2010年2月3日水曜日

どたばた。

2週間ぶりくらいの更新。

 いろいろな準備や作業が立て込むと、まずブログの更新が犠牲になる。
 手帳を見返すと、この2週間は、けっこう立て込んだスケジュールだった。
 
 研究所の常勤メンバーは、もっとハードなスケジュールで動いているので、
これくらいでしんどいというのはおこがましい。





五木寛之『歎異抄の謎』 (祥伝社新書 188)
 本屋で見つけて、『歎異抄』の講座を持たしてもらっているのだからと・・・と買った本。
本の大半は、歎異抄の五木訳と原文。それをはさんで、五木氏の概説と、川村湊という人との対談が置かれている。
 目次は
 ・謎にみちた歎異抄
 ・私訳 歎異抄
 ・歎異抄 原文
 ・親鸞の声を聴く 対談 川村湊×五木寛之
 ・『歎異抄』関連書一覧

 既成の理解に縛られず、自由に読まれているなという印象。
 さすがと思わされる「本質」をずばりと突いたような一言も、しばしば見受けられる。

「しかし、私自身も最近、しばしば『歎異抄』のページを繰るようになりました。何十年も前から暗記するほど再読した本です。それにもかかわらず、これまでとまったくちがった光景が行間から起ちあがってくるのです。」(38頁)

「『歎異抄』は、繰り返して読めば読むほどわからなくなる、謎にみちた不思議な本です。/どうか自分でその迷路に迷いこんでみてください。そうすれば、そこに闇を照らす光を必ず見いだすことになるはずです。」(31頁)

 しばしば、教義を学んでいると「こう読まなければならない」、「こう読むのが正しいのだ」と教えたくなる。しかし、それは「知る」に止まり、求道や問いに本当に答えられているかというと疑問。
 本当に「求める」人は、教えられることを求めているのではなく、問いたずねることのできる人やモノを求めているのではないか。
 求めているに歎異抄を手にとってみようと思わせる、その魅力を伝えてくれる本じゃないかと思った。

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