話を聞いたり、話したりする機会を設けたいと思っている。関心に合うものがあれば、どうぞよろしくお願いします。
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