鷲田清一先生は、ある本の中で、次のようにいわれていた。
「アイデンティティといえば生涯を貫く一本の糸のように変わらないものと考えられることが多いが、わたしは逆で、「じぶんはだれか?」と問うときには、じぶんがこれまで出会い、それを機にじぶんが打ち砕かれてきたその不連続の出来事、そして自分を打ち砕いた相手の名を列挙することのほうがはるかに実情に近いとおもっている。「まなび」は他者をとおして起こるものであり、あのときはわからなかったが今だったらわかるというふうに、長い時間のなかでじっくり醸成されてゆくものなのだからだ。」
(『おせっかい教育論』)
自分とは何か。
その問いに答えるには、「自分はこういう人間だ」と、確固たる不変の自分を見つけることのように思いがちだ。けれど、鷲田先生のこの言葉を借りれば、どれだけ自分を打ち砕いた出来事を経験したか、どれだけ自分を打ち砕いてくれる人と出会えたかということになるのだろうか。
育てられ、影響を与えられ、いまの自分があるとするならば、「わたしはどうであったか」というよりも、「だれがわたしをこのようにしてくれたのか」を語る事の方が、実情に近いし、生きている実態に近いのではないか。
(※ただし、「アイツのせいで」という、恨みの感情でないことが条件になるだろう)
どれだけの人に出会えたか。
どれだけ自分を変えてくれた人と出会えたか。
その数だけ、大人になってきた、
人として育てられてきたということじゃないかな?
もちろん、偉大な一人の人に出遇って大きく変えられる。
それだけで十分なのかも知れないが。