浄土真宗を日本有数の仏教教団にした、本願寺第八代蓮如上人の言葉として、次のようなものが伝わっています。
一、一宗の繁昌と申すは、人のおほくあつまり、威のおほきなることにてはなく候ふ。一人なりとも、人の信をとるが、一宗の繁昌に候ふ。しかれば「専修正行の繁昌は遺弟の念力より成ず」(報恩講私記)とあそばされおかれ候ふ。
『蓮如上人御一代記聞書 』
(※ 大まかな意訳:仏教の繁昌というのは、人がたくさんあつまったり、勢いが大きく盛んになることではありません。一人であっても、信心を獲た人がいることが、繁昌というものなのです。そうであるから「浄土真宗の教え、専修念仏の教えが繁昌するということは、親鸞聖人が亡くなられた後の門弟たちの信心の力によって成就するものである」と(本願寺第三代の覚如上人の『報恩講私記』には)述べられているのです。)
仏教/お寺とはなにか、なにをすべきかということに、しばしば思い返し、考えさせられることばです。 たくさんの人に知られる、たくさんの人がやってくる、ということは、決してお寺の本来的/本質的な意味ではないのだと知らされる言葉です。
それらは、お寺のあるいは僧侶である私の行っていることの意味を測る軸にはなりえない(してはいけない)のだというのです。
では、「一人なりとも、人の信をとる」ということは、どういうことか。これもまた具体的に理解していくことが難しいことです。このことさえも、つかんだと思ったところに落とし穴や、過ちが潜んでいるようなことでもあるかもしれません。
仏教徒として、お寺とはどうあるべきか、僧侶のなすべきことはなにか。
簡単に答えが得られないし、また「見えやすいもの」「わかりやすいもの」に対してそれではないよ、という警句がちゃんと示されています。
また、そういった言葉を通して、常に問わざるを得ないし、なにかに安住することもできない。常に、自分がつかもうとするものを相対化させられる中でしか、なすべきことはみえないのではないだろうか?とも思ったりしています。