2022年8月12日金曜日

エッセイ:生きているものだけで生きているのか?

〇 お盆に故人と私たちのことを考える

 お盆参りが本格的になってくる時期が来た。
 道ですれ違うお坊さん率も急上昇だ。今日は10分で、5人のお坊さまとすれ違った。多くの方が「お盆」だからと、故人に心を向け、仏事を営まれていることだろう。

 僧侶として、故人に向き合われる仏事・おつとめに立ち会う日々を過ごさせてもらっている。その中で、次のようなことを考えている。それは、「人は生きている者との関係だけで、生きているのではない」ということだ。人が生きている姿を突きつめていったさきには、必ず「死者」がいる。故人・先人とともに生きているのが私たちの生きている姿なのだろうと考えている。



 〇故人に語りかける人

 毎日、お仏壇に向かって「おはよう」とあいさつをし、話しかけられる人もいる。生前と同じように「コーヒー」や日本茶を入れて、一緒に飲んでいるという人もいる。(ビールという人も知っている。笑)命日や、誕生日には故人が好きだったものを選んで買ってきて、お供えされるという人もいる。
 そういう人たちに対して、「もう故人はいないから、そんなことしても無駄ですよ」という声は意味をなさない。むしろそういった姿から、実は私たちは「故人とともに生きる」ということができるのだ、ということを教えられるのではないだろうか。

 普段は何もしてなくても、何か大きな出来事があればお墓やお仏壇に向かい報告をするという方もいるだろう。悩みや決断が必要なときに、大事な人の墓前・仏前に向き合い、相談したり、心をたずねるということをする人もいるかもしれない。そういったことをするのはなぜか? 故人がいないのではなく、「そこにいる」ものと、「ともにいる」ものとして、向き合っている姿がそこにもあるのではないか。

〇死者はいなくなってしまうのか?

 「死者は死によっていなくなってしまうのか?」この問いには、人によってさまざまな答え方があるだろうと思う。「人は死んでもいなくならない」、「心の中で生きているのだ」という人もいるだろう。あるいは、ともにいた人が「いなくなった」という重みにこそ、意味を見出すという人もいるかもしれない。
 ただ、間違いないことは、死んでいなくなってしまったから「その人を忘れてしまえばいいのだ」とか、「もうその人のことは考えない」とは思わないということである。
 
 多くの人が、大切な人であればあるほど、その人が亡くなってもなおその人のことを思い生き続けている。「いたらどう思うか」とその遺志や気持ちを斟酌する。あるいは、その人がまだ目の前にいつづけているかのようにふるまう。
 あるいはこのように言うことができるかもしれない。死者に対してもっとも敬意をもったふるまいとは、死者をいない人として―扱うのではなく、いまなお「生きて存在されている」ものとして接するということではないかと。あるいは、死者を「死者」として向き合うということは、生きているもの以上に「存在」を意識して尊厳をもって向き合うことといえるかもしれない。 

〇故人の想い、故人との約束

 「死者とともに生きている」ということは、さまざまなところで感じることができる。生前に教えられたこと、与えられたもの、私たちがあたりまえに身に付けていることのなかにも、それを与えてくれた人の想いを見出すこともできるだろう。(例えば、「食べ物を粗末にしてはいけない」という自身の価値観のなかに、それを教えてくれた人の姿が立ち上がってくることもあるかもしれない。自らの技術や精神のなかにそれを与えてくれた師の想いを見出し、それを尊重しながら生きていくということもあるかもしれない)

 故人との生前にした約束は、「いなくなったから気にしなくてもいい」とはならない。むしろ、より一層大事なものとして守っていかれる人もいるだろう。
 「あの人だったらなんというだろうか」「今ここにいたら、どうするだろうか?」とその人のふるまいや、まなざしを意識して行動する人もいる。それらは、いずれも「死者と共に生きている姿」と呼ぶことはできないだろうか。

 そういう「死者のまなざし」や「死者の想い」を汲みながら生きる人がもつ強さがあることを私たちは知っている。死者とともに生きる生き方は、自身と自身の周りにあるものと丁寧に向き合い生きる姿を育てるものであるようにも思う。

〇故人に想いを向ける仏事の時間

 今は、お盆。多くの人が故人に想いを向け、仏事を営む。
 僧侶である私も、多くのご家庭で仏事をともに営ませていただく。僧侶としてできることは、それぞれの方が丁寧に故人と向き合われること、思いを向けられることに「たちあう」ことなのではないかと思っている。僧侶ができることは、その「むきあい」が、大切に、丁寧に行えるように、丁寧におつとめをはじめとした仏事を行う事、故人との向き合いが立ち上がってくるようにお手伝いすること、そういうことなのではないかと思っている。



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