(※現在8月29日、さかのぼって記述している)
8月25日(木)。晴れ。
◎法務
午前中はお参り。前日に記載していたように葬儀のおつとめもあったが、父に導師をつとめてもらい、私の方は通常の月参りを中心にまわる。
◎伝道院に出講
午後からは、京都に移動し、伝道院にて布教使課程の講義に。7回シリーズの七祖の講義、5回目で善導大師。
前日の夜中1時ぐらいまで、どうまとめたものかと、試行錯誤していた。
13:30~16:30までの3時間。古今楷定のポイントをテキスト記載の事項を中心にまとめてお話する。
16:45の夕事勤行では、法話を担当。力なきものの力、無力なものの力、ということを、こちらに、以前書いていたことを例に出しながらお話した。
◎夜座(伝道院)
すこし待機時間を経て、19:00からは、夜座をおつとめ。
夜座については過日ブログに書いたこちらの記事「「法座を開く」というカリキュラムについて」(https://ryogo1977.blogspot.com/2022/08/823.html)を参照されたい。
19:00からの夜座は、布教使課程の研修生が中心になって運営してくれた。
外部からの参加者も数名あり、いつもとは違う緊張感もありながら、「仏教の法味・よろこび」を同じくする人が集う場ならではの、雰囲気もあったように思う。
開会のあいさつ、説明のあと、勤行、研修生2名からそれぞれ15分ずつの法話、その後、休憩はさんで意見交換会、散会というスケジュール。
正直いうと、想像以上によかったという印象。
受講生の皆さんは、非常に丁寧に真摯に、運営・進行をされていた。拙さを感じる部分はあったが、それもふくめて丁寧さ・真摯さとして伝わるものがあったように思う。
やはりお聴聞の人がいらっしゃると、緊張感は増すようで、いつも以上に法話する受講生が緊張していたのが伝わってきた。また、普段ならしないと思われるようなところで、お話することが飛んでしまうという部分も。しかし、それでも場がしらけたりすることはなく、むしろあたたかな雰囲気で、話し手を見守ってもらえているようであった。
細やかなところはともかくとして、このような「法座」を経験できたということは、研修の上で、その意味は小さくないように思っている。他所に出ることなく、伝道院の中でこのような実際の法座を開催し、実習できる場を得たということ。そして、その場で得られるものは、自身の技術を磨くということだけはないように思う。
住職・僧侶がよく言う言葉に「門信徒に育てられる」という言葉がある。布教を行う布教使もお聴聞してくださるみなさんに育てられるのだろう。講師ともよばれ、話し手である布教使の方が、聴衆(お聴聞のみなさん)に育てられるのだ。
そのような意味で、なによりの研修・教育の場がこの「夜座」ではないかとさえ思える。
今回は法話する上で「失敗」があったが、あたたかく見守られる空気があった。そういう経験を研修生さんができたこともよかったと思っている。
人前で話す立場になって思うことだが、話し手側の自信やスキルなどは、時として非常に脆く崩れ落とされてしまうことがある。自分の側に積み上げる自信よりも、その身を置いている場、目の前にいる人に対する信頼の方が自分のなかでは、より大きなものではないかと思っている。失敗したときも、あたたかく見守ってもらえたという経験、場合によっては助け舟が前から出してもらえるかもしれない、投げかけに応じてもらえることもそうかもしれない。法話や講演の現場は、目の前にいる人が「敵」や「評価者」ではなく、その場を楽しみ、期待して足を運んでくれた人であるということ、一緒にこの場(今回は「法座」)を作ってくださる仲間となりうる人であると信頼したうえで場に臨むことで、まったく異なる地平が開かれてくるのではないだろうか。
今回研修生のみなさんに伝えられてよかったと思っていることは、そういう「場」、目の前にいる人に対する信頼を持ってその場に立つということができるのだということだったように思っている。これは、研修機関ではおよそできない、リアルな現場・法座だからこそ立ち上がってくる空気間ではないだろうか。
この「夜座」これからうまくいくこともあれば、うまくいかないこともあるだろう。お聴聞の人が今日のようにいらっしゃらないこともあるだろう(きっとあるはず)。そういう「人がこなかった」ということも含めて、場を作っていく上で、(法座を開設するというこの枠組みの設定からすると本来的な意味で)生々しいリアルな経験を積み上げていくことができたらよいと思っている。
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