9月中頃から大学の後期の講義が始まり、お彼岸や法要もあり、種々の予定もあり、あっという間に時間が流れていっている感覚で、日々過ごしています。
一息ついている間に、「もう1週間たっていた」みたいな。
今日は、相愛大学で仏教の講義でした。
仏教の「縁起」について、幾つかの角度から講義・お話をした。
ここでは詳細にいえないけれど、
基本的には、仏教は、「物事には、因(原因)・縁(種々の条件)がある」とすること。あらゆる事象に因・縁を認めるということは、「絶対的な始まり」みたいなものはないということになるし、仏教は世界の”絶対的な始まり”や世界の創造みたいなことはいわないということになる。例えば、ビッグバンから世界がはじまったというのならば、さらに「ビッグバンはなぜおこったのか(ビッグバンという事象(結果)には、因・縁があるはず…」というような、どこまでも遡及しつづけるような視点を提示している。
また、原因と結果というつながりのほかにも、関係性や条件によって種々に見方を変えていくということもある。「私」はひとりではなにものにもなりえず、子どもの前に立つことで「親」となったり、親の前に立つことで「子」になったり、妻の前で「夫」となり、生徒の前では「センセイ」となるが、師の前では「弟子」となるような…。
まあ、そんな、ややこしいことをあれこれとやって、学生さんからリアクションペーパ(感想)を書いて提出してもらったものを、眺めているとみなさんいろいろと考えてくれていたのだろう様子をうかがうことができたのだが、特に今日は個人的にツボる感想があった。
それは、こんな感想。
(前略)前回、仏教(釈迦)の考えはポジティブで良いなとおもったけれど、今回の授業を受けて物事には因と縁があるよね、とか生と死の考え方とか、めんどくさい人に詰められている感覚になった…(以下略)
仏教は、「Aだ」とか、「Bだ」とかハッキリとこれというものを示すよりも、むしろ「非A、非B」みたいに、「Aでもなく、Bでもない」とか、「仮に◎◎と名付けるような」はっきりしない、宙ぶらりんに置かれるような立場を示すんですよねーみたいな話をしていたので、「ややこしいことをいいますけど」みたいなことを何回か口にしていたような気がしている。
そのなかで、上のような感想は、むしろ「しっかりと聞いてくれていた」ということでもあるし、率直な感想がやってきたと、むしろうれしいものだった。笑
僕の仏教の授業を聞いて「めんどくさい人に詰められている感覚」というのは、これは個人的には最高のリアクションである。笑